清水正の『浮雲』放浪記(連載94)

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 清水正の『浮雲』放浪記(連載94)


平成□年5月12日

 大津しもは伊庭に大日向教の教祖が〈男の方〉かどうかを訊く。大津しもにとって教祖が女であったらまずいのかどうかは知らない。女が教祖の宗教と言えばまず思い当たるのが大元教であるが、ここではその点については深入りしない。大津しもにとっても、伊庭にとっても、教祖が男であろうが女であろうが大した問題ではない。伊庭の話から伝わってくるのは宗教はれっきとした商売であるということであって、そのことに対する露ほどの罪悪意識もない。聞いている大津しもやゆき子にも、そのこと自体を非難する気持ちはさらさらない。宗教を商売と考える伊庭には宗教ビジネス哲学ともいうべきものがあり、それは理屈だけ取り出せば『カラマーゾフの兄弟』の老大審問官のそれとさしたる相違はない。たった一つの違いと言えば老大審問官には〈神〉に対する深い懐疑と反逆を秘めた苦悩が見えるが、伊庭には神や仏をめぐっての苦悩のかけらも見ることはできないということである。
 〈教祖〉は〈男の方〉で〈立派な方〉で〈若いころからインドで修行〉された〈充分識見のある人〉で、〈荒野に光をもたらすために、日本に辿りつかれた方〉で〈あらゆる悩みを解消〉してくださる方である。これで充分である。宗教にさらなる哲学や思想を求めるひとは、いくらでも気がすむまで〈 〉の中身をうめていけばいいということである。大津しもが求めているのは深遠な思想や哲学ではない。彼女が求めているのは救いであり、生活の糧である。彼女が伊庭の言う〈烏合の衆〉の一人であっても何の文句もない。〈あらゆる悩みを解消してくださる〉方が、〈追放の軍人〉であっても何の障りもない。

  伊庭は小さい声で言った。
 「いまに、自動車も俺の名義で買う。すべて、一切合財が任されているンで、教祖の首根ッ子は、俺がおさえているようなものさ……」
 「いくつぐらいの方なの?」 
 「六十一二かな……。女も百人くらい関係したという豪い人物だ。草木が、どんなところに生えていても、日に向ってのびて行くという、その生々の力を大日向教と名づけたンだそうだが、いまは信者も十万以上になっている。これから、いくらでも伸びて行く可能性がある。すべて、目立たぬようにして、目立てというのが、彼の信条らしいな」
  ゆき子は、昔の伊庭の性格が、すっかり変ってしまって、まるで狂人のような人物になっているのが薄気味悪いのである。富岡とのことに対しても、何の関心もないごとく、ただ、自分の腹心の秘書にして、昔の関係のある女を起用したいというだけであろう。(321〈四十〉)

 教祖の〈立派〉さは次の瞬間、伊庭によって俗の極地へ突き落とされる。伊庭の言葉は、本来、信者や信者になろうとしている者に向かって発せられてはいけない言葉であるが、その楽屋裏で内密に語られるべき言葉がここでは声を低くするだけで遠慮なく発せられている。伊庭の言葉は聖と俗を縦横に往還し、聖は不断に俗の荒波にさらされている。伊庭の〈宗教観〉は一人彼だけに賦与されていたのではなく、作者のそれをも充分に反映していると見ることができる。日本人の大半は〈聖〉と〈俗〉を厳格に切り離してとらえてはいない。〈聖〉と〈俗〉は双面神の裏表のような関係にあって、〈聖〉を凝視していると〈俗〉がにじみ出てくる。人間は〈聖〉と〈俗〉を共にいきるのであって、人生はきれいごとではすまないという確固たる思いが林芙美子にはある。聖域を生きる〈小学校の教師〉も、〈細君のある老人〉と関係し、できた子供さえ秘密裡に始末してしまうのである。小学校教師大津しもの人生はここで詳細に語られなくても、不倫・妊娠・堕胎のエピソードだけで彼女の人生は明確に浮き彫りされている。
 この人生の表も裏も生きてきた大津しもに向かって、伊庭は大日向教の教祖について語っていることを忘れてはなるまい。この教祖は「充分識見のある」「荒野に光をもたらす」「あらゆる悩みを解消してくださる」「女も百人くらい関係した」という〈豪い人物〉である。わたしは引用しながらふと『カラマーゾフの兄弟』の淫蕩なろくでなしフョードル・カラマーゾフを想ってしまった。わたしはこのフョードルをゾシマ長老などよりはるかに〈宗教的な人物〉と見ている。内部に解決不能のカオスを湛えたろくでなしの道化の見つめていた〈遙か彼方〉に思いを寄せなければ、この怪物の正体に迫ることはできない。
 臭い匂いを発する女乞食リザヴェータに子供をはらませたと噂されるほどの〈女好き〉のフョードルならば、四十歳近い〈四角張った、色の黒い骨太な女〉大津しもを抱くことなどお茶の子さいさいであったろう。大日向教の教祖は草木が日に向かって伸びていくその〈生々の力〉を教義の中心に据え置いた。ドストエフスキーはサストラダーニィエ(сострадание=同情・憐憫)と同時にスラドストラースティエ(сладострастие=淫蕩・情欲)を重要視した。スラドストラースティエを喪失した人間はもはや人間とは言えないというわけである。伊庭の俗にまみれた言葉で発せられると、大日向教の教祖もまた俗にまみれてしまうが、この教祖に、たとえばイワン・カラマーゾフの饒舌な〈神学〉を与えれば、その相貌も〈深遠な化粧〉を施されて有り難みを増したかもしれない。
 ゆき子は伊庭が、すっかり性格を変えて〈狂人のような人物〉になってしまったのではないかと薄気味悪がっている。しかし、その〈薄気味悪さ〉はゆき子の許容度を越えたものではない。戦争前は銀行に勤めていた〈実直な男〉伊庭のその〈実直さ〉とは、妻子がいながら上京してきたばかりのゆき子を強姦して三年間も関係を続けることのできる〈実直さ〉であり、銀行員としての金勘定も大日向教の参謀としての金勘定もさしたる違いはない。伊庭の変身が薄気味悪いというのであれば、ゆき子もまた薄気味の悪い存在ということになろう。東京では三年間も伊庭と内密の関係を結び、ダラットでは妻も愛人もある富岡兼吾と関係を続け、日本に引き揚げてきても静岡の実家には帰らず、池袋の物置小舎で外人相手のパンパン生活をしたり、伊庭の妾になったりしながら、しかし富岡との腐れ縁を断ち切れずに追いかけ回すゆき子は、大日向教の参謀に充足して金儲けに専心している伊庭などよりはるかに薄気味の悪い存在と言えるだろう。