清水正 動物で読み解く『罪と罰』の深層■〈虱〉(вошь) 連載4  

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江古田文学」99号(2019-3-25)に掲載した「動物で読み解く『罪と罰』の深層」(連載3回)を数回にわたって紹介する。

動物で読み解く『罪と罰』の深層

 

清水正

■〈虱〉(вошь)
連載4  

 

 ロジオンは偶然という必然の網の目から逃れることはできない。まさにロジオンは十九世紀ロシア中葉に産み落とされたオイディプスなのである。オイディプスは誰も解けなかったスフィンクスの謎を解いた英知の人として設定されているが、殺した王を実父と思わず、娶った妻を実母と察することもできない愚者でもあった。ロジオンもまたオイディプスのこの二重性を継承している。ロジオンほどの思弁家が、古着屋の女房がリザヴェータに発した言葉「じゃ、あした六時過ぎにいらっしゃいな」(上・132)〔Приходите-тко завтра, часу в семом-с.〕(ア・51)、さらに旦那の念押しの言葉「六時過ぎですぜ、あしたの」(上・132)〔В семом часу, завтра;〕(ア・51)を耳にして「明日の晩、きっかり七時に、老婆のただひとりの同居人である妹のリザヴェータが家にいないということ、したがって、明日の晩、きっかり七時には、家にいるのは老婆ひとりきりだ」(上・133)〔что завтра, ровно в семь часов вечера, Лизаветы, старухиной сестры и единственной ее сожительницы, дома не будет и что, стало быть, старуха, ровно в семь часов вечера, ★付箋文★イタリックостанется дома одна.〕(ア・52)と思いこんでしまう、この愚かさをどう理解したらよかろう。

 ロジオンは後に自分の犯した犯罪を振り返って、そこにはある神秘的でデモーニッシュな力の作用が働いていたと思う。確かにロジオンの犯罪は知性や論理によっては解明できない神秘的な要素が潜んでいる。が、その神秘性に踏み込んで行く前にわたしは、ロジオンを創造した作者の意図に照明を与えておきたい。

 そこでまず問題にしなければならないのは、なぜドストエフスキーはロジオンがアリョーナ婆さんを殺した後に目撃者としてリザヴェータを登場させたのかということである。もし何らかの理由で、午後七時過ぎにリザヴェータがアリョーナ婆さんと一緒に部屋にいたら犯行はなされなかった可能性が高い。また犯行直前にでもリザヴェータが帰宅すれば、同様に犯行はなされなかったであろう。もしロジオンが〈第六時〉を正確に認識していれば、午後七時過ぎには帰宅する可能性のあるリザヴェータを思って犯行を思いとどまったであろう。つまり、ほんの少し想像力を働かせればロジオンはこの日犯行に及ぶことはなかったのである。しかし、ロジオンは現にアリョーナ婆さんを殺し、目撃者のリザヴェータをも殺してしまった。そのように設定したのは作者ドストエフスキーである。いかなる登場人物も作者の意図を越えることはできない。文学的表現としては「人物は作者から離れて独自の生き方をする」も可能だが、ロジオンの犯行に関してはその決定権を握っているのは作者であり、作者は決して殺人を犯さないロジオンを描くことも可能なのである。わたしなどは『罪と罰』を初めて読んだ時から、人殺しなどしないロジオンの方にこそリアリティを感じていた。