清水正の『浮雲』放浪記(連載44)

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清水正研究室」のブログで林芙美子の作品批評に関しては[林芙美子の文学(連載170)林芙美子の『浮雲』について(168)]までを発表してあるが、その後に執筆したものを「清水正の『浮雲』放浪記」として本ブログで連載することにした。〈放浪記〉としたことでかなり自由に書けることがいいと思っている。
 清水正の『浮雲』放浪記(連載44)
平成△年7月29日
ゆき子は〈一夜泊って帰って行った富岡〉を通して「富岡は、何処かでおせいと逢う約束が出来ていたのかも判らない」と思う。ゆき子の直観は富岡とおせいの間に確かに関係があったと告げる。どんな鈍感な女でも、相手の男が自分を本気で好いていてくれているかどうかぐらいは分かる。ましてや肉体関係のある男と女であればごまかしようはない。富岡が口先でどんなに巧みに嘘をついても、そこにはどこかしら自然性から逸脱してしまうものがある。
 もし、富岡が伊香保から帰ったその日の夜、本気で情熱的にゆき子を抱いていれば、ゆき子はおせいのことなどその一晩の〈情熱〉で忘れ去っていただろう。が、富岡にはすでに〈情熱〉を演じきるエネルギーは枯渇している。富岡が欲しているのはゆき子の慾情ではなく、おせいのそれである。見送りに来たおせいの涙は〈ただごとではない女の涙〉としてゆき子にはとらえられている。ゆき子は富岡とおせいの間には〈何か〉が約束されているように感じる。この〈何か〉をどのように描くかは作者にかかっている。
 富岡はゆき子を捨てておせいと〈再生〉の道を歩むこともできる。が、林芙美子は富岡とおせいの関係を膨らませていくことはしなかった。作者はどこまでも富岡とゆき子の関係、その〈腐れ縁〉にこだわり続けた。
 ゆき子はジョオとの関係に一方的に幕を下ろしてしまう。作者はゆき子から捨てられたジョオのことを追っていこうとはしない。ジョオは『浮雲』においてかなり重要な役割を負って登場したにもかかわらず、捨てられる時は実にあっさりと処理されてしまっている。富岡とおせいに関しても、作者はリアリテイのない安易な小説的処理をしている。
 富岡とおせいの関係にリアリティを与えるためには、おせいと向井清吉の関係を具体的に描き込んでいかなければならないし、富岡と向井清吉の直接的な対決場面も描かなければならない。そうして初めて、富岡とおせいの関係に厚みのあるリアリティがにじみ出てくる。
 林芙美子はなぜそうしなかったのか。その第一の理由は、富岡とおせいの関係を具体的に描けば描くほど、富岡とおせいの関係の繰り返しになると作者が考えたことにあろう。富岡とおせいの物語は、富岡とゆき子の物語に幕を下ろした後に、新しい小説として描けばいいということになる。換言すれば、富岡とゆき子の物語に富岡とおせいの物語は邪魔になるということである。富岡とおせいの物語は、富岡とゆき子の『浮雲』物語を乗っ取ってしまうかもしれない。『浮雲』を一定の緊張感を湛えた物語として描ききるために、将来、大きく成長しかねない枝を予め切り落とす必要があると、作者が途中から考えた、その結果、邪魔者は消せとばかりに、おせいは亭主の向井清吉によって殺されてしまう。こういった通俗小説的な安易な設定は極力回避しなければならない。もし、敢えてするというなら、すべては巡り合わせなどと口にしていた、諦念を人生の基底に据えた運命論者の向井清吉をもっと丁寧に描き込む必要がある。
 林芙美子はゆき子が直観した富岡とおせいの間に約束されていた〈何か〉を描くことはできなかった。『罪と罰』のロジオン・ロマーノヴィチ・ラスコーリニコフとソーニャの間で約束されていた〈何か〉を作者ドストエフスキーはそれなりに描くことができた。〈何か〉とは〈復活〉である。『罪と罰』は主人公の「おれにアレができるだろうか」の〈あれ〉をめぐって展開する。〈高利貸しの老婆アリョーナ殺し〉→〈キリスト者のリザヴェータ殺し〉→〈殺人者が誰であるかの報告〉(ロジオンはソーニャに向かってリザヴェータを殺したことを告白しているのではない。〈告白〉は殺人に〈罪=грех〉を認めた懺悔を意味するが、ロジオンにリザヴェータを殺したことに対する罪の意識はない。ロジオンはこの時、口に出してはっきりとリザヴェータ殺害者の犯人は、すなわち自分であることを報告しているわけではない。ロジオンはソーニャの顔を殺人者の顔でじっと見詰めることで、殺人者が自分であることを報告したのである)→〈大地への接吻〉→〈警察署への自首〉→〈復活の曙光に輝く〉。ドストエフスキーはロジオンを復活の曙光に輝かせることで〈二人の間に約束されている〉事を明白にした。ロジオンのこの〈復活の曙光に輝いた〉事を、読者が自分の事として完全に重ね合わせることができるなら、その人もまた復活の曙光に輝いたと言えるかもしれない。
 わたしの場合は『罪と罰』を何度読んでも、ロジオンの復活に関しては「かもしれない」という曖昧な言い方になってしまう。ドストエフスキーがエピローグで描いたロジオンの復活の曙光に輝いた場面を、わたしは批評家の眼差しで見つめている。ロジオンは二人の女を殺害したその〈踏み越え=преступление〉に〈罪=грех)意識を感じることなく復活の曙光に輝いた。〈罪〉の意識になぞ関係なく、〈或る何ものか〉がロジオンのからだを突然ひっつかみ、ソーニャの前にひれ伏せさせたのである。
 批評の眼差しに〈ソーニャ〉は神の化身とも言うべき、実体感のある〈幻〉(видение)として現れているが、しかしロジオンと同じ体験をするためには、わたしの傍らにもその〈幻〉(видение)が現れてこなければならない。ロジオンにおいては〈思弁〉の代わりに〈生活〉(жизнь)が到来したが、わたしは依然として〈思弁〉の領域を生きている。ただし、わたしの思弁は〈生活〉に背反するものではない。狂信者(юродивая=ソーニャ)と共に生きる〈生活〉ではなく、ロジオンの〈仕事=考えること〉を全身を震わせて笑うナスターシャ(わたしは彼女にロシア民衆の健全な逞しさと偉大なる母性を見ている)と共に生きる〈生活〉を大切にしたいと思っている。
 おせいが、このナスターシャと同じような偉大なる母性として描かれれば、虚無のただ中にいて魂を喪失してしまっている富岡においても、ロジオンとは次元を異にする〈復活〉が可能であったかもしれない。ロジオンの現存在は〈突然〉の時性によって支配されているが、富岡の実存には〈突然〉が係わってくることはない。富岡の現存在を支配している時性を敢えて言葉にすれば〈だらだら〉である。富岡は皮肉の言葉を相手にぶつけることはできても、毅然とした一義的な言葉を発することはできない。〈ぐずぐず〉〈だらだら〉〈くどくど〉が富岡の実存の諸特徴を表している。狡くて卑怯で見栄坊で、どんなに落ちぶれても酒と女がなくては一時も生きていられないようなろくでなしが富岡兼吾である。