清水正の『浮雲』放浪記(連載179)

清水正の『浮雲』放浪記(連載179)

平成A年2月6日

先にわたしは伊庭の大日向教とイヴァン・カラマーゾフの大審問官の類似性について書いた。違いと言えば、大審問官には苦悩があり、伊庭にはないということである。大審問官の劇詩がどんなに深刻ぶって書かれていようが、〈手品〉であることには間違いない。大審問官には黙って接吻するキリストが現れているが、伊庭にはいない。伊庭も教主の成宗専造も大日向教は金儲けの為の手段であり、手品の次元を一歩も出ていない。ゆき子は伊庭の手品を鼻先でせせら笑っているが、その手品のおかげで暮らせている。ゆき子も伊庭に劣らぬ悪党であるが、彼女の悪党ぶりが目立たないのは、作者がゆき子のその部分に拡大鏡にさらすことがなかったからと言えようか。とにかくわりを食っているのは伊庭であり、その妻子である。作者は大日向教で贅沢三昧の生活を始めた伊庭一家については全く照明を与えることはなかった。伊庭の妻真佐子は小説の初めから、作者によって人間扱いされていない。三年間、同じ屋根の下で暮らしていた夫とゆき子の情事に気づかなかった真佐子を女と見なすことはできない。真佐子は〈伊庭の妻〉という役柄を与えられた木偶人形の位置に据え置かれている。真佐子は遂に最後の最後まで妻として、女として、人間としての声を封じられたモノでしかなかった。
 とにかく真佐子に限らず、『浮雲』において富岡兼吾の妻邦子、富岡兼吾の愛人ニウ、富岡兼吾がゆき子以上に惚れたおせいなど、富岡兼吾と幸田幸子の〈腐れ縁〉の持続に邪魔となるような人物や出来事はばっさりと省略されてしまう。
 成宗専造と伊庭杉夫が大日向教の教義に関して真剣にやり合うなどという場面は全くない。彼らは教主と会計担当という役柄だけで存在しているようなもので、〈手品〉をせざるを得ない人間の悲哀や絶望には全く触れてもらえない存在なのである。わたしは『罪と罰』を読んでいてもつくづく思う。ロジオン・ロマーノヴィチの内面にあれほど頁数を費やしたドストエフスキーであるのに、殺された老婆アリョーナやリザヴェータや、ソーニャの内面には全く照明を与えようとしない。ソーニャの場合はロジオンの想像作用によってそれなりに浮かびあがってくるが、もっともひどいのはアリョーナ婆さんである。彼女はロジオンの生理的嫌悪感で塗り込められた卑劣で醜悪な肖像画のみが前面に押し出され、首都ペテルブルグを腹違いの妹リザヴェータを抱えながら高利貸しとしてたくましく生き抜いてきた側面や、未亡人としての悲哀などいっさい触れられない。ロジオンの想像力は母親プリヘーリヤや妹ドゥーニャに対しては豊かに発揮されるが、アリョーナ婆さんに関しては固定観念を一方的に押しつけるばかりで、まったく包み込む愛の想像力が欠如している。
 『罪と罰』の読者の大半は、ロジオン・ロマーノヴィチの内部視点に寄り添って読み進めていくから、彼の主観の色に染められやすい。若い頃に読めば、まさに読者はロジオンと同一化してアリョーナ婆さんの頭上に斧を打ち下ろすのである。還暦を過ぎてまで、ロジオンの主観から抜けきれずにいる者もいるから、その影響力たるや恐るべしである。
 『浮雲』の読者もまた、幸田幸子の視点にばかり寄り添っていると、伊庭の肖像を一義化して〈モノ〉化してしまう危険性がある。幸田ゆき子が人間なら、伊庭杉夫もまた歴とした人間なのである。保険会社の人事課に勤め、実直な男の評判をとっていた伊庭が、敗戦後、どうして宗教手品に手を染め、深みに入っていったのか。それを〈モノ〉化され、客体化された伊庭に向かって問うのではなく、あくまでも妻もあり子もいる、人間伊庭に問わなければならない。が、作者は伊庭を富岡兼吾扱いすらしていない。ゆき子は伊庭の妾になって暮らしをたてることにした女である。当然、伊庭との肉体関係は定期的にある。富岡兼吾に未だ惚れているゆき子が、どのように伊庭に抱かれていたのか。作者はいっさい描かない。富岡とゆき子の情事は性愛であるが、伊庭とゆき子の情事は一種のとりきめ(提供された金の対価としての肉体提供)に過ぎない。ゆき子は十九歳の時から、伊庭とそういう関係を続けており、間に富岡兼吾やジョオとの関係を挟んでいたとは言え、別に生娘が抱くような苦痛や嫌悪があるわけではない。肉の欲求のみに充足し、それで生活が保障されるとなれば、女は〈妻〉の座に居座り続けることもできるし、〈妾〉となることもできる。そこに女のたくましさもしたたかさも見ることができようが、ゆき子の場合はそこにとどまることはできなかった。ゆき子は生活が安定するだけでは充足できない。彼女の深淵には不断に妖しく生動するマグマが蓄えられており、伊庭はこのマグマの熱い生動に応えることができない。女のマグマの熱い生動に応えられない男は、いくら財産があり、地位があり、権力があっても、その女を真に満足させることはできない。若いヴロンスキーと不倫の関係に走ったアンナ・カレーニナを想起すればよい。
 女は子供があってすら、惚れた男に後先考えずに跳ぶことができるのである。フョードル・カラマーゾフの最初の妻アデライーダは三歳の息子ミーチヤを捨てて師範出の貧しい教師と駆け落ちしてしまう。もちろん跳べない女も存在するが、そういった女性は小説のヒロインには向かない。