清水正の『浮雲』放浪記(連載184)

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清水正の『浮雲』放浪記(連載184)
平成A年2月14日

ゆき子は伊庭の心の奥底に踏み込んでいくこともしないし、中庭の〈干物〉にも余計な詮索をめぐらせることもしない。ゆき子のまなざしはあくまでも水平的に移動し、鋭く垂直的に深層を掘り下げることはない。ゆき子は、大日向教商売を〈水商売にも似たからくり〉と見なし、伊庭を敗戦後登場した〈異常な心理を持った人間〉の一人と見ているが、そのことを話の俎上にのせることはしない。ゆき子は伊庭に人生上の師を求めているわけではない。ゆき子にとって伊庭は、富岡と違って性愛的な魅力のない〈ろくでなし〉であり、彼との関係は金を仲介にした〈取り引き〉〈駆け引き〉の次元にとどまる。大日向教を通して、真剣に人生に向き合い、神仏の本質を問うというのであれば話は別だが、ゆき子にそういった志向性はない。ゆき子は謂わば、行き当たりばったりで生きている女であり、明確な人生目標や幸福観があったわけではない。ゆき子は、目の前にぶら下がったおいしいものは後先考えずに口にしてしまう、〈現在〉優位的な女である。まさにゆき子は、〈現在〉という戦場で闘うタイプの女であり、こういった女に一般世間並みの倫理や道徳の物差しを当てて判断しようとしても無駄である。そういう意味ではニウも邦子もゆき子との戦いに敗北しただけの存在ということになる。一人、おせいだけは、ゆき子とのバトルに勝ち抜いたが、内縁の夫清吉に殺害されるというアクシデントによって、不本意ながらバトルから撤退せざるを得なかった。
 ゆき子は、作者の応援もあって、富岡をめぐるバトルには勝ち残るが、『浮雲』に登場する女のすべてに勝ち抜いたわけではない。大日向教という新興宗教の場においては、伊庭の妾になったゆき子よりも、教祖・成宗専造の女になった大津しもの方が確実に勝利をものにしている。おちついた部屋で伊庭とくつろいでいるゆき子よりも、洗濯女にまでなって成宗専造の心をつかんではなさない大津しものほうが、はるかにしたたかな女の貌を備えている。
 伊庭はゆき子を前にして、自分の眼利きであることを誇っているが、ゆき子の心を見抜くことはできない。ゆき子は、伊庭の仕事を手伝うことは、あくまでも〈一時しのぎ〉と思っている。ゆき子にとって大日向教は〈ばかばかしい仕事〉であり、それ以上のものではない。ゆき子は、〈何かのよりどころ〉を掴もうとはしているのだが、その〈何か〉は依然として霧の中にある。
 ここで、ゆき子が思っていることは、作者が代弁するかたちで読者には伝えられるが、〈眼利き〉を誇る伊庭には伝わっていない。伊庭が、ゆき子の内心を的確に看破し、大日向教商売のばかばかしさ、その一時しのぎを前提にして、人間が本来よりどころとしなければならない〈何か〉を共に掴もうという姿勢を見せれば、この二人の対話場面はまったく様相を異にしたかもしれない。が、ゆき子自身に、伊庭に本来的なものを望み、共に生きようとする心持ちがまったくない。彼らにあるのは、肉で結びついた関係の堆積だけであるようにさえ思える。女と男は、精神的な愛情などなくても、肉と肉で結びつくことができ、そういった関係を長年続けていくうちに、汚れや裏切りの感覚さえ麻痺していくのであろう。ゆき子と伊庭の三年間の関係は、真佐子に対する〈裏切り〉であり、二人の肉と肉の関係は同時に罪の感覚で味付けがされている。真佐子に対して二人は共犯関係を取り結んでおり、この罪の感覚を共有している二人のくつろいだ会話であることを忘れてはならないだろう。しかも、ゆき子は伊庭と話しながら、富岡のことを一時も忘れていない。ゆき子の罪深さは、〈眼利き〉の伊庭をはるかに越えている。そして、このゆき子ですら、大津しものまなざしによって串刺しされているのである。女流作家林芙美子ならではの、容赦のない描写であると言えようか。