清水正の『浮雲』放浪記(連載96)

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 清水正の『浮雲』放浪記(連載96)

平成□年5月16日

  大津しもは、しばらく考えていたようだったが、浴衣の上に羽織を引っかけて、蒲団の上に坐り、伊庭に言った。
 「私、実は、千葉のものでございますが、深い事情がございまして、どうしても、このままでは田舎へ戻るというわけにはゆかないのでございます。その大日向教のほうの信者にさしていただいて、修行ができましたら、布教師のお免状でもちょうだいいたしたいのでございますが、それには、いかほどくらいお金がかかるものでございましょうか?」
  伊庭は鹿爪らしく、外国煙草をふかしながらん、
 「そうですな。初め、入会金として、ただの信者の方からは三百円いただいておりますが、布教師をお願いになりますならば、初めは千円の保証金を入れて貰うことになっています。半年すれば、布教師の許しが出ます。日々の分はおこもり料とて、おぼしめしをちょうだいして、許しの時に、またご相談することになっておりますがね」
  大津しもは、ぜひ、大日向教のおこもり堂に上ると言って、伊庭から住所を書いて貰った。伊庭は、当分は名刺をつくらないのだと、妙なことを言いながら、大津しもに対して、何の興味もないらしく、
 「やっぱり、布教師になるには、ただの信者と違って、布教師になることが、生活の資本となるンですから、実は、これは、相当の金がいるンでしてね……」と言った。
 「はい、それは、私にもちゃんとあてがございますので、ここ一年ばかり、私の身をかくすことができましたら、どのようにも金を出してくれるものがございますのです。そのひとは身分のある人ですから、私が、救われて、どうにかなるまでは、不自由なくしてくれるという約束なンでございます」
 「ほほう、身分のある方ですか……」
  伊庭は、急に丁寧になった。
 「身分? 身分のある方の後だてかずあれば、大日向教のおおいにかんげいするところです。この宗教は、絶対にいまどきの邪宗ではありません。病気がなおると言って、人の気を吊るようなことはしないのです。また、現代のすすんだ科学の世の中に、宗教で病気がなおるとは考えられないじゃありませんか。大日向教は、人間の心の病いをなおそうという心願のもとに生れたのです。生身の躯をみる医者はあっても、精神を診て慰めてくれる医者はありません。しかも、この宗教は金持ちへ導く、非常に明るい末世の楽観術もほどこしております。ーー身分のある方のうしろだてならば、私のほうでも、普通の方より大切にお取りなしいたしましょう……。教祖はなかなか人にあうのをおきらいで、私が、何事も代行しているものですから……」(321〜322〈四十〉)

 〈教祖の首根ッ子〉をおさえている男と〈深い事情〉を抱えている女のやりとりをしっかりと見て描いているのは作者芙美子だが、同時にこの視点はゆき子のものでもある。ゆき子もまた大津しも以上に〈深い事情〉を抱えている女であるが、彼女は大津しものように改まった態度で伊庭に相談をもちかけるようなことはしない。ゆき子は伊庭と三年間の肉体関係があり、そこにどんな事情があったにせよ、その関係は真佐子に対する裏切り行為であることは免れない。伊庭とゆき子はいわば真佐子に対しては共犯であり、その〈罪〉によって結ばれている。妻に内緒で若い娘との肉体関係を三年間も続けた〈実直な男〉の〈罪〉もそうとうなものだが、肉体を提供して学費や生活費を出してもらっていた〈タイピスト学校生〉のゆき子のそれもそうとうなものである。保険会社に勤める〈実直な男〉が単なる親戚としての好意だけでゆき子を下宿させるわけはない。学費と下宿代は若い娘の肉体で払ってもらおうというのが伊庭の算段で、その算段をゆき子は承知したからこそタイピスト学校を卒業するまでの三年間、伊庭の欲求に黙って従ったのである。
 ゆき子と伊庭の関係はそもそもの初めから〈駆け引き〉〈取り引き〉で成立していた。小説の中で伊庭とゆき子の〈算段〉は完璧に伏されているので、テキストの森(湿地帯)に深く分け行っていかない読者にはその闇の領域に触れることはできない。
 ここでは伊庭と大津しもはその〈算段〉を明確に言葉に出している。大津しもは伊庭に魂の救いを求めているのではない。大津しもは伊庭が宗教を商売にしている計算高い見栄っ張りの男であることなどとっくの昔に看破している。妻のある老人の愛人として子供まで身ごもった大津しもは、人生の裏表を熟知している。大津しもはゆき子と同様に子供を堕胎したことに〈罪意識〉など露ほども感じていない。大津しもが第一に考えているのは、自分が関係していた〈身分のある老人〉に迷惑をかけないことである。老人に未来の生活を経済的に保証された大津しもにとっては、彼に社会的世間的な迷惑をかけないことが〈愛〉の証なのである。そのことの善悪を問う思春期の娘のような倫理感など微塵もない。大津しもは自分が抱え込んだ女の秘密を遵守することで自分の人生を全うしようとしているだけである。
 日本の大半の女はことを大げさに暴きたてることを回避しようとする。スキャンダラスな事件の渦中に巻き込まれて世間の冷たい眼差しにさらされるよりは、身を隠すことによって自らの保身をはかる。大津しもに〈身分のある老人〉に対する恨みつらみはない。彼女が今願っているのは大日向教という組織の中に自分の身の置き所を捜し当てたいということである。大津しもにとって宗教上の教義など伊庭以上にどうでもいいのである。彼女が布教師になることを望んだのも、伊庭の言う大日向教の教えに心から賛同したからではない。〈布教師〉は〈生活の資本〉以外のなにものでもない。
 林芙美子にとって神や仏はおにぎり一つのリアリテイも獲得することができない。ドストエフスキーは神の存在をめぐって一生涯苦しみ抜いた作家であるが、林芙美子は〈神〉よりも〈めし〉を問題にした作家である。飢えた子供を前にして文学も神も無力である。飢えて泣いている子供にドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』を差し出しても何の力にもならない。飢えた子供の前には〈神〉ではなく〈めし〉を差し出さなければならない。