清水正の『浮雲』放浪記(連載106)

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清水正研究室」のブログで林芙美子の作品批評に関しては[林芙美子の文学(連載170)林芙美子の『浮雲』について(168)]までを発表してあるが、その後に執筆したものを「清水正の『浮雲』放浪記」として本ブログで連載することにした。〈放浪記〉としたことでかなり自由に書けることがいいと思っている。




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 清水正の『浮雲』放浪記(連載106)

平成□年7月7日
伊庭の現実を見据えた思想は強固で微塵の揺らぎもない。伊庭は富岡に惚れ抜いているゆき子の内面を通して映し出されるので、ふつうに読んでいくと俗物の極みに見えてしまう。が、この俗物は俗物しての前提を誰によっても脅かされることがない。なぜなら富岡も俗物であり、ゆき子も俗物だからである。伊庭は成功した俗物で金も力もあるが、材木事業に失敗した俗物の富岡は金もなければ力もない。金もなく力もないが純粋な精神を保持する詩人はそれなりの魅力を備えているが、富岡はただただゆき子に惚れられ続けているという、その一点においてかろうじてその魅力を保っている。こんな男は伊庭の敵ではないし、その存在さえ認められていない。言わば富岡は伊庭の関心の外にある。それにゆき子は敢えて、富岡を伊庭の関心の内へと誘い込む戦略をとることもなかった。
 ドストエフスキーが『罪と罰』に登場させたルージンはソーニャに冤罪事件を仕掛けるような子供っぽい邪気をたっぷり備えた卑劣漢だが、伊庭は十分に成熟した俗物で、宗教をビジネスとして堂々と全面に押し出す言わば正統派の卑劣漢である。両者ともに自らの実業家としてのやり口を〈卑劣〉などとは思っていないが、ドストエフスキーが描く実際家ルージンにはなにか絶対に剥ぎ落とすことのできない薄汚いしみったれ根性が潜んでいる。伊庭はルージンと比べればはるかに明るく元気な俗物根性丸だしのやり手である。ゆき子はこの成熟した俗物伊庭の仕掛けてくる網の目から逃れることができない。否、むしろこの網の目につかまって、伊庭という蜘蛛を逆に利用しつくそうとする逞しさを持っている。
 伊庭は「神さまは運のいい奴だけはお見捨てはならない」とあたりまえのようにさりげなく口にしている。伊庭の神観に迷いはない。見事なほど単純で、論争を仕掛ける微塵の隙もない。わたしは四十五年の長きにわたってドストエフスキーを読み続けているが、この伊庭の神観に反論する気は毛頭ない。宗教に関する膨大な文献を読みこなそうと、苦行に苦行を重ねようと、神は永遠にその姿を顕すことはない。『未成年』のヴェルシーロフは苦行の果てに自分には神を信仰する能力に欠けているという認識に達して絶望し、『カラマーゾフの兄弟』のイワンは神の存在は認めても神が創造したこの地上の世界を認めることはできないとして世界への入場券を拒んだ。『悪霊』のニコライ・スタヴローギンはロシアの神も、革命も、神すらも認めることができず、虚無の淵にたたずんで放蕩三昧に明け暮れた。ニコライに残された情熱といえば、神を試みる余りにも冷たい情熱だけであった。
 富岡は神なき世界における和製スタヴローギンであるが、伊庭は富岡の虚無など桜見の宴会に使うシートほどにも思っていない。その意味では伊庭の虚無のほうが本物と言えるかもしれない。地にしっかりと足をつけた生活人の楽観的な虚無を文学青年のちっほけな純粋で足蹴にすることはできない。ゆき子の〈調子〉に乗せられて伊庭の現実の姿を見失ってはならない。ここで言うゆき子の〈調子〉とは、伊庭に対する斜に構えた心の姿勢であり、相手を拒みきれずに依存する甘えに他ならない。伊庭はゆき子のその〈調子〉を無関心を装って寛大に受け入れている。この寛大さに好意的な照明を与えれば、伊庭はきっぷのいい男気のある旦那然とした男に見えてこよう。
 伊庭はゆき子の最初の男として振る舞っており、ゆき子もそのことを否定していない。ふつうに読んでしまえば、ゆき子は上京後一週間目に伊庭に強姦されてしまったかわいそうな女ということになるが、先に指摘したようにわたしはゆき子をそんな初な女とは見ていない。ゆき子は作者と結託して、その暗い領域を晒されていないが、思いのほかしたたかな女であることにまちがいはない。書かれてはいないが、ゆき子に対して伊庭は金銭的な援助をしていたことは確かであろう。〈処女〉を捧げ、三年間にわたって肉を提供し続けてきたゆき子にしてみれば、そんなことは当たり前で、まだまだ足りないくらいに思っていただろうが、いずれにしても伊庭とゆき子の関係を、スヴィドリガイロフに対したロジオン・ロマーノヴィチ・ラスコーリニコフのように道徳の槍一本で突くことも裁くこともできはしない。ゆき子は富岡にいいように弄ばれているが、ゆき子もまた自分に惚れた加野を弄び、彼女に未練を残している伊庭を徹底的に利用しているのである。伊庭とゆき子の関係は、言わば伊庭の専門とする経済的次元の取引と酷似している。
 伊庭は「俺はね、ゆき子にやっぱり惚れているらしいね」と言っている。こういう男のセリフをどこまでどのように受け止めたらいいのか。その実質を読者に正確に伝えようとすれば、作者は伊庭とゆき子の三年間の〈不倫の関係〉を丁寧に描き込まなければならない。林芙美子はゆき子と富岡の関係に関してはそれなりに丁寧に描いているが、ゆき子と伊庭の関係に関してはその事実があったことを新聞記事のようにあっさりと記してすましてしまっている。伊庭はその内面を通して描かれることがないので、言わばモノとして扱われていると言っても過言ではない。伊庭は多くの場合、ゆき子の主観のフィルターを通して見られているので、読者は自然にゆき子のかけている色眼鏡の影響を受けてしまう。わたしは極力、ゆき子の色眼鏡から離れた地点から伊庭を見たいと思っている。