清水正の『浮雲』放浪記(連載107)

清水正への原稿・講演依頼、D文学研究会発行の本購読希望者はqqh576zd@salsa.ocn.ne.jp 宛にお申込みください。 ドストエフスキー宮沢賢治宮崎駿今村昌平林芙美子つげ義春日野日出志などについての講演を引き受けます。

ここをクリックしてください エデンの南   清水正の林芙美子『浮雲』論連載    清水正研究室  
清水正の著作   D文学研究会発行本   グッドプロフェッサー
清水正研究室」のブログで林芙美子の作品批評に関しては[林芙美子の文学(連載170)林芙美子の『浮雲』について(168)]までを発表してあるが、その後に執筆したものを「清水正の『浮雲』放浪記」として本ブログで連載することにした。〈放浪記〉としたことでかなり自由に書けることがいいと思っている。




清水正の著作・購読希望者は日藝江古田購買部マルゼンへお問い合わせください。
連絡先電話番号は03-5966-3850です。
FAX 03-5966-3855
E-mail mcs-nichigei@maruzen.co.jp


 清水正の『浮雲』放浪記(連載107)

平成□年7月9日
 伊庭は「そのうち、ゆき子の家もこぢんまりしたのを買ってやる。何といっても、お前の最初の男は俺だから、そのことだけは忘れられないンだ……」と言う。伊庭は〈お前の最初の男は俺〉と思い込んでいる。それが事実かどうか、作者ははっきりと断定していない。ゆき子はそのことを否定も肯定もしていない。作者はしたたかなゆき子に同調し寄り添っているから、よほど疑り深い読者でもなければ、ゆき子は伊庭に処女を奪われた女ということになる。
 もし、ゆき子が処女だとすれば、処女を奪われた翌朝のゆき子の様子から、妻の真佐子は夫杉夫とゆき子の間に何かあったとすぐに直感するだろう。どんなに鈍感な妻でもそれぐらいの直感は働く。が、作者は伊庭とゆき子の三年間の不倫の関係の磁場に妻の真佐子を参入させなかった。そのことで伊庭とゆき子の関係が保持されたのだとも言えよう。〈関係〉を破綻させ、主流の筋書きをねじ曲げるような人物を敢えて無視しなければ、この『浮雲』という小説は成立しなかったであろう。
 描かれた限りでみれば、ゆき子が伊庭を恋愛の対象として愛していなかったことは確かである。しかしゆき子が三年の間、伊庭と肉の関係を積み重ねたことは事実であり、作者がその二人の濡場を丁寧に描けば、ゆき子と伊庭の関係の実質も浮上してきたであろう。ゆき子は富岡に惚れて、富岡にだけ躯を許していたのではない。ジョオとも関係したし、伊庭との関係も復活させる女である。要するにゆき子は男に対して潔癖ではない。一人の男に身を捧げ続けるといった女ではない。ゆき子は肉体の現実を生きる女であって、自ら肉体にロマンチックな空想を抱くことはない。肉体は腹がすけば食い物を求めるし、性欲が高じればセックスを求める。ゆき子はそういった欲望に逆らって生きる何ものをも持ち合わせていない。肉欲を拒む思想も信仰もない。富岡がだめなら伊庭でもいいのである。
 伊庭はゆき子に家と金を与えて、彼女の生活を保証する。伊庭は妻の真佐子と別れてまでゆき子と生活を共にしようなどという考えはない。ゆき子もまた伊庭に結婚を迫ることはない。ゆき子は伊庭の欲求に応えることで、生活を保証される妾の存在を受け入れるが、これは上京してから三年間の伊庭との関係の繰り返しである。ゆき子はそんな〈取り引き〉に基づいた生活など求めてはいないが、生きていくために甘んじて伊庭の妾とならざるを得ない。
 ゆき子は「そんな話はやめてください。いまごろ、そんな話をして、私を吊ろうたって、私はもう、男のひとにはだまされないンだから。女だって、年をとれば世の中を見る眼はついて来るわ。私は、もう、昔のむしっかえしはたくさんなんです。あんたのことなンか、何とも思っちゃいない」と言う。ゆき子は「男のひとにはだまされない」と言っているが、いったい何をもって伊庭にだまされたと言うのであろうか。伊庭がゆき子に結婚を約束したとはどこにも書かれていない。もし、そんなことがあったのだとすれば、作者はゆき子の口からそういったセリフを出させるべきだろう。伊庭とゆき子の三年間の不倫関係は要するに〈取り引き〉であって、そこにはだますもだまされたもない。ゆき子がだまされたとすれば、それは伊庭にではなく富岡にである。富岡はゆき子との結婚を約束しながらそれを反古にしてしまった。利口で、俗に言う大人の女は、異国での結婚の約束などはなから信じなかっただろうし、そんな〈約束〉を信じて追いかけ回す女はうざったいだけである。
 伊庭はにやにや笑ってゆき子の言葉を聞き流している。作者は伊庭の思いに寄り添って「化粧のないゆき子の顔は、蒼ざめていたが、女らしくて、昔の生娘とは違うなまめかしさを持っていた」と書いている。伊庭の目にゆき子は〈なまめかしさ〉を持った女に見えている。富岡もそうだが、林芙美子の描く男は、女の内面など二の次、三の次で、最も優先されるのは肉体である。ゆき子と三年間、肉体の関係を重ね、三、四年のブランクの後に出会ったゆき子は、富岡との修羅場を経て生娘から熟女へと変貌している。男の保身も狡さもよく分かったゆき子の目に、伊庭が特別に優しい男として再登場してきたわけではない。が、伊庭は富岡とは違って、明らかに、商売(宗教ビジネス)に成功した勝者であり、ゆき子に対して余裕のある態度を持している。

 「いや、卑しい気持ちで言うンじゃない。みんな、ゆき子の幸福をおもえばこそ、こんないくじのないことも言ってみるンだ。あんまり、理想を追うようなことは考えないほうがいい。お前さんは、世の中を見て、かなり、酢いも甘いも勉強して来たはずだ。男にも女にも、愛だの惚れたのということも、たいして信用にならないことくらいは判って来ているはずだよ。この世の天国も地獄も、金だけの問題だ。金のありがたさを、俺はつくづく知った。終戦後の立ち遅れで、あの時くらい、気がめいったことはなかったが、今日の伊庭は違う。生きてうんと、金を貯めこめる時に貯め込む必要を感じた。教祖もそう言っている」
  そう言って、伊庭はまた金の包みを置いてそそくさと帰って行った。包みを開いてみると、皺一つない百円札の束であった。一万円の新しい札束を眼にして、ゆき子は、いつも皺くちゃの金しか握ったことのない自分の哀れさがおかしくなり、銀行からおろしたての、皺のない札束が、いかにも魅力的だと、しばらく、伊庭の逞ましさを考えていた。(325〈四十一〉)

 伊庭はルージンなどよりはるかに現実を知っており、その思想に微塵の感傷もロマンチシズムもない。伊庭がゆき子に惚れているとか、こぢんまりした家を買ってやるなどという〈いくじのないこと〉を言うのも、それはそれで伊庭の誠実を示している。ゆき子は伊庭が置いていった〈皺一つない百円札の束〉を目の前にして〈伊庭の逞ましさ〉を感じる。が、作者は次のように書いている。

  こぢんまりした家を伊庭に買わせて、富岡とときどき逢いたい気もした。だが、その思いは一瞬の甘さで、すぐまた、富岡に対して、激しい妬みが湧いて来た。
  ゆき子は、伊庭を頼る気にもなれなかったし、大日向教なぞ拝む気にもなれないのだ。(325〈四十一〉)

 ゆき子が伊庭の〈金〉に魅力と逞ましさを感じたことは否めない。だが、富岡に対する未練を断ち切ることもできない。ゆき子は、まるでロゴージンとムイシュキン公爵の間を悩ましく行き来したナスターシャ・フィリポヴナのごとき分裂状態に陥っている。否、分裂を装ってみなければ、富岡とゆき子の〈腐れ縁〉で成り立っているこの小説自体が破綻せざるを得ない。ゆき子は「こぢんまりした家を伊庭に買わせて、富岡とときどき逢いたい」という生温い関係を続けていくことは作者によって禁じられている。作者は「ゆき子は、伊庭を頼る気にもなれなかったし、大日向教なぞ拝む気にもなれないのだ」と書いている。これははたしてゆき子の本心を吐露したことになるのだろうか。惚れていると表明し、家も持たせてやろうと言って〈皺一つない百円札の束〉を置いていった伊庭よりも、結婚の約束は守らない、おせいとは関係する、事業には失敗して住む家もなくなった富岡の方が、それでもまだいいと思うのだろうか。
 ゆき子という女は冷静に客観的に見ると、ほとんど自分のことを分かっていない。ゆき子は「伊庭を頼る気にもなれなかった」と言いながら、その実どっぷりと頼っているし、「大日向教なぞ拝む気にもなれない」と言いながら、彼女の現実を生きるその信条はこの大日向教のそれとほとんど同じである。つまりゆき子は嘘つきで頼りにならない女たらしのろくでなしである富岡兼吾が、にもかかわらず好きなのであり、富岡のその肉体を忘れることができないということである。まあ、お好きなようにと言ってしまえばそれまでのことなのだが、ゆき子の執拗よりも執拗にならなければ批評などできないということである。