清水正の『浮雲』放浪記（連載171）

6清水正への原稿・講演依頼は　qqh576zd@salsa.ocn.ne.jp　宛にお申込みください。ドストエフスキー・宮沢賢治・宮崎駿・今村昌平・林芙美子・つげ義春・日野日出志などについての講演を引き受けます。

清水正の講義・対談・鼎談・講演がユーチューブ【清水正チャンネル】https://www.youtube.com/results?search_query=%E6%B8%85%E6%B0%B4%E6%AD%A3%E3%81%A1%E3%82%83%E3%82%93%E3%81%AD%E3%82%8Bで見れます。是非ご覧ください。

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批評家清水正の『ドストエフスキー論全集』完遂に向けて
清水正VS中村文昭〈ネジ式螺旋〉対談　ドストエフスキーin21世紀（全12回）。
ドストエフスキー、トルストイ、チェーホフ、宮沢賢治、暗黒舞踏、キリスト、母性などを巡って詩人と批評家が縦横無尽に語り尽くした世紀の対談。
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https://youtu.be/KqOcdfu3ldI　ドストエフスキーの『罪と罰』
http://www.youtube.com/watch?v=1GaA-9vEkPg&feature=plcp　『ドラえもん』とつげ義春の『チーコ』
https://youtu.be/s1FZuQ_1-v4 畑中純の魅力
https://www.youtube.com/watch?v=GdMbou5qjf4『罪と罰』とペテルブルク（1）

https://www.youtube.com/watch?v=-0sbsCLVUNY 宮沢賢治「銀河鉄道の夜」の深層（１）【清水正チャンネル】
https://www.youtube.com/watch?v=Xpe5P2oQC4sシリーズ漫画を語る（2）「『あしたのジョー』を巡って（1）」【清水正チャンネル】

https://www.youtube.com/watch?v=MOxjkWSqxiQ 林芙美子『浮雲』における死と復活――ドストエフスキー『罪と罰』に関連付けて（1）【清水正チャンネル】

https://www.youtube.com/watch?v=a67lpJ72kK8 日野日出志『蔵六の奇病』をめぐって【清水正チャンネル】

https://www.youtube.com/watch?v=MlzGm9Ikmzk ドストエフスキー『罪と罰』における死と復活のドラマ【清水正チャンネル】

https://www.youtube.com/watch?v=ecyFmmIKUqIシリーズ漫画を語る（3）「日野日出志『蔵六の奇病』を巡って（１）」【清水正チャンネル】

https://www.youtube.com/watch?v=0JXnQm1fOyU 『罪と罰』の「マルメラードフの告白」を巡って（１）【清水正チャンネル】

清水正『世界文学の中のドラえもん』『日野日出志を読む』清水正への原稿・講演依頼は　http://www.ebookjapan.jp/ebj/title/190266.html

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デヴィ夫人のブログで取り上げられています。ぜひご覧ください。
http://ameblo.jp/dewisukarno/entry-12055568875.html

「清水正研究室」のブログで林芙美子の作品批評に関しては［林芙美子の文学（連載170）林芙美子の『浮雲』について（168）］までを発表してあるが、その後に執筆したものを「清水正の『浮雲』放浪記」として本ブログで連載することにした。〈放浪記〉としたことでかなり自由に書けることがいいと思っている。

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『清水正・ドストエフスキー論全集』第八巻が刊行されました。

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　清水正の『浮雲』放浪記（連載171）
　平成☆年5月29日

　ここでほんの少しばかり、スヴィドリガイロフとロジオンの会話を思い出しておこう。ロジオンに「あなたはここでただ淫蕩だけに、望みをつないでるんですか?」と聞かれてスヴィドリガイロフは「ふん、それがどうなんです!　まあ淫蕩にもつないでおりますよ!　だが、あなたはよっぽど淫蕩が気になるんですね。それに、わたしは少なくとも正直な質問が好きなんで。この淫蕩ってやつの中にゃなんといっても、自然に根底を持った、空想に堕さない、一種恒久なものがありますよ。たえずおこっている炭火みたいものが血の中にあって、こいつがしじゅう焼きつくようなはたらきをする。そして、年をとっても容易に消すことができないんですな。ねえ、そうじゃありませんか、これでも一種の仕事ではないでしょうか?」（537）と答えている。ロジオンは女中のナスターシャに向かって「考えていること」が〈仕事〉なんだと答えていたが、ここでスヴィドリガイロフは〈淫蕩〉もまた一種の〈仕事〉だと言っている。スヴィドリガイロフは自身を〈罪業の深い人間〉と言い、ロジオンは彼を〈堕落した野卑な好色漢〉〈すっかり手ずれのした淫蕩漢〉と見なしている。
　復活後のロジオンがこういったシニックな男とどのような会話を取り結ぶことになるのか。スヴィドリガイロフはピストル自殺して果てたが、来世があるとしてこの男はいったいどのような来世に生まれ変わったのであろうか。前世に想像していたように、四隅に蜘蛛の巣がかかった田舎の湯殿のような来世に佇んでいるのであろうか。
　三度目の会見で、ロジオンに「あなたはいったい何者です!」と聞かれてポルフィーリイ予審判事は「わたしが何者かって?　わたしはもうおしまいになった人間です。そりゃまあ感じもあれば、同情もあり、何かのこともちっとは心得た人間かもしれませんが、しかし、もうおしまいになった人間です」（525）〔Кто　я?　Я　поконченный　человек,больше　ничего.Человек,пожалуй,чувствующий　и　сочувствующий,пожалуй,кой-что　и　знающий,но　уж　совершенно　поконченный.〕（352）と答えている。米川正夫は「уж　совершенно　поконченный」を「もうおしまいになった人間です」と訳しているが、正確に訳せば「もう、すっかりおしまいになった人間です」ということになる。この、すでに「すっかりおしまいになった人間」であるポルフィーリイ予審判事は、まるで予言者のごとく、ロジオンに向かって「あなたは、望みのない卑劣漢じゃありません」「あなたはただ信仰とか神とかを見つけさえすれば、よし腸を引き出されようと、じっと立ったまま笑みをふくんで、自分を苦しめる連中をながめている、そういう人間のひとりだと思っています」「何も考えずにいきなり生活へ飛び込んでお行きなさい。心配することはありませんーーちゃんと岸へ打ち上げて、しっかり立たせてくれますよ」「あなたに信仰がないのは、わたしも承知しているが、しかし、だいじょうぶ、生活が導いてくれます、やがて自分から好きになりますよ。あなたは今ちと空気がたりない、空気が、空気がね!」「太陽におなりなさい、そうすれば、みんながあなたを仰ぎ見ますよ!　太陽は、まず第一に太陽でなければなりません」などと言っている。一介の予審判事の域を超えた、実に予言者風の暗示的象徴的な言葉が次々に発せられている。確か、最初に会ったときに、ロジオンはポルフィーリイに面と向かって神を、ラザロの復活を信じていると断言したはずである。しかし、ポルフィーリイはロジオンに信仰がないことは承知していると実にあっさりと断言し、何も考えずにいきなり〈生活〉〔жизнь＝キリスト〕に飛び込んでしまえと指示する。この予審判事はこともあろうに二人の女を殺害した殺人犯に向かって〈太陽〉とまで言っている。ロジオンならずとも、「あなたはいったい何者です!」〔Да　вы-то　кто　такой,〕と叫びたくなるだろう。彼の言っている飛び込まなければならない〈生活〉とは、足りないという〈空気〉とは……ポルフィーリイ予審判事の発する言葉はいちいち立ち止まって検証しなければ理解不可能である。最後に一つだけとりあげることにする。彼は「あなたが、ただばあさんを殺しただけなのは、まだしもだったんですよ。もしあなたがもっとほかの理論を考え出したら、それこそ百億倍も見ぐるしいことを仕でかしたかもしれませんよ!　まだしも神に感謝しなきゃならんかもしれませんて」と言っている。まず、素朴な疑問をぶつけよう。ロジオンはアリョーナばあさんだけを殺害したのではなく、目撃者となったリザヴェータをも殺している。二人を殺害していることは明白であるにもかかわらず、予審判事たる者がいかなる理由によって「ただばあさんだけを殺しただけなのは」などという言い方をしているのであろうか。こういった言い方でロジオンの自白を誘おうとしたのであろうか。それとも別の理由が存在していたのか。百億倍も見ぐるしい〈ほかの理論〉とは何なのか。わたしは『罪と罰』を最初に読んだ時から、ロジオンのリザヴェータ殺害に注目してきた。リザヴェータ殺害をも許容する理論こそ百億倍も見ぐるしいことをしでかす〈ほかの理論〉と見なしていたからである。先にも指摘したように、目的を遂行するためにはあらゆる手段が許されるという革命理論に従えば、当然、目撃者を殺すことも許される。つまり、目撃者が母親プリヘーリヤであっても、妹ドゥーニャであっても、ソーニャであっても、ポーレンカであってもすべて例外はないということである。わたしは作者自身がこの恐るべき〈ほかの理論〉を隠すために、ここでポルフィーリイ予審判事に敢えてリザヴェータ殺しを失念させたと見ている。ポルフィーリイは作者と密通している予審判事で、作者の隠れた意図に沿ってのみ鋭い批評的、予言者的言辞を弄している。ポルフィーリイはロジオンに向かって「あなたは、おれにアレができるだろうか?　と考えていたが、そのアレとは皇帝殺しも意味していたのですか?」とか「あなたは、アリョーナ殺しの目撃者が母親であった場合も、躊躇なく斧を振り上げて叩き殺しましたか?」などとは間違っても聞かない。ポルフィーリイ予審判事は作者が設定した領域を一歩も出ようとはしなかった。だからこそ、ポルフィーリイに代わってわたしが、作品世界に参入してさまざまな疑問を投げかけているのである。
　さて、『罪と罰』一編の世界をへ巡るだけでも、〈善〉と〈悪〉を明確に区切ることはできない。ロジオンのアリョーナ殺しは良心に照らして決行されたとすれば、それは悪どころか、むしろ善とも正義とも見なされる。ロジオンが殺人に堪えられなかったのは、それに持ちこたえられなかった、つまり弱い心の持ち主であったことを証明しているだけのことで、彼の良心がその行為に疼いていたわけではない。ロジオンは非凡人としての英雄的行為に堪えられなかったが故に〈不幸な人〉なのであり、彼の苦しみも殺した相手に対する深い同情から生じているのではない。ロジオンは母親や妹の喜怒哀楽に対しては想像力を旺盛に働かせるが、殺したアリョーナばあさんやリザヴェータに関してはほとんど何も想像力を働かせることがない。
　殺し、苦しみ、最後には復活の曙光に輝くロジオンに対して神が特別の愛を注いだことを認めたにしても、そのためにアリョーナやリザヴェータが殺されてもかまわないということにはならないだろう。殺された者たちに対して神はどのような救いの手をさしのべるのであろうか。来世があるなら、来世でのアリョーナやリザヴェータとロジオンの出会いの場面を想像してもみたくなる。が、わたしは〈来世〉は現世に生きる者の想像の産物としか思えないので、死後におけるロジオンと殺された者たちの出会いを考えること自体がナンセンスとしか思えない。
　幾多の戦争があって、数限りない残虐が行われてきた。事実としての残虐はまさに想像を絶するもので、そんなことをしでかしてきた人間が〈正義〉や〈善〉を口にすることさえはばかれる。イワン・カラマーゾフはこの世界で起きた残酷な諸事実をあげた後で「事実にとどまるほかはない」と口にする。