清水正の『浮雲』放浪記(連載93)

清水正への原稿・講演依頼、D文学研究会発行の本購読希望者はqqh576zd@salsa.ocn.ne.jp 宛にお申込みください。 ドストエフスキー宮沢賢治宮崎駿今村昌平林芙美子つげ義春日野日出志などについての講演を引き受けます。

ここをクリックしてください エデンの南   清水正の林芙美子『浮雲』論連載    清水正研究室  
清水正の著作   D文学研究会発行本   グッドプロフェッサー
清水正研究室」のブログで林芙美子の作品批評に関しては[林芙美子の文学(連載170)林芙美子の『浮雲』について(168)]までを発表してあるが、その後に執筆したものを「清水正の『浮雲』放浪記」として本ブログで連載することにした。〈放浪記〉としたことでかなり自由に書けることがいいと思っている。




清水正の著作・購読希望者は日藝江古田購買部マルゼンへお問い合わせください。
連絡先電話番号は03-5966-3850です。
FAX 03-5966-3855
E-mail mcs-nichigei@maruzen.co.jp


 清水正の『浮雲』放浪記(連載93)


平成□年2月23日
 伊庭はゆき子以外の入院者がいるにもかかわらず、金が雨霰のごとく入ってくる話をする。成瀬映画で伊庭杉夫を好演していた山形勲は誰はばかることなく大声で話していた印象があるが、伊庭は病室でも、調子に乗って大日向教のことを口にしていたのであろう。ひとに言えない事情を抱えて堕胎した女たちが、伊庭の威勢のいい話に興味を抱くのは当然である。たとえ伊庭が小声で話していたにしても、女たちは一言ももらさず聞いていたはずである。同室の女たちが伊庭の話にきき耳をたてている、その気配を敏感に察しているのはゆき子であるが、金儲けで増長気分に支配されている伊庭はそんなことにはいっさい頓着していなかったであろう。

 壁ぎわに寝ていた大津しもという、四十歳近い女が、突然言った。
 「私も、一つ、ご信者のなかへはいるわけにはゆかないものでございますか?」
  細君のある老人とのなかにできた子供を始末して、明日は退院するという女である。自分の身分はいっさい語らなかったが、看護婦の牧田さんの話では、千葉あたりの小学校の教師らしいということである。
  男の世話になれるような女とも思えないほど、四角張った、色の黒い骨太な女だった。
 「その大日向教と申しますのは、教祖さまは男の方でございますか?」
  伊庭はにやにや笑いながら、
 「もちろん、男の方で、立派な方です。若いころからインドで修業され、充分識見のある人です。いままでにいろいろな難関を通って来られて、荒野に光をもたらすために、日本に辿りつかれた方ですな。ーー長い間、馬来やビルマ方面に陸軍の参謀としても勇名をとどろかした人物でね。世が世ならば、我々は、そばへも寄れない方ですよ。一度、お出掛けください。あらゆる悩みを解消してくださるでしょう」と言った。
 「まあ、じゃア、その教祖って人は、もとは軍人だったの?」
 「そうだよ。追放の軍人だからおもしろいンだ。こうした軍人あがりは、気合をかけることは板についているからね。すべて、烏合の衆相手には、高飛車な気合だけなンだ……」(320〜321〈四十〉)

 ゆき子の病室にいた大津しもという女が面白い。この女が病室の〈窓ぎわ〉に寝ていたことにまずは注意したい。窓の内側に病室があり、窓の外側は文字通り病院の外側の現実の世界である。作者の報告によれば、大津しもは年齢が〈四十歳〉近くで、〈細君のある老人〉との間にできた子供を始末して、明日は退院する女である。病院で子供を始末した女の〈明日〉とはどんな明日なのであろうか。本人は身分を明かさなかったが、看護婦の牧田によれば〈小学校の教師らしい〉ということである。当時は秘密の個人情報をもらすことに対して厳しい規制が施されていなかったのであろうか。いずれにせよ、大津しもという女の肖像は、看護婦の牧田や作者及びゆき子の眼差しによって作られている。本人の大津しもが語らない年齢や身分や、堕胎に至る諸事情は、ある程度の事実を知っている看護婦の口を通して報告しなければならないし、小説展開を進める上で作者が読者に知らせておかなければならないと判断したことは、作者が〈絶対者〉の立場から報告することになる。大津しもが〈細君のある老人〉と関係を持ったことなどは、本人が正直に告白しない以上、作者が〈絶対事実〉として報告するしかない。
 大津しもの容姿に関して作者は「男の世話になれるような女とも思えないほど、四角張った、色の黒い骨太な女だった」と書いているが、これは多分にゆき子の主観に沿った記述とも言えよう。ゆき子は富岡の妻邦子の容姿に関しても遠慮のない印象を口にし、おせいなどは〈猿ッ子〉の一言で片づけていた。ゆき子にとって容姿や年齢は、相手を理解する上で重要な要素となっている。女は美人か醜女かで、その運命が変わってしまう、それをゆき子は素直に認めている。が、醜女がどんな男にも相手にされないというわけではない。四十歳で、四角張った色の黒い女でも、ちゃんと男はできる。大津しもが〈細君のある老人〉とどこでどのように出会い、どのような関係を続けてきたのか、その詳細は分からないが、しかし肉体関係があったこと、子供をはらんだこと、その子供を始末しなければならない関係であったことは紛れもない事実である。〈細君のある老人〉と四十歳近い小学教師が秘密の情事を重ねた末の堕胎である。
 大津しもが寝ていた〈窓ぎわ〉は、生と死の境界である。死ぬこともできないが、生きることもできない実存の〈窓ぎわ〉に寝ていた大津しもの耳が聞いた伊庭の声である。この大津しもの耳は、伊庭が語るインチキ宗教の言葉をきいているのではない。伊庭の金儲けのための宗教ビジネスの話を通して、大津しもは宗教の神髄を彼女なりにのぞき込んでいる。伊庭の言っていることなど、はじめからたいした意味はない。大津しもは大日向教の意味も教義も必要としていない。彼女が必要としているのは祈りの対象であり、救いである。そのことで議論もしないし、非難も賛美もしない。とりあえず大津しもは、子供を始末したことで、今までの人生にも幕を閉じ、新たな舞台での生を望んだまでのことである。