清水正の『浮雲』放浪記(連載97)

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 清水正の『浮雲』放浪記(連載97)

平成□年5月17日
 大津しもの人生の具体は詳細に描かれなくても、彼女の人生の処し方は明確に示されている。大津しもに宗教上の悩みはないし、救いの問題を伊庭に託す気はさらさらない。大津しもは身分のある老人の庇護を受けながらも、彼におんぶにだっこの生活を続ける気はない。大津しもは伊庭が実権を握った大日向教に布教師として生きていく道を見出そうとしている。要するに経済的な自立を確立して、男に隷属するような生活からの脱却を目指している。大津しもはまず第一に〈生活の資本〉を得ようとしているのであって、子供を堕胎したことに対する罪の感覚や魂の救いは第二義的なところに置かれている。これは一人大津しもに限ったことではなく、幸田ゆき子もまた同様である。
 ゆき子は富岡兼吾と関係を結んだことで妻の邦子にすまないなどと思ったことは一度もない。富岡の子供を堕胎したことに罪の意識を覚えたこともない。感傷的な男が思うほど、女は堕胎に罪の意識を感じていないのかもしれない。セックス、妊娠、堕胎という肉体上の快楽、不快、痛みは〈罪〉と〈罰〉の次元にうまく被さってこないのかもしれない。肉体上の痛覚と罪の意識は違う。堕胎時の痛覚は痛覚であって、手術後一定の期間が過ぎれば痛覚は消失する。堕胎を経験した大津しもと幸田ゆき子から、命を奪った者としての〈罪〉の意識は読者の側に伝わってこない。
 ドライな感覚と言ったらいいのだろうか。堕胎に人道的な罪悪意識はまとわりついていない。犠牲になる胎児よりも生きている人間の方がはるかに重視されている。大津しもは世話になっている老人に迷惑がかからないようにという配慮が優先し、堕胎という胎児抹殺に苦しむ様子は見られない。これは描きかたの問題でもあろう。堕胎という女にとって心身ともに深い痛手を負うことがらに関して、当の女たちがただひたすら沈黙を守っているということなのだろう。堕胎という現実を回避できなかった者にとっては泣いてもわめいても詮方ないという諦念が沈殿している。ゆき子も大津しもも、お互いの心のうちに無遠慮に踏み込んでいくことはない。ゆき子は自分と同じく堕胎した大津しもの心の内などより、伊庭の宗教ビジネス上の理屈に耳を傾けている。
 伊庭に苦しみ悲しむ人間の魂をえぐるような言葉の持ち合わせはない。保険会社で〈実直な男〉の評判をとっていた伊庭は、大日向教で実権を握った今においても、その言葉は〈客=信者〉を教団に取り込む巧妙な奸策と単純な明確さを備えている。「大日向教は、人間の心の病いをなおそうという心願のもとに生まれたのです。生身の躯を診る医者はあっても、精神を診て慰めてくれる医者はありません。しかも、この宗教は金持ちへ導く、非常に明るい末世の楽観術もほどこしております」と言われれば、はいそうですか、と答えるほかない。伊庭の言葉を信じて精神の慰めと金持ちになりたいと思う者は〈信者〉となって修行に励めばよろしかろう、というまでの話である。伊庭の言葉は余りにもあっけらかんとしているので、庶民的な健全さと明確さを持っている。ドストエフスキーの『罪と罰』や『カラマーゾフの兄弟』を読んで信仰の問題を考えてもいっこうに埒があかないが、伊庭の言葉は庶民の心をくすぐる明確さを持っている。魂の慰めを求める人間に深遠な哲学も神学も必要ではない。大津しもが求めているのは神学ではなく〈生活の資本〉であり、心を慰める修行の場である。それを保証してくれさえすれば、伊庭という男が商売人であろうと女たらしであろうと問題にならない。
 伊庭は大津しもが〈身分のある方のうしろだて〉があることを知るととっさに態度を変え「普通の方より大切にお取りなしいたしましょう」と言い、続けて「教祖はなかなか人にあうのをおきらいで、私が、何事も代行しているものですから」と付け加える。宗教においては〈神〉や〈教祖〉は姿を現さず、〈代行〉がすべてを取り仕切るというのが最も権勢を拡大させるやり口である。伊庭は参謀として教祖を最大限に利用し、大日向教という教団の中で実質的な権力を握る。
 『浮雲』の中で、教祖は伊庭の言葉の中でしか存在せず、その生身の姿を現すことがない。富岡兼吾が読んでいた『悪霊』で言えば、ピョートル・ヴェルホヴェーンスキーが〈イワン皇子〉として崇めていたニコライ・スタヴローギンは作中にその姿を現してしまうが、本来こういった人物は人々のうちで様々に噂される存在にとどめ、決して舞台に登場させないほうがいい。ピョートル・ヴェルホヴェーンスキーは舞台に登場して思う存分ニコライ・スタヴローギンの〈猿〉を演じてもかまわないが、ニコライ・スタヴローギンは姿を現さないことでその神格化を遂げることができる。『悪霊』にニコライ・スタヴローギンを登場させたことは彼の〈神格化〉という点では失敗だったと言える。
 林芙美子は『浮雲』で大日向教の〈教祖〉を〈代行〉伊庭の言葉の中にのみ存在させたことで、教祖の神格化には成功した。ただし、この〈教祖〉は伊庭という俗物の言葉によって語られることで十分にそのメッキは剥がされている。もちろん、幸田ゆき子にとっても大津しもにとっても、大日向教の教祖がインチキ野郎であることなどすでに見え見えである。身分のある老人の子供を堕胎した大津しも、富岡兼吾(?)の子供を堕胎した幸田ゆき子にそのインチキ野郎どもを非難することはできない。