清水正の『浮雲』放浪記(連載86)

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清水正研究室」のブログで林芙美子の作品批評に関しては[林芙美子の文学(連載170)林芙美子の『浮雲』について(168)]までを発表してあるが、その後に執筆したものを「清水正の『浮雲』放浪記」として本ブログで連載することにした。〈放浪記〉としたことでかなり自由に書けることがいいと思っている。
 清水正の『浮雲』放浪記(連載86)

平成□年2月12日

 ゆき子にできなかったのは、富岡との過去を切り捨てることだけであったと言っても過言ではない。
 ゆき子が富岡に向かって、加野を見舞いに行ったと言うと、富岡は加野を〈気の毒な奴〉〈大変な愛国者〉〈正直一途な男〉と言う。ゆき子は、富岡と自分自身を〈ずるい人〉と認識している。加野も人間であるから〈ずるさ〉がなかったわけではない。ただ卑劣さの発揮がゆき子や富岡に比べて幼すぎただけである。簡単に言ってしまえば、加野はゆき子と富岡の三角関係の当事者として敗北したに過ぎない。〈大変な愛国者〉で〈正直一途な男〉加野は戦争の勝利を信じていたが、これは現実を的確に認識していなかったことのひとつの証に過ぎない。加野は日本の勝利を信じていたような次元でゆき子を信じていた。加野は〈日本〉も〈ゆき子〉も的確に認識できないままに、独りよがりの信念や愛情を貫こうとした。
 富岡は冷徹に日本の敗北を確信しながら、ダラットで軍属の一人としてその与えられた任務を遂行していたに過ぎない。現実を正確に見る眼差しを持って生きる者に忍び寄る虚無がある。富岡のダンディズムは彼が抱えこんだ虚無に裏打ちされている。女は単なる、底の浅い情熱にたぶらかされはしない。ゆき子に設定上の故郷はあるが、実質的にはゆき子は故郷を喪失した漂浪者である。タイピスト学校に通っていた三年間は、同時に伊庭との不倫関係(暗黙の契約による)の期間でもあったが、ゆき子の魂は不断に漂泊していた。南方への派遣に応募したのも、ゆき子の漂泊する魂が求めたこととも言える。ゆき子は伊庭を特に愛してもいなかったが、三年間にわたって情事を重ねたことは否定できない事実である。日本を出立してから、ゆき子は伊庭との情事を熱く思い出すこともあった。ゆき子はもはや男なしの生活を送ることはできない。人肌恋しい思いに駆られた、そんな時にたまたま眼にしたのが富岡の姿であった。なにしろ富岡は農林省から派遣された山林事務官であるが、ドストエフスキーの『悪霊』を読んでニコライ・スタヴローギンに吾身を重ねるようなシニシズムの持ち主である。憂い顔したダンディな背の高い男が発散している独特のオーラが、ゆき子の漂泊する魂をひっつかまえたと言ってもいい。富岡には伊庭や加野にはない虚無のオーラがある。ゆき子と富岡は性的次元でも相性が良かったのであろうが、それだけでは二人の延々と続く腐れ縁の謎を解くことはできない。彼ら二人はまさに小説の題名ともなっている浮雲であり、現実の世界を漂泊せざるを得ない魂の持ち主なのである。赤い糸で結ばれたというよりは、眼に見えない虚無の糸で結ばれているのである。
 自分たちを〈ずるい人〉と口にできるゆき子に怖いものはない。己の狡さ、卑劣を認め合った二人は、生きる上で何よりも強靱な道具を手にしたようなものである。が、二人の実存は相変わらず生温いままに氷結している。この氷結はユダヤキリスト教の神が求める〈冷たい〉ではない。彼らは凍え死ぬこともなく、罪の業火に焼かれることもない。彼らの生温い虚無の実存を、作者は端的に表現している。
 「喫茶店を出て、また、目的もなく歩きだしたが、四囲はすっかり暗くなり、涼しい夜風が吹いていた」ーー〈喫茶店〉はつかの間の止まり木である。二人は〈また〉歩き出すが、どこへ行くか、何をするかの〈目的〉はない。さりげなく挿入されている〈また〉だが、ゆき子と富岡はまさに際限なく、当て所もなく〈また〉を繰り返す。〈すっかり暗くなり〉は彼ら二人の実存の内実の隠喩ともなっているが、この暗さは救いの光を希求する闇となることはない。二人を暗さが包み込んでも、彼らには〈涼しい夜風〉が吹いているのである。
 林芙美子の人物には〈熱いか冷たいかどちらかであって欲しい〉という神の厳しい命令が下ることはないし、〈あれかこれか〉の二者択一を迫られることもない。「富岡は帰る様子もなくゆき子について来た」が、これは富岡が妻の邦子や愛人となったおせいを捨ててゆき子を選んだということを意味してはいない。決断できないままに、あいまいなままに、ただだらしなくゆき子について歩いているだけのことである。ずるくて、ひれつで、あわれな男が富岡なのである。