清水正の『浮雲』放浪記(連載89)

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清水正研究室」のブログで林芙美子の作品批評に関しては[林芙美子の文学(連載170)林芙美子の『浮雲』について(168)]までを発表してあるが、その後に執筆したものを「清水正の『浮雲』放浪記」として本ブログで連載することにした。〈放浪記〉としたことでかなり自由に書けることがいいと思っている。




 清水正の『浮雲』放浪記(連載89)


平成□年2月19日

 富岡は、おせいに対して「一度、自分で思いこんだら、なかなか、もとへ戻してやるのが大変なンだ」と言う。おせいにしてみれば、自分の部屋にとつぜんゆき子が訪ねて来た以上、富岡がゆき子と未だ切れていないと思いこむのは当然である。はたして富岡はおせいの気持ちを「もとへ戻してやる」ことができるのか。富岡がおせいに、ゆき子のことをどのように話していたのか。作者はいっさい触れていないので、読者が勝手に想像するしかないのだが、おそらくゆき子とはもはや関係はないぐらいのことを平気で言っていたと思われる。富岡がおせいにどのような弁明をするのか見物だが、作者は富岡とおせいの関係の現場にカメラを持ち込んでまで描きあげる情熱はなかった。富岡とゆき子の腐れ縁のドラマを続行するためには、おせいは体よく始末されるほかはなかった。
 作者は富岡とおせいの、大変な〈今夜〉を描く気はない。富岡は「まア、そんな話はやめよう。今度の日曜日にでも、尋ねて行く。子供のことは、それまで待っててほしいな」と話題を変えてしまう。ゆき子にしてみれば、富岡がおせいとの〈大変な今夜〉よりも、子供のことについて触れてくれたことにありがたさを感じることになる。まったく、富岡という男は天才的な詐欺師の素質を持っている。富岡は続ける「案外、君が、僕の気持ちを判ってくれたンで、何だか、気持ちがとても楽になったし、晴々した」と。ゆき子は富岡のどんな気持ちを判ったというのであろうか。批評の眼差しは富岡のずるさと卑怯と弱さをのみ理解するが、ゆき子はおせいの部屋を足溜りにして生活を共にしている富岡の何を理解したというのであろうか。
 富岡がゆき子に強調したいのは、おせいとの関係はうまく行っていないということである。そのことをゆき子が理解し、怒りを抑えてくれれば、富岡の気持ちは楽になるのである。「おせいのことにこだわるようだが、きっと、近いうちに、これも、解決するつもりでいる」これは富岡にしてみればゆき子を説得する殺し文句であったはずだが、もはやそんなセリフにたぶらかされるゆき子ではない。ゆき子はすぐに「そんな、急に、坊ちゃんみたいなこと言わなくてもいいわ。なりゆきに任せています」と応えている。ここでゆき子の口から〈坊ちゃん〉という言葉が出ていることに注意したい。ダラットでは優秀な山林事務官として、ゆき子の上司であった富岡が、ここでは単なる〈坊ちゃん〉扱いをされている。
 夏目漱石の『坊ちゃん』を持ち出すまでもなく、〈坊ちゃん〉は自分の追かれた状況を客観的に把捉し、組織の中でどのように振る舞えばいいかなどという配慮をしない。自分の思う通りに行動し、組織と対立すればさっさと辞表を出して辞めてしまう。清という祖母に可愛がられて育った〈坊ちゃん〉に限らず、祖母に人一倍可愛がられた子供はわがままに育ちやすい。志賀直哉三島由紀夫などはその典型である。芸術家や小説家として才能を存分に発揮できた者はいいが、まずこういったわがまま者は組織から疎外され孤立化する傾向がある。
 富岡がどのように育ったかはまったく触れられていないが、彼が農林省を一方的な理由で辞めたこと、専門でもない商売に手を出して失敗したこと、面倒を見切れないのに次々に女と関係してトラブルを起こすことなどを考えると、要するに彼には彼の行動を厳しく監視し指導する〈父親〉がいなかったということになる。富岡の父親は設定上存在するだけで、名前もなければその肖像も描かれていない。〈父親〉が実質上不在であるのはゆき子の場合も同じである。
 芙美子は男は描けても〈父親〉を描くことはできない。芙美子は実父の宮田麻太郎に捨てられた子供である。母キクが再婚した男・沢井喜三郎は母より二十歳も年下であった。芙美子にとって喜三郎は父親というよりは、母キクの男という気持ちが強かったであろう。『浮雲』という小説において富岡とゆき子二人の〈父親〉の存在が異常に希薄なのは、やはり林芙美子の生涯に深く関わっていると思わざるを得ない。ゆき子が東京へ出て来て最初に肉体関係を持った伊庭杉夫は、妻子のある〈夫〉や〈父親〉である前に〈男〉である。ゆき子は一週間目に伊庭に強姦されても、そのこと自体を倫理や道徳で非難することはないし、それどころか不倫の関係自体に罪の意識を覚えて苦しむことがない。
 ゆき子は「私、もう、本当を言えば、私のことだけで、やぶれかぶれなのよ。おどかして言ってるンじゃないの……。判るかしら?」と言う。ゆき子に希望の前途が見えるわけではない。ジョオとの関係に真の希望の灯がともったわけでもなく、富岡との伊香保旅行も何ら新たな可能性を引き出すことはなかった。富岡の性愛の対象は明らかにゆき子からおせいへと移ってしまった。そんな中での妊娠である。ゆき子が〈やぶれかぶれ〉になるのも当然である。ゆき子は「おどかして言ってるンじゃないの」と言っているが、これは素直な感情から出たセリフである。富岡とゆき子は二人ともに、すでに語るべき言葉を喪っている。作者は二人の姿を引いて描き出す。

  二人は陸橋のところまで来て、白い石の欄干に凭れてしばらくそこへ立っていた。橋の下を轟々と電車が走って行く。(319〈三十九〉)

 ここまで来れば、批評は二人と共に橋の欄干にもたれて、橋の下を轟々と走っていく電車を見ているほかはない。今更、飛び込み自殺もできないが、二人して明るく元気に歩み出すこともできない。もし、ここで『浮雲』が幕を下ろしていたら、それはそれでこの小説の結末にふさわしいものであったろう。
 が、『浮雲』は全六十七章で、この場面はまだ三十九章の終幕部の場面に過ぎない。はたして林芙美子は富岡とゆき子の腐れ縁をどのように描き続けていくのだろうか。