清水正の『浮雲』放浪記(連載178)

清水正の『浮雲』放浪記(連載178)

平成A年2月2日

「煩悩具足の衆生は、いずれにても生死をはなるることかなわず、哀れみ給え、病悪の正因をぬぐい去り給え。大日向の慈悲を垂れ給え」伊庭の狂人の様相で口にする言葉に嘘偽りがあるわけではない。問題は、伊庭がそれを信じてもいず、宗教商売上の口上として発していることにある。伊庭にとっては信仰よりも商売が優先する。救いよりは金である。大日向教が金にならなければ、伊庭は即刻大日向教をやめるだろう。それにしても伊庭は『罪と罰』のルージンのような男で、予め神の口から吐き出されてしまったような救い難き男であるが、当の本人が神を求めていないので〈生ぬるい〉ことに微塵の問題も感じていない。イヴァン・カラマーゾフの大審問官は不断にイエスの存在を意識し、対抗し、反逆の牙を潜めているが、ルージンや伊庭にはイエスに向けられたまなざしが完璧に欠けている。ルージンの生きる舞台はロジオンやソーニヤを主人公とする『罪と罰』であるから、彼の〈生ぬるさ〉は際だっているが、伊庭の場合は、他の人物もまた生ぬるき者たちばかりなので、彼の〈生ぬるさ〉は厳しく告発され糾弾されることはない。
 わたしは『罪と罰』の舞台からさえ吐き出されてしまったルージンのその後が気にかかってしまう読者である。ユダヤキリスト教の神が求めているのは〈熱いか冷たいか〉そのどちらかであって、生ぬるき者は彼の口から吐き出されてしまう。娼婦のソーニャ、殺人者のロジオンは復活の曙光に輝くが、ルージンは永遠に救いの途を閉ざされてしまう。吐き出された者たちをユダヤキリスト教の神は放っておくばかりで、二度と再び救いの手をさしのべることはない。
 インチキ宗教を起こした伊庭や教祖の成宗専造は金儲けはできても救われることはないだろう。救いを単純に魂の安逸と見なしても、金第一主義の人間に心の平定は困難である。伊庭にだまされているとも知らずに、大金を寄付する信者のほうがまだ救われるかもしれない。
 さて、伊庭の手品の種をお見通しのゆき子はどうであろうか。大日向教を〈うまい商売〉と見なしているゆき子は、積極的に伊庭の側に寄り添うことはしないが、かと言って伊庭を非難することもしない。伊庭とゆき子は〈同じ森の獣〉のように、お互いの卑劣・卑小をオブラートに包んで後生大事に抱え込んでいる。作者はゆき子の内部視点に同化して、伊庭をゆき子の側から映し出す傾向が強いので、うっかり読んでいくと伊庭の悪党っぷりばかりが目立つが、冷静に二人を見れば、ゆき子もまた相当の〈悪〉である。ゆき子が唯一、ロマンのヒロイン役として認められるのは
、富岡兼吾に対する熱い欲情においてのみである。惚れた男に向けられた欲情であるから、これはきわめて個人的な恋情であり、遠慮や分別を越えた利己主義の発揮である。ゆき子は富岡兼吾との関係に踏み込むに際して、彼の妻邦子や愛人ニウのことを慮ることはなかった。ゆき子は父母、弟姉のことを思い出すことはなく、伊庭と関係を結んでも妻真佐子を特に意識しない。これはゆき子がそうであったというよりは、作者がそういったことを敢えて書かなかったといったほうがいいだろう。作者は一編の小説で何もかも描き出すことはできない。省略すべきものは大胆にばっさり削ったほうが、作品に力が備わる。作者が伊庭と真佐子、富岡と邦子、富岡とニウ、富岡とおせいの関係などをもし緻密に描いていれば、富岡兼吾と甲田ゆき子の関係は相対化され密度の低いものと化してしまっただろう。富岡とゆき子の関係を第一に考えれば、ゆき子と伊庭の関係、特に濡れ場などは描かずにおいたほうがよいということになる。
 
 伊庭は「手をちょっと震わせて、怪し気な祈祷をして、五百円の金」にありついた後、机から外国煙草を出して一服つけながら、「河内山といった、卑しい胡座の組みかた」をして、次のように言う。

 「どうだ、世の中はおもしろいだろう? たいしたことはないンだ。人間というものは信用させさえすればいいンだ。手品なンだ。まんまと、大日向のエーテルを噴きつけてやれば、病人は息を吹きかえすンだよ。もう、昔のような、月給取りの暮しには戻れないじゃないか‥‥‥。衆生なンてものは、神や仏は持っちゃいないのさ。自分で持てないから、小金を積んで、神仏の慈悲を買いに来る。それを心得て、ここでは大日向教というものを製造して売ってやるンだ。みんなよろこんで買って行くンだな‥‥‥」(342〈四十六〉)