清水正の『浮雲』放浪記(連載109)

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清水正の著作   D文学研究会発行本   グッドプロフェッサー
清水正研究室」のブログで林芙美子の作品批評に関しては[林芙美子の文学(連載170)林芙美子の『浮雲』について(168)]までを発表してあるが、その後に執筆したものを「清水正の『浮雲』放浪記」として本ブログで連載することにした。〈放浪記〉としたことでかなり自由に書けることがいいと思っている。



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 清水正の『浮雲』放浪記(連載109)

平成□年7月12日
 ゆき子は富岡と分かれる気がない。というよりは、作者にその気がない。ゆき子が富岡に対して何度気持ちが揺らぎ、別れを決意しても、その決意は次の瞬間には撤回され、再び富岡へと思いを寄せるのである。作者はこの執拗な繰り返しに飽かない。富岡とゆき子の〈腐れ縁〉の続行のためには、小説上の必然性さえ歪めておせいを殺し、加野を始末してしまう。伊庭の男気を高く評価して、ゆき子が伊庭に惹かれてしまえば、富岡とゆき子の〈腐れ縁〉のドラマはその時点で幕を下ろすしかない。作者は伊庭とゆき子の旦那と妾の実態、そのセックスを含めた生々しい実態を読者の眼前に晒すことをしなかった。読者はゆき子の富岡に対する執着に半ばうんざりしながらも、その後の展開に引き込まれていくのである。

  ゆき子は思い切って、富岡へ手紙を書いてみた。

 ーー新聞でおせいさんの死を知りました。何事も不思議な運命の糸にあやつられていたと思うより仕方がありません。大変だったことと思います。
  どうしていらっしゃいますか。
  一時は、あなたを憎み、怒りましたが、やはり、ゆき子以外には、あなたを慰めてあげる女はほかにいないと思っております。
  加野さんが、二十二日に亡くなりました。カソリックで葬ったと、お母さんのたよりでした。あなたはごぞんじないと思い、ご報告します。思えば、加野さんも、大変気の毒な晩年と思います。
  もう、あれから、十日あまりたちました。お心のしずまったころと思います。本当に、私は苦しみました。なぜ、伊香保で、二人は死ななかったのでしょう……。二人が死んでたら、いろんなこともなかったのです。きれいさっぱりと世の中を見捨てられなかったのでしょうか。本当は、ダラットの山の中で死んでいたら、なおさら美しかったと思います。
  私、子供は思い切って、おろしてしまいました。あなたを憎いひとだと思い、あなたを頼っていては、私は、追いつめられて、いまごろは、一人で自殺していたかも判りません。あなたというひとは、人を殺す人なンです。あなたのために、おせいさんも私も、そして、加野さんも、それから、あなたの奥さんも、みんな不幸になっています。あなたを責めるわけではありませんが、私はそう思うのです。なぜ、もう一度、昔の勇気を出してくださいませんの?
  私、まだ、ぶらぶらしております。よくなったら、今度こそ、堅実な職場をみつけて働くつもりです。お元気ですか。やっぱり逢いたいのです。女の未練かもしれませんが、ゆき子は、あなたと別れる話はしていないではありませんか。一度、ぜひたずねて来てください。そして、あなたのあいまいでないお話を聞かしてください。(326〜327〈四十一〉)

富岡に対してゆき子は恥も外聞もない。もう一つ敢えて言えばプライドがない。プライドがあれば、富岡がおせいと関係していたことが判明した時点できっぱりと別れていたであろう。が、ゆき子は別れない。伊庭に金銭的な援助を受ける身でありながら、富岡へのアプローチを断念しない。ゆき子を支えているのは、富岡を〈慰めてあげる女〉は自分しかいないという思いである。ゆき子は自分を厄介な女、しつこい女、ださい女、迷惑な女、男を駄目にする女とは考えなかったのであろうか。描かれた限りでみても、ゆき子は富岡に対してかなりしつこい女で、まさにストーカーである。このストーカーから富岡は逃げきれない。富岡がゆき子から逃げるには自殺するよりほかはなかったのかもしれない。が、富岡は死ぬこともできなかった。死の代わりにおせいという若い女を手に入れたが、おせいは富岡の新しい生を用意してはくれなかった。前に書いた通り、おせいはゆき子を超えた存在となることはできない。作者もまた富岡とおせいの関係にさっさと見切りをつけて、再びゆき子を富岡にあてがうことにしたのである。
 わたしは今、というよりか『浮雲』論を書き続けている途中で、ゆき子の力、その富岡に対する執拗な追いかけを促している力は、ゆき子その人にあると言うよりも、作者林芙美子にあると思い始めた。作者は言わば、自分の作品に関しては絶対者の立場にあるから、登場人物を生かすも殺すも自由である。現に林芙美子は加野を殺し、おせいを殺したが、富岡とゆき子は生かし続けている。はっきり言って、わたしは富岡とゆき子の〈腐れ縁〉に途中から必然性をあまり感じなくなった。富岡とゆき子の必然的な〈腐れ縁〉と言うよりも、作者の側からの強引な介入があったように感じるのである。このように感じられてしまうことは、作者にとっては決して名誉なことではない。厳しい言い方をすれば失敗作という烙印を押されたも同然である。わたしが、にもかかわらずこの『浮雲』論を執拗に展開しているのは、作者林芙美子の必然性から離れた富岡とゆき子の〈腐れ縁〉を追い続けるその異様な執拗さに興味があるからである。作者によって作られた執拗な〈腐れ縁〉をその果てまで舐めるように追っていくこと、それが今のわたしの批評行為である。一人屋久島で死ん行くゆき子を見定め、残された富岡を見定め、『浮雲』を書き終えた林芙美子を追うこと、それがわたしの『浮雲』論である。
 ゆき子は「なぜ、伊香保で、二人は死ななかったのでしょう」と書くが、すでに詳細に検証したように、もともと富岡は自殺も心中もできない男だったのだし、そもそもゆき子が富岡と一緒に伊香保へ出かける必然性もなかったのである。



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