清水正の『浮雲』放浪記(連載74)

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清水正研究室」のブログで林芙美子の作品批評に関しては[林芙美子の文学(連載170)林芙美子の『浮雲』について(168)]までを発表してあるが、その後に執筆したものを「清水正の『浮雲』放浪記」として本ブログで連載することにした。〈放浪記〉としたことでかなり自由に書けることがいいと思っている。
 清水正の『浮雲』放浪記(連載74)
平成△年8月31日
 五体の神秘はもとより、世界の事象はすべて神秘であり、どんなに科学が発達してもその神秘を解き明かすことはできない。ところで、事象の神秘に直面して、その神秘的な事象の創造者(神)の存在を認めたとしても、この〈神〉が人間に都合のいい正義や真理を地上世界に体現するとは限らない。神秘の前に静かに頭を垂れ、己の高慢な意識を投げ捨てて、或る永遠なるものと一体化したいという気持ちになることはある。しかし、この感情は、魂の救いを求める気持ちや、現世利益を求める感情とは一致しない。
 伊庭は人間の五体の神秘について春子相手にもっともらしい話をすることはできても、地上世界に正義を実現する神の存在についてはいっさい触れない。敗戦後間近の日本にイヴァン・カラマーゾフが生きていれば、なぜ神は原爆投下による何万人もの犠牲を必要としたのか、と問わずにはいないだろう。戦争を含めた人間の問題を人間の次元だけで解決しようとすれば、正義や悪の概念は相対性を脱することはできない。先勝国主導型の裁判が〈公平〉を欠くことは当然だし、人による人の裁きが絶対性を獲得できないことは説明するまでもない。が、神による裁きもまた絶対性を獲得し得ないという懐疑の深みにどこまでも突きすすんで苦しみ抜いたのがヨブでありイヴァン・カラマーゾフであった。ヨブの懐疑のはての信仰よりは、神の創造した世界への入場を拒否したイヴァン・カラマーゾフの狂気にこそシンパシーを感ずることは否めない。神の子イエスはすべての人間の罪を背負って十字架上での死を引き受けたと言われても、その〈罪〉が体感として分からない。
 ロジオンは二人の女を殺害してまで〈罪〉の意識に襲われることはなかった。ロジオンは苦しんでいた。このことは否定できないとしても、問題は彼が何を苦しんでいたかである。ロジオンはソーニャのただ一人の友達リザヴェータを殺しても、リザヴェータを殺したこと自体に苦しんでいるというよりは、自分がナポレオンのような非凡人ではなかったということ、自分が殺した老婆アリョーナと同様のシラミのような存在でしかなかったのだという苦い自己認識に苦しんでいたのである。ドストエフスキーは『罪と罰』のエピローグでロジオンを復活の曙光に輝かせたが、しかし彼はついに〈罪〉の意識に恐れ慄くロジオンを描くことはできなかった。
 ドストエフスキーが断定したのは、ロジオンには〈思弁〉の代わりに〈生活〉が到来した、ということだけであった。〈思弁〉の代わりに〈罪〉の意識が襲来したのではない。ロジオンは、突然、神の風の襲撃によって全身をつかまれ、ソーニャの前に投げ出されたのである。『浮雲』の人物には、この突然襲撃してくる神秘的な体験がない。せいぜいあっても、性衝動の突き上げくらいのもので、この性衝動もまた、伊庭の言葉で言えば〈躓きかげんの軽重〉を計られている。『浮雲』の人物たちは、この計測機を一瞬のうちに破壊してしまうほどの圧倒的な衝動に駆られることはない。つまり彼らは「熱いか冷たいかのどちらかであって欲しい」という神の口からもれなく吐き出されてしまう〈生温きひと〉として生の舞台に投げ出されている。
 伊庭の創始した〈大日向教〉の神さまはユダヤキリスト教の人格神とは違って、試み、裁き、罰する神ではなく、〈人間の躓きの足もとを照してやる強大な日光の神さま〉であり、春子のような〈躓きっぱなしの人間〉をそのつど起して歩けるようにしてくれる慈悲深き神さまなのである。大日向教の信者に求められているのは「天を眺め、神を祈る」ことであり、そしてお布施ということになる。