清水正の『浮雲』放浪記(連載90)

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清水正研究室」のブログで林芙美子の作品批評に関しては[林芙美子の文学(連載170)林芙美子の『浮雲』について(168)]までを発表してあるが、その後に執筆したものを「清水正の『浮雲』放浪記」として本ブログで連載することにした。〈放浪記〉としたことでかなり自由に書けることがいいと思っている。




 清水正の『浮雲』放浪記(連載90)

平成□年2月20日

〈四十〉章を読む

  富岡と別れて十日ばかり過ぎた。
  ゆき子は思いきって、近所の小さい婦人科医を尋ね、軀を診て貰った。子供をおろしてしまうにはどうしても五六千円の金がかかる様子であった。富岡に別れて以来、ゆき子は、日がふるにしたがって、富岡へ対して腹立しくなっていた。子供を産むには産むような助けをして貰わないことには、現在のゆき子はどうにもできなくなっているのだ。お互いに逢っている時だけの、だましあう二人の供述心理は、お互いにその深い原因にはふれたくない、芯はえぐりたくない、甘さだけに溺れているとも言える。(319〈四十〉)

 前章の陸橋から、富岡とゆき子の二人はどのような言葉を交わして別れたのだろうか。〈三十九〉章の終幕場面から〈四十〉章の開幕場面の間に、恐るべき空白が潜んでいる。作者はここで十日後のゆき子に眼差しを向けているが、わたしのような読者は、十日前、富岡がどのような顔をしておせいの部屋に戻り、おせいとどのような修羅場を演じたのかが知りたい。富岡の卑怯は、富岡とゆき子の会話だけでは鮮明に浮上しない。富岡とゆき子の会話の後に、富岡とおせいの会話を描くことで、富岡の存在の卑劣さと弱さが浮上する。作者がそれをしなかったのは、富岡の卑劣を浮き彫りにするというよりも、富岡とゆき子の関係の続行にこだわったからであろう。
 ゆき子は婦人科医を尋ね、躯を診てもらう。富岡と陸橋で別れて十日がたっている。おそらくこの十日の間に、富岡からは何の連絡もなかったのであろう。子供を産んでほしいと口にしながら、十日も放っておく富岡を責めてもらちがあかない。富岡はそういった男なのであるから。十日の間、富岡はおせいや邦子に対してどのように振る舞っていたのか。そのことに想像をめぐらせば、富岡がゆき子のもとへやってこられない事情も分からないではない。いずれにせよ、ゆき子にとっては十日が限度であったということになる。作者はゆき子が十日の間に妊娠した子供のことをどのように思っていたのか、いっさい書かない。どんなことがあっても、愛する富岡の子供を産みたいという気持ちはゆき子には希薄である。ここで忘れていけないのは、富岡の子供を産んだニウである。子供を産むことを決断したニウと、堕胎することを決断したゆき子とでは、富岡に対する関わり方や命に対する考えが根本的に異なる。
 ゆき子が堕胎を決断したことに関しては、先にも指摘したように、その子供が富岡のものという保証がなかったことにもよる。ジョオの子種であった場合は、いかなる弁解も通用しないことになる。ゆき子が問題にしているのは、産むか堕すかの二者択一ではなく、堕胎費用である。作者は「子供を産むには産むような助けをして貰わないことには、現在のゆき子はどうにもできなくなっているのだ」と、ゆき子の側に立ったような書き方をしている。確かに経済的な援助がなければ、ゆき子は子供を産むことも育てることもできない。しかし、経済的な理由だけが、堕胎の原因ではない。
 作者は「お互いに逢っている時だけの、だましあう二人の供述心理は、お互いにその深い原因にはふれたくない、芯はえぐりたくない」とも書いている。作者は〈だましあう二人の供述心理〉の具体を描いていないので、想像力を働かせない読者は見過ごすことになるが、ゆき子の〈妊娠した子供〉に対するさまざまな思いや、富岡が内心では絶対にゆき子は子供を産まないことを確信した上で子供を是非産んでくれなどと口にしていることなどを思うと、彼らの〈心理〉は相当に複雑で、深い闇を湛えているということになる。ドストエフスキーであれば、〈だましあう二人の供述心理〉を徹底して解剖することになろう。こういった心理を容赦なく暴き、告発し、裁きの場に連行して、罪や罰や赦しを問うのがドストエフスキー文学の特質性をなしている。林芙美子の場合は「お互いにその深い原因にはふれたくない、芯はえぐりたくない、甘さだけに溺れている」富岡とゆき子を垂直的な槍のような眼差しで射抜くことはしない。深い原因に触れたくない、芯をえぐりたくない、甘さだけに溺れていたいという、ゆき子の思いをそのまま大きく包み込んで、その〈だましあう二人の供述心理〉に冷徹な眼差しを注いでいる。林芙美子の眼差しは告発し裁く、唯一神的な神の眼差しとは全く性格を異にしているのである。

  ゆき子は、富岡の心のなかを洞察していた。
  日がたつにつれ、ゆき子は富岡へ対して憎しみが濃くなり、あのような薄情な男の子供を産んでなるものかといった、恨みっぽい気持ちになり、ゆき子は思いきって、伊庭に何もかも打ちあけてみた。身軽にさえなれば、何としても働いて返済するつもりだった。伊庭は、ゆき子の告白を聞いて、いっそ、そのような覚悟ができているのならば、金も出してやるが、身軽になったら、教団へ来て仕事を手伝ってくれないかと言った。自分には、仕事の途中だから、他人よりも、気心の判った腹心の秘書が欲しいのだと言った。(319〜320〈四十〉)

 ゆき子は〈薄情な男〉富岡に憎しみと恨みの感情を抱くが、この感情が富岡との決定的な決裂に至らないところが面白い。作者は「ゆき子は思いきって、伊庭に何もかも打ちあけてみた」と書いている。〈何もかも〉とは大雑把な言い方で、その中身を具体的に知ることはできないが、話の流れで考えれば、富岡の子供を妊娠したこと、堕胎のための金がないことなどを話したのであろう。この〈告白〉は富岡に対する復讐であり、伊庭に対するすり寄りを意味する。こういった女の媚びを嫌う男も稀にはいるが、たいていの男はすり寄られて悪い気はしないものである。
 伊庭は、単なる女好きというよりは、女との関係にもしっかりと打算が含まれている。この打算はまさにレベジャートニコフがマルメラードフに語った、同情などというものは学問上ですら禁じられているという功利主義的経済原則に則ったもので、ゆき子の肉体供与に対する等価交換としての下宿代+タイピスト学校の月謝支払いを意味していたように、ここでもまたゆき子に堕胎費用を貸すことはそれに値するものとの交換を求めている。一つは教団の仕事を手伝うこと、すなわち伊庭の〈腹心の秘書〉となることだが、この要求の中にすでに伊庭の妾になることも含まれている。もちろん、ゆき子はそのことを承知の上で伊庭に、富岡とのことを〈何もかも〉告白したのである。ふつうなら、この伊庭との新たな契約を交わした時点で、富岡との関係はきっぱりと切れている。しかし、すでに何回も見てきたように、富岡とゆき子の関係は、どちらかが死なない限りは破綻しないのである。否、死んですら関係が続くという恐るべき〈腐れ縁〉なのである。