清水正の『浮雲』放浪記(連載75)

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清水正研究室」のブログで林芙美子の作品批評に関しては[林芙美子の文学(連載170)林芙美子の『浮雲』について(168)]までを発表してあるが、その後に執筆したものを「清水正の『浮雲』放浪記」として本ブログで連載することにした。〈放浪記〉としたことでかなり自由に書けることがいいと思っている。
 清水正の『浮雲』放浪記(連載75)
平成△年9月24日
 お布施はもちろん宗教上は信者の神に対するお礼の気持ちであるが、伊庭は〈大日向教〉を金儲けのための手段としか考えていないので、いかに信者をだまして金品を多く供出させるか、そのことにしか重きを置いていない。伊庭は宗教を元手のかからない商売としか考えておらず、自らが大日向教に魂の救いを求めることなど微塵も考えていない。にもかかわらず、伊庭の言葉はそれなりに説得力を備えている。春子が、本当に神はあるのかと問えば、即座に、神は存在するからこそ「人間は、神を信じるまでの迷いが多いンだね」と答える。まるで深い迷いを経て、覚りを得たかのような自信にあふれた返答である。自らが信じていないことを、相手に信じさせて、巧妙に金品を騙し取る者をペテン師と言うが、〈宗教〉の場合は〈信者〉は自分が騙されているという自覚がないので、伊庭のようなペテン師にとっては赤子の首をひねるようなものである。
 さて、伊庭がここで語っている「ロマ書の第十四章、二十三節にもあるとおり、すべて信仰によらぬことは罪なりと語られているとおり、基督教だってこんな判りきったことを言っているのですから」云々に関して改めて注目してみたい。 わたしはこの箇所を読んだ時、すぐに以下の文章を想いだした。

 作者は、この表題については、一と言も語りはしなかった。併し、聞えるものには聞えるであろう。「すべて信仰によらぬことは罪なり」(ロマ書)と。

 これは小林秀雄が昭和二十三年十一月に書き終えた『罪と罰』論(「「罪と罰」について」)の締めくくりの場面で「創元」第二輯に発表された。林芙美子がこの批評を読んでいる可能性は高い。わたしは小林秀雄のもったいぶった、分かったような分からないような気取った文章に辟易するが、初めてドストエフスキー論を書き始めた二十歳前後の頃は熱心に読んだ。晩年、小林は学生たちを前にした講演で「キリスト教が分からない」のでドストエフスキーから離れたようなことを語っているが、わたしはこの『罪と罰』論を初めて読んだ時から、ロマ書の引用で終える批評文を怪訝に思っていた。小林は「ラスコオリニコフを知ろうと思うものは、先ずポルフィーリイに転身し、希薄になった空気の中で、不思議な息苦しさを経験してみる必要がある。息苦しさのなかに、希薄な空気の中に批評の極限の如きものが漂うのを感知するであろう。ポルフィーリイは、世の評家等に警告する、「私はもうお了いになった人間です。」」と書いている。すでに完璧におしまいになってしまった人間であるポルフィーリイの側に立つ批評家が、信仰者でもないのに「すべて信仰によらぬことは罪なり」の引用で『罪と罰』論を終えることに、何か腑に落ちないものを感じた。
 伊庭はもちろんキリスト者として「すべて信仰によらぬことは罪なり」という言葉を口にしているのではない。伊庭にとって〈信仰〉は〈商売〉であるから、彼の生存は〈罪と罰〉の埒外にある。ロマ書の言葉の次元に伊庭を置けば、間違いなく伊庭は〈罪人〉となるが、伊庭自身はキリスト教の〈罪と罰〉から遠く離れて、卑俗で安泰な日々の生活を送っている。このことは一人伊庭に限ったことではない。富岡もゆき子も同じである。彼ら、生温き人々は、キリスト教の神に呪縛された存在ではないので、ロジオン・ロマーノヴィチ・ラスコーリニコフのような〈踏み越え〉のドラマ、すなわち〈殺人〉から〈復活〉へと至るドラマを演ずることはない。