清水正の『浮雲』放浪記(連載105)

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清水正研究室」のブログで林芙美子の作品批評に関しては[林芙美子の文学(連載170)林芙美子の『浮雲』について(168)]までを発表してあるが、その後に執筆したものを「清水正の『浮雲』放浪記」として本ブログで連載することにした。〈放浪記〉としたことでかなり自由に書けることがいいと思っている。




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 清水正の『浮雲』放浪記(連載105)

平成□年6月13日
 伊庭は大津しものことを話す。伊庭はしもを高く評価しているが、もちろんそれは宗教ビジネスに合致した能力に関してである。すでに見てきたように、しもは教祖や伊庭に魂の救いを求めて大日向教に入信したのではない。大日向教をビジネスと割り切り、そこに生活の資を求めて〈おこもり〉修行に励んでいるに過ぎない。ビジネスを発展させる為の一要員になるべくしもは必死に努力している。作者芙美子に、このしもの生き方に善悪を問う野暮な視点はない。作者は伊庭の言葉を通して、一人の女が現実を生きるその現場をいっさいの虚飾を剥いで描き出している。「なかなか有望だ。弁も立つし、小金も持っているし、このごろは、こってりとお白粉もつけて、とても張り切って来た。小学校の教員で家は味噌屋だって話だぜ。女も、年を取って来ると、行く末のことを考えるようになると見えて使いいいし、教祖も拾いもンだと言っている」この伊庭の言葉で大津しもという女の全貌は余すところなく描かれている。〈行く末〉を考えるようになった年を取った〈女〉の〈現実〉を照射する作者の
眼差しは冷徹であるが、そこにはその〈女〉に寄り添った作者のかぎりない愛も感じる。垂直上の彼方に存在する〈神〉に頭をさげて祈れば、〈女〉の悲しさや苦しさが消えてなくなるなどという、そんなマジックにうつつを抜かしているわけにはいかない。作者は、お白粉をこってりつけて修行に励む大津しもという〈女〉を、伊庭の言葉だけで見事に浮上させている。

  伊庭は新しい黒い服を着て、胸にひまわりのバッヂをはめていた。
 「大きい声じゃ言えないが、こうした世の中で、何が一番いい商売かといえば、宗教だね。宗教で、人を救う道だ。おもしろいほど迷いの人間が聞きつたえてやって来る。四囲には売店もできたし駅には地図も出ている。おもしろいもンだ。喜んで金を出す人間ばかりだ。金を渋るものがないというのは宗教の力だね。鷺の宮のあの家は売ってしまったよ。いまは池上に銀行家の家を買って、教祖とうちのものといっしょに住んでいるが、これは立派だ。三百五十万円で、家は古いが、八十坪の建坪でね、邸内は五百坪、池あり山ありだ」
 「いまに、神さまの罰があたるわよ」(324〈四十一〉)

 伊庭は〈黒い服〉を着て、胸に〈ひまわりのバッヂ〉をはめている。〈黒い服〉は大日向教で実質的な権力を掌握した伊庭の威厳を顕している。〈ひまわりのバッヂ〉はまさに大日向教のシンボルそのものである。どんな宗教でもそれが組織された段階で人間臭い側面を露呈することになる。豪華できらびやかな衣装、権威の象徴としての教会堂、大寺院、階級など、宗教自体の教えと直接関係のないことが〈組織〉として構成された時点で重要視される。組織を維持する為には資金集めを軽視することはできない。どんなにきれいごとを並べても、宗教団体は経営を無視することはできない。伊庭は初めから大日向教をビジネスとして割り切っているから、宗教を元手のかからない一番いい〈商売〉と見なしている。煩悩で苦しむ多くの人間を、宗教で救ってやるというのが、伊庭の宗教ビジネスの基本的なノウハウである。この伊庭の商売哲学から完璧に免れる宗教団体が存在するとは思えない。伊庭の言葉はあっけらかんとことの真実を表明しているので、この言葉に十分納得のいく反撃を返すことはかえって容易ではない。
宗教ビジネスはあくまでもビジネスであるから、それに善悪観念を適用することはできない。大日向教の信者になって苦しみから解放される人間がおり、大日向教を経営することによって金儲けする人間がいる。お互いがお互いを必要としているから宗教ビジネスは成立する。その意味では伊庭の言動に〈神罰〉を下す〈神〉などあってもなくても関係ないのである。もし伊庭に〈神罰〉が下るのであれば、この〈神罰〉を免れる者は一人もいない。伊庭の〈神〉に対する考えは、彼の確固たる現実認識に基づいている。

 「神さまか、神さまは運のいい奴だけはお見捨てはない。運命の縄をよう握らぬ奴は、神さまだって興味はないさ。ーー俺はね、ゆき子にやっぱり惚れているらしいね。そのうち、ゆき子の家もこぢんまりしたのを買ってやる。何といっても、お前の最初の男は俺だから、そのことだけは忘れられないンだ……」
  ゆき子は厭な気がした。
 「そんな話はやめてください。いまごろ、そんな話をして、私を吊ろうたって、私はもう、男のひとにはだまされないンだから。女だって、年をとれば世の中を見る眼はついて来るわ。私は、もう、昔のむしっかえしはたくさんなんです。あんたのことなンか、何とも思っちゃいない」
  伊庭はにやにや笑った。化粧のないゆき子の顔は、蒼ざめていたが、女らしくて、昔の生娘とは違うなまめかしさを持っていた。(324〜325〈四十一〉)