清水正の『浮雲』放浪記(連載108)

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清水正研究室」のブログで林芙美子の作品批評に関しては[林芙美子の文学(連載170)林芙美子の『浮雲』について(168)]までを発表してあるが、その後に執筆したものを「清水正の『浮雲』放浪記」として本ブログで連載することにした。〈放浪記〉としたことでかなり自由に書けることがいいと思っている。



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 清水正の『浮雲』放浪記(連載108)

平成□年7月11日

 ある日、加野のところから、女の字で、加野が死んだという便りを受けた。
  ゆき子は、やっぱりそうだったのかと、加野の母親からの手紙を読み返した。本人の意志で、カソリックで葬儀をいとなむことになりましたとあった。大変な愛国者で、日本は敗けるはずがないと信じこんでいた加野が、死んで、カソリックで、ささやかなとむらいを出して貰ったことが、ゆき子には不思議だった。結局は、加野の晩年は、この戦争の犠牲者であったのだと思えた。加野の母親へ、優しいくやみの手紙でも出したかったが、ゆき子は、それもものうくてやめてしまった。
  新聞を見て以来、富岡からは何ともたよりがなかった。いったい、富岡は、どんなところに消えて行ったのかと案じられもした。もう三宿にはいないのかもしれない。
  一日のうちに、かならず、富岡のことだけは心に去来して、富岡のことだけはのしつっこく胸から去らないというのは、これは、何といっても、富岡への愛情なのであろうかと思えた。この世に、本当の愛はないと、伊庭はいい気なことを言っていたが、伊庭は金銭以外に柱を持たないから言えることなのではないだろうか。富岡がこのままおせいの哀れな死とともに、自分をふっつりと忘れ去っているとは、ゆき子は思えなかった。石けんの会社に勤めを持っていると言ったが、もう一度、富岡には、農林省へ戻って貰って、どこでもいい地方の山の中の営林署へでも行って貰いたかった。そして、その時こそ、二人はつつましい結婚を、したいとも空想してみる。三宿のおせいの部屋から盗んで来た、富岡の仏印のパンフレットを出して眺めながら、ゆき子は、富岡が、このまま路傍の人として去ってゆくとは思えなかったのだ。
  ゆき子は思い切って、富岡へ手紙を書いてみた。(325〜326〈四十一〉)

 おせいは殺され、加野は病死する。邪魔者は消せ、ではないが、ゆき子と富岡の〈腐れ縁〉を続行するために障害となる人物は抹殺されるか、軽視されることになる。照明の与えようによっては、ゆき子にとってきわめて重要な人物となるはずの伊庭は単なる〈金銭以外に柱を持たない〉男として一蹴されてしまう。伊庭には妻もあり子供もあり、大日向教の教祖の存在もあり、膨大にふくらんだ信者もある。伊庭は彼らと協調し、バランスをとり、参謀としての気配りと統治意識を存分に発揮しなければならない。もし伊庭が金銭以外に柱を持たないのだとすれば、彼の金銭哲学をきちんと検証してみなければならないだろう。伊庭が生存の柱とした〈金銭〉以上の愛や信仰があるのだとすれば、ゆき子はそれを体現してみなければならない。伊庭は〈金銭〉の内に〈愛〉も〈信仰〉も取り込んだが、はたしてゆき子は〈愛〉の内に〈金銭〉も〈信仰〉も取り込んだ女であったと言えるのであろうか。 ゆき子の場合は〈愛〉とは言っても、富岡に限定した〈性愛〉の次元を一歩も超えていない。ゆき子の〈性愛〉は伊庭の〈金銭〉と五十歩百歩で、ゆき子に伊庭の〈金銭〉哲学を否定したり侮蔑したりする資格はまったくない。ましてやゆき子は伊庭の〈金銭〉なしには堕胎の費用も、その後の生活費もままならなかったのである。伊庭の援助を拒んだ上で伊庭の〈金銭〉哲学を侮蔑するのならまだしも、ゆき子は伊庭を利用するだけ利用した上で侮蔑しているのだから、この点だけに注目すればゆき子はかなり性悪女ということになる。
 たぶん『浮雲』を読んだ者たちはゆき子をそんな性悪女と見ることはないだろう。それは『罪と罰』を読んでロジオンを悪人と思う読者がごく少数でしかないことと同じである。『罪と罰』は言わば形だけの三人称小説で、その実体は主人公ロジオンの主観を通して物事が見られている。ロジオンに殺される老婆アリョーナなどはその内面に照明を与えられることもなかった。当然、読者はロジオンの思いに限りなく寄り添って『罪と罰』を読むので、知らず知らずのうちにロジオンに共鳴してしまうことになる。『浮雲』も、大半の読者はゆき子の気持ちに寄り添って読み進める結果、伊庭のような男に共感することはない。が、一旦、語りの魔術から解放された地点で読むことを修得した読者にしてみれば、ゆき子の主観に染めあげられた〈伊庭〉だけを伊庭と見ることはない。
 伊庭の〈金銭〉に対して富岡の〈虚無〉を対極に置くことはできない。富岡が材木事業に手を出して失敗したということは、富岡は〈金銭〉において伊庭に敗北したことを意味している。うらぶれ果てた富岡の〈虚無〉よりも、宗教ビジネスに成功した伊庭の〈虚無〉の方が見ようによっては興味深い。伊庭の〈金銭〉哲学を押し進めていけば『カラマーゾフの兄弟』の大審問官が抱えた虚無にも至りつくのである。ゆき子のような見方をしていたのでは、伊庭は単なる成功した俗物にとどまってしまう。林芙美子に『悪霊』を書いた作家の力量が備わっていれば、伊庭と富岡を直接対決させたであろうが、林芙美子は完璧に伊庭と富岡が出会う場面を回避した。
 加野は死んだが、今更加野の死に特別な意味はない。おせいの死と同様、彼らは富岡とゆき子の〈腐れ縁〉を執拗に続けようとする作者によって体よく始末されてしまっただけである。おせいが生きて富岡との関係を深めれば、ゆき子は退場せざるを得ない。加野が生きてその存在感を強く主張すれば、富岡とゆき子の関係は希薄にならざるを得ない。加野の生き死になど放っておけばいいようなものの、林芙美子は律儀にその死を報告した。加野は戦争の犠牲者というよりは、むしろ富岡とゆき子の犠牲者である。遠慮のない言い方をすれば、加野はゆき子に弄ばれただけの存在であり、この小説において丁寧に描かれたのは最初の出会いと、ゆき子が加野を見舞いに行った時の場面だけである。ゆき子の内面において加野の比重は伊庭と同様に決して重くない。ゆき子はどんな時にも打算のそろばんをはじくことを忘れない女である。それは加野を見舞いに行った時はもとより、伊庭に援助を受ける時も同様である。




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