清水正の『浮雲』放浪記(連載92)

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清水正研究室」のブログで林芙美子の作品批評に関しては[林芙美子の文学(連載170)林芙美子の『浮雲』について(168)]までを発表してあるが、その後に執筆したものを「清水正の『浮雲』放浪記」として本ブログで連載することにした。〈放浪記〉としたことでかなり自由に書けることがいいと思っている。




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 清水正の『浮雲』放浪記(連載92)
平成□年2月22日

一週間ばかり、ゆき子はその産院に入院した。自分と同じような秘密を持った女たちが、一日に二人三人と医者
をたずねて来る。狭い入院室には、二人ばかり、そうした女たちがはいっていた。掻爬が済んだあと、ゆき子は、躯が奈落へおちこんだような気がした。ぐちゃぐちやに崩れた血肉の塊が眼を掠めた時の、息苦しさを忘れなかった。(320〈四十〉)

 ゆき子にとって妊娠した子供は、彼女がこれから新規巻き直して生きていくためには邪魔物でしかなかった。描かれた限りで見れば、子供を堕胎することの罪意識は伝わってこない。作者がゆき子の思いに容赦なく踏み込んで行くと、批評の眼差しがとらえたことにまで触れなければならなくなる。〈だましあう二人の供述心理〉とは、単に富岡とゆき子の場合だけに適用されるのではない。作者芙美子とゆき子の間にも暗黙のうちに成立している。妊娠した子供がジョオの子供であるかもしれないとゆき子が思っていたとしたら、ゆき子における堕胎は一筋縄ではいかない。いずれにせよ、ゆき子が堕胎を決断し実行したことは、〈富岡の子供〉を抹殺したことにほかならない。ゆき子には産み育てる意志は希薄で、一人の女として生(性)を全うしたいという気持ちが強い。
 体の中心部に宿った新しい命に対して、ゆき子は堕胎を決意し、それを実行した。新しい命が〈富岡の子供〉であるなら、ゆき子は子供を殺すことによって富岡に対する恨みをはたしたことになる。ゆき子の富岡に対する性愛の衝動は不断に復讐の念によって味付けされている。富岡が単なる性愛の対象でしかなかったのならば、ゆき子はとっくの昔に〈腐れ縁〉の泥沼から抜け出して、他の男と一緒になっていたであろう。ゆき子の場合は〈富岡の子供〉を始末してさえ、富岡を始末することはできなかった。
 掻爬の直後、ゆき子の眼を掠めた〈ぐちゃぐちゃに崩れた血肉の塊〉は、新しい命を壊された胎児の残骸をのみ意味してはいない。それは富岡とゆき子の性愛の醜悪な関係そのものを具現化したものでもある。ゆき子はその血肉の塊を直視することはできない。そのぐちゃぐちゃの塊に畏れや罪の意識に襲われることもない。言い方を変えれば、ゆき子は掻き出された血肉の塊に感じたものを言葉にすることができない。躯が感じたものは躯のうちに押さえ込んで、知性や意識の言葉に置き換えない。
 堕胎経験のある女の読者は、ここに描かれた叙述だけでゆき子の〈息苦しさ〉を共有するであろう。へたな解説や説明はいらない。躯で感じるものは、躯で感じるしかない。妊娠も堕胎も経験したことのない男には絶対にわからない体感である。

  伊庭が二日目に見舞いに来てくれたが、ゆき子に尋ねたことは、いつ起きて、手伝いに来てくれるかということであった。ゆき子はひどく躯が衰弱していた。伊庭はすっかり大日向教にはまりこんだ人間になりきって、いまは会計事務から、建築用度課を兼ね、金は雨霰のごとく這入って来ると豪語していた。
  ゆき子の部屋に蒲団を並べている女たちも、いつの間にか伊庭の話にきき耳をたてていた。(320〈四十〉)

 「今度の日曜日にでも、尋ねて行く。子供のことは、それまで待っててほしいな」と富岡は言った。が、十日たっても富岡は尋ねて来ない。富岡は口に出したことを実行できないだらしのない男である。伊庭は口に出したことは実行する男だが、情のない男で、堕胎したゆき子のところへやって来ても、躯をいたわる言葉の一つも掛けない。ゆき子の関わった男に、俗に言う男らしい男はいない。作者芙美子の眼から見ると、どんなにいい男に見える男でも一皮剥けばみんな卑劣漢ということになるのかもしれない。