清水正の『浮雲』放浪記(連載91)

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清水正研究室」のブログで林芙美子の作品批評に関しては[林芙美子の文学(連載170)林芙美子の『浮雲』について(168)]までを発表してあるが、その後に執筆したものを「清水正の『浮雲』放浪記」として本ブログで連載することにした。〈放浪記〉としたことでかなり自由に書けることがいいと思っている。




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 清水正の『浮雲』放浪記(連載91)
平成□年2月21日

二三日して、伊庭は一万円の金を持って来てくれた。ゆき子は身軽にさえなれば、何でもいいから、伊庭の始めた教団を手伝うつもりだった。そして、子供をおろしてしまうと同時に、富岡のことは忘れ、いっさいをご破算して、自分らしい生活に立ち戻りたいと願った。(320〈四十〉)

 堕胎費用が五、六千円かかるところを伊庭は一万円の金をゆき子に持って来る。伊庭は元銀行員らしく金に関する約束はきちんと守る。ゆき子と三年間関係を続けながら、妻にその秘密を嗅ぎつけられなかった伊庭は、描かれた限りで見れば、富岡などよりはるかに現実処理の能力が勝っている。伊庭は女の現実感覚がよく分かっている。富岡は出産費用も、ましてや育児費用も用意できないくせに、子供を産んでくれなどと口にする男である。富岡はゆき子に対して約束を守ったことのない男であるが、伊庭はゆき子に対して口に出したことは守っている。伊庭が持ってきた〈一万円〉が持つ意味は大きい。作者は書いていないが、この日、ゆき子は〈一万円〉を持参した伊庭と肉体関係を結んだ可能性は大きい。伊庭とゆき子の、その打算的な関係を見誤ると、ゆき子という女性を大きく見誤ることになる。成瀬巳喜男はゆき子の負の領域に踏み込むことなく、あまりにも美しく聖人化して描いているが、原作のゆき子は厳しい現実の世界をしたたかに生き抜く女である。
 伊庭の持参した〈一万円〉を受け取ったゆき子は、〈富岡の子供〉を堕胎し、身軽になって、新たに伊庭との関係を構築する決断をする。ゆき子は何回も富岡と別れることを決断し、そのたびにその決断を撤回してきた女であるから、読者はそういうつもりでこの叙述場面を読まざるを得ない。しかし面白いことには、富岡とゆき子の強靱な〈腐れ縁〉を十分に分かっていながら、そのつどゆき子の決断を本気で信じてしまうのである。これは、作者がゆき子の心の流れに完璧に寄り添って叙述しているからであろうか。チェーホフの『かわいい女』の主人公オーレンカではないが、女はその時々の思いに没頭して、その〈現在〉に身も心も委ねる傾向が強い。富岡との〈過去〉にこだわり続けるゆき子においてさえ、ここでは富岡と別れて、伊庭との〈現在〉に生きようとしている。
 ところで、ゆき子において〈自分らしい生活〉とはどういう生活なのであろうか。家族を含め、あらゆる他人に煩わされることのない、自由奔放な生活を指しているのであろうか。ゆき子は伊庭に妻子があることや、富岡に妻や愛人がいることなどは、自分の欲求を抑制する要素とはならなかった。ゆき子の欲求は動物本能的次元で発揮され、知性や理性が前面にしゃしゃり出てくることはない。従って、富岡を獲得するために、愛人のニウや妻の邦子に遠慮したりすることはなかった。欲しいものは欲しい、そのためには手段を選ばずというのがゆき子のやり方である。
 ゆき子が欲しかったものとは何だったのか。それは富岡が自らの空虚な心を埋めて、あるいは空虚な心のままにでも、熱情的にゆき子を求めてくれることであった。要するに、ゆき子はないものねだりをし続ける駄々っ子で、富岡はその犠牲者と言ってもいい。