清水正の『浮雲』放浪記(連載182)

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清水正の『浮雲』放浪記(連載182)
平成A年2月11日

  ゆき子は呆れていた。伊庭の戦後の心の変りかたが、現在のゆき子にも通じて来る。ゆき子も、煙草を一本貰ってつけた。広い床の間には、ここにも怪し気な書体で、何か書いた軸がさがっている。七宝の花瓶に、女松が活けてあった。十畳ばかりの部屋の真中に、軍隊毛布が敷いてある。縁側の見える障子ぎわには、伊庭の机。そのそばに、小さい中国風な卓子が一つ。天井が高いせいか、おちついた部屋であった。風もよく通った。中庭にでもなっているのか、狭い庭には、干物がしてある。(342〜343〈四十六〉)

富岡兼吾との肉欲の地獄に生きているゆき子こそは、「煩悩具足の衆生は、いずれにても生死をはなるることかなわず、哀れみ給え、哀れみ給え。病悪の正因をぬぐい去り給え。大日向の慈悲を垂れ給え」の言葉を真に受け入れるべきであった。が、ゆき子はこれを〈うまい商売〉の〈怪し気な祈祷〉としか受け取らなかった。ゆき子は伊庭の発する商売上の言葉(〈神や仏〉や〈神仏の慈悲〉)をツマに議論を吹きかけることはしない。ドストエフスキーの人物たちなら、徹底的に議論し続けるような事柄を完璧に無視して、そういった問題に深入りしようとはしない。ゆき子は煩悩具足をただひたすら生きて、神仏の慈悲を求めたりはしない。
 ゆき子は大日向教を商売にしている伊庭と真剣に神仏について語る気はまったくない。ゆき子は伊庭の言葉に呆れるが、しかしこの感情は伊庭一人のものではない。ゆき子は〈伊庭の戦後の心の変りかた〉に自分に通じるものを感じている。が、ゆき子も、そして作者もその〈心の変りかた〉を具体的に検証する気はない。伊庭は〈実直な男〉という評判だったが、彼を頼ってきたゆき子を一週間目に強姦している。無理矢理犯されて事を荒立てなかったゆき子にはゆき子なりの打算があったことは当然で、先に指摘したように伊庭とゆき子は一種の〈契約〉(ゆき子が肉体を提供することで、伊庭は寄宿代とタイピスト学校の授業料を支払う)を結んでいたに過ぎない。作者はこういった点に関しては完璧に沈黙を守っているが、男と女のリアリズムから眼を逸らさなければ、真実の姿は闇の時空から浮上してくる。伊庭は〈保険会社〉の〈人事課〉に勤めていた〈実直な男〉だから、ゆき子との関係も実直に処理していたに違いないのである。このように見れば、伊庭は戦前も戦後も一貫して金第一主義を貫いていると言えよう。ゆき子もまた伊庭との関係においては、彼のルールに従っている。誇り高きドゥーニャですら、愛も尊敬もないしみったれの敏腕家ルージンと打算(兄ロジオンの将来を配慮した打算)で、結婚を承諾できるのである。ゆき子は富岡兼吾に激しい思いを寄せながらも、若いジョオと肉体関係を結べるし、腹の底から軽蔑しきっている伊庭の妾にもなれる女なのである。女の肉体上の問題は一筋縄ではいかない。
 ゆき子のまなざしは、〈神仏〉や〈神仏の慈悲〉には向かわず、ひたすら外界に向けられる。広い床の間に飾られた怪しげな書の〈掛け軸〉、女松が活けられた〈七宝の花瓶〉、十畳ほどの部屋の真中に敷かれた〈軍隊毛布〉、縁側の見える障子ぎわに置かれた〈伊庭の机〉、そのそばに一つの〈小さい中国風な卓子〉‥‥ゆき子の気怠いまなざしは、彼女の吐き出す煙草の煙のゆらめきに連動しながら水平にゆっくりと移動する。「天井が高いせいか、おちついた部屋であった。風もよく通った。」風のよく通る、おちついた部屋で、ゆき子は生きてあることを実感している。この余りにも日常的な実感の前では、〈神仏〉〈神仏の慈悲〉といった宗教上、宗教哲学上の言葉は商売上の手品を抜きにしてもはかなく軽い。
 男たちは議論する。その典型がドストエフスキーの『悪霊』や『カラマーゾフの兄弟』に登場する人物たちである。『浮雲』でも、富岡兼吾、加野久次郎、向井清吉、伊庭杉夫などの男性たちが登場しているのであるから、議論させようとすればいくらでもできたはずである。伊庭の大日向教における〈神仏〉、富岡兼吾が読んでいた『悪霊』における〈神〉〈人神〉〈革命〉、伊庭のゆき子に対する〈強姦〉、ニコライ・スタヴローギンのマトリョーシャ〈凌辱〉、神の口から吐き出されてしまう〈生温き者〉‥‥取り出せばきりがないほど議論するテーマはある。富岡兼吾と伊庭杉夫、富岡兼吾と加野久次郎、富岡兼吾と向井清吉、富岡兼吾とジョオなどの対話場面を描けば、そうとうの盛り上がりを見せたはずである。が、林芙美子はそういった場面を完璧に回避した。
 ゆき子が高い天井の部屋の中から最後に眼にするのは、狭い中庭に干された〈干物〉である。作者はこの干物を誰が干したのかなどいちいち書かない。この〈干物〉に注意せよ、などという特別の信号を送っているわけでもない。「ゆき子は呆れていた」から「干物がしてある」までの叙述を読む者は、最初、ゆき子の内心を共有する者として、次にゆき子のまなざしと化して部屋の内外を見る。このゆき子がとらえた光景は、実に奥行きのもった光景で、この光景自体に大日向教に関わる人間たちのドラマが映し出されている。