清水正の『浮雲』放浪記(連載95)

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 清水正の『浮雲』放浪記(連載95)


平成□年5月15日
 伊庭はゆき子が富岡兼吾にご執心であることに嫉妬しない。伊庭は教祖の参謀として、実質的な権力を握っている。彼に今必要なのは〈腹心の秘書〉であり、その第一候補がゆき子である。嫉妬心などに煩わされる暇もなかったかのように見える。が、こういった点に関しては安易な決めつけは要注意である。
 『浮雲』において伊庭は中心人物の位置を獲得することができない。その理由はいろいろ考えられるが、まず第一にあげられるのはゆき子にとって最も魅力的な男が富岡兼吾であったということによる。一読者のわたしにとって富岡のような男は何の魅力も感じないが、ゆき子のような女にとって富岡は生理的次元での魅力があったのだろう。作者はゆき子の内部に入り込んで叙述をしているので、読者は無意識のうちにゆき子の感情にそって小説展開を追っていくことになる。読者がゆき子の感情から離れて富岡を見れば、こんなくだらない男はいない。できない約束はする、事業には失敗する、自分にかかわったただ一人の女を幸せにしてやることができない。理想も夢もない。宗教ビジネスを軌道に乗せた伊庭にしてみれば、こんな惨めなだけの富岡に嫉妬する理由はまったくなかったということになる。
 もう一つ考えられるのは、作者の書き方の問題である。伊庭は上京したばかりの十九歳のゆき子の体を奪った男で、内密の関係は三年間も続いたが、この三年間はさらっと記述されるだけで、二人の濡れ場や、ゆき子と伊庭の妻との関係などはほとんど触れられなかった。自分の家に下宿している若い女と夫の三年間の関係に気づかないような鈍感で都合のいい妻は地球上のどこを探してもいないだろう。しかし、幸田ゆき子と伊庭杉夫と妻真佐子の関係に深入りすると、ゆき子と富岡の物語の密度は薄められてしまうことになる。伊庭はゆき子と不倫の関係を続けていた当時は保険会社の人事課に勤める〈実直な男〉にとどまっていたが、今や十万を越える信者を擁する大日向教の実力者にのし上がっている。こういった伊庭の内部世界にも十分な照明をあて、彼とゆき子、教祖、妻真佐子の関係なども丁寧に重層的に描いていけば、彼は富岡兼吾とは違った魅力を備えた男となったにちがいない。
 伊庭は『浮雲』において俗物の典型として描かれているが、こういった俗物の存在必然性を描ききれたら、それこそ大変な小説家ということになる。ドストエフスキーですらピョートル・ルージンのその俗物性を戯画化して描くにとどまっている。俗物ルージンもまた一人のかけがえのない人間としてこの地上世界を生きているのだという観点がドストエフスキーには欠けている。熱くも冷たくもない人間を、ユダヤキリスト教の神は自らの口から吐き出してしまうが、小説家はその吐き出された生ぬるき人間の生きてある現場を描かなければならない。