清水正の『浮雲』放浪記(連載76)

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清水正研究室」のブログで林芙美子の作品批評に関しては[林芙美子の文学(連載170)林芙美子の『浮雲』について(168)]までを発表してあるが、その後に執筆したものを「清水正の『浮雲』放浪記」として本ブログで連載することにした。〈放浪記〉としたことでかなり自由に書けることがいいと思っている。
 清水正の『浮雲』放浪記(連載76)
平成△年9月26日

すき焼きの支度が出来た。伊庭も肉鍋に手を出した。ゆき子は少しも食慾がない。生葱の白いところを好んで食べた。春子は、ポケットウイスキーを出して、伊庭にもすすめた。伊庭は女二人を前にして、酒に酔って来ると、さかんに肉をつつきながら、一度、二人でお参りに来てみてくれと言った。(310〈三十七〉)

 林芙美子にあっては〈神〉の問題と〈すき焼き〉は同一レベルで取り上げられる。否、〈すき焼き〉の方が比重が重いかもしれない。生きるとは食欲と性欲を満たすことだ、という体感的な確信がある。信仰はその二つが満たされた者がさらに求める嗜好品のようなもので、あってもなくても別に生存自体には関係がない。林芙美子文学の底流に確固として潜んでいるのが、こういった思いである。ドストエフスキーの人物たちにあっては、神があるかないかは重要な問題であったが、林芙美子の人物たちにあっては神があろうがなかろうか、そんなことは知ったことではない。ゆき子にとっては、神よりも富岡、富岡よりも飯が大事という思いがある。換言すれば、ゆき子は自分を救ってくれる神の存在などのっけから信じていないということである。このゆき子の思いに林芙美子の思いも重なっている。だからこそ、新興宗教を始めた伊庭の宗教観も俗にまみれた次元を超えることはできなかった。逆に言えば、林芙美子は徹底して宗教を俗の次元で見ている。林芙美子のリアルな眼差しは、宗教に聖なるものを見いだすことはできない。とりあえず、伊庭の発する言葉を見ておくことにしよう。

 「昔は、どこの村々町々にも寺があってね、寺が庶民の寄りあいの場所だったが、寺もだんだんお葬い専門になっちまったから、活気がなくなり、仏教は暗いものといった印象を受けるようになったからね……。そこへ行くと、基督教ってものは結婚式も引きうけるし、賑やかな宗教だよ。何も、百貨店や料理屋ばかりで、何十組もの結婚式を引き受けることはないやね。そうだろう? 大日向教もその伝でゆくつもりだ。何事も賑やかな明朗な宗教が、躓いた人間に魅力があるもんだ。いまに大日向教の本殿で結婚式が始まるようになる。葬式はいっさい引き受けないことにする。ーー東都のどこかの寺では、寅の日にお参りして、寺で買った筆で帳面をつけると、金持ちになるという案を考え出して、それからぐうんとお参りもふえたそうだが、考え出した坊主は頭がいいのさ。すべて陽気な明るいものでいかなくちゃいけない。縁結びなンてのは貧弱だね。すべて人にかくれてお参りをしなくちゃならんというような宗教はだめだ。金もうけの宗教、人間の慾に目をつけたものが、宗教も栄えるようだね」
  神はどこかへかくれて、神を利用し、人間を利用するテクニックについての話に変って来た。人間はすべて躓き、すべてが絶望の苦悩を持っているものであると、伊庭は言うのである。どの人間も、絶望は長く、喜びは短い。その短い喜びは人間の五慾のなかの一種のエクスタアシイにもあたるもので、その喜びの短さをとらえて、人間どもをそそのかしてやることが、今日の宗教の急務だと、伊庭は説明した。愛慾のために、男も女も金を使う。宗教のエクスタアシイもそのこつを心得ていれば、宗教くらい金もうけのできるものはないという商売通の説明になった。(310〈三十七〉)

まさに伊庭の話からは「神はどこかへかくれて」しまった。しかし、だからこそ、伊庭の話に日本の神は端的に表れていると言えよう。わたしは戦後に生まれ、戦後の民主教育とやらを受けているので、学校で正式に〈日本の神〉について教師から話を聞いたことがない。わたしは十七歳でドストエフスキーの『地下生活者の手記』を読み、以後、憑かれたようにドストエフスキーを読み続けることで、ドストエフスキーが問題にしている〈神〉に関しては、さまざまな人物たちと共に考え続けてきたが、日本の神に関して真剣に研究したことはない。日本の八百万の神々は、絶対善や絶対正義を全面に突き出すことはない。日本人が〈神〉に求めるのは家内安全、健康、権力や金力の獲得などであって、現世利益の次元を超えたものではない。自分の現世利益は他者のそれと一致することよりは、それに反することが多い。従って日本の〈神〉は、人間の呪詛をも引き受ける神となる。平たく言えば、日本人の大半は〈神〉に威信を与え、それを利用して来たのであって、どんなに大層な教義を整え、教えを流布し、僧侶や信者に厳しい修行を要請し、荘厳な建造物を造っても、基本的には伊庭の言っていることと五十歩百歩ということになる。伊庭は宗教経営のノウハウを女二人を相手に無邪気に披露して、何ら恥じるところがない。