清水正 動物で読み解く『罪と罰』の深層■〈虱〉(вошь) 連載3 

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江古田文学」99号(2019-3-25)に掲載した「動物で読み解く『罪と罰』の深層」(連載3回)を数回にわたって紹介する。

動物で読み解く『罪と罰』の深層

 

清水正

■〈虱〉(вошь)
連載3

 

 さて、ロジオンの〈アリョーナ婆さん=虱〉殺しを認めるとしても、それでは第二の殺人(リザヴェータ殺し)はどのように理解すればいいのか、という新たな問題が浮上する。彼の理論が通用するのはアリョーナ婆さん殺しに限ってであり、リザヴェータ殺しを許容するものではない。犯行の現場にリザヴェータが出現した時、彼は目撃者である彼女を迷うことなく殺していている。しかも第一の犯行における一撃目の意識朦朧は微塵もなく、はっきりとした意識のもとに斧を振り下ろしている。ロジオンよ、おまえさんはこのリザヴェータ殺しをどのように理屈づけ、正当化するんだい? という疑問はとうぜん起こる。場合によっては血を流すことを許すおまえさんの〈良心〉とやらは、このリザヴェータ殺しをも許したのかい? というわけだ。ところが不思議なことにロジオンはリザヴェータ殺しに関してほとんど思い出すことがない。一番有名なリザヴェータ想起の場面を引いておこう。

 

 彼は、あたかも襲いかかって来た幻影と格闘するように、必死で考えをつづけた。『ああ、あの婆ァがいまさら憎らしくてならない! 息を吹きかえしたら、おれはまた殺してやるだろう! かわいそうなリザヴェータ! どうしてあんなところへはいって来たんだ! それにしても妙だな、どうしておれは彼女のことをほとんど考えないんだろう、まるで殺さなかったみたいに?……リザヴェータ、ソーニャ! 哀れな、柔和な女たち、柔和な目の女たち……かわいい女たち!……どうしてあの女たちは泣かないんだろう? どうしてうめき声をあげないんだろう? あの女たちはすべてを人に与えながら……柔和な、静かな目で見ている……ソーニャ、ソーニャ! 静かなソーニャ!……』(第三部六 中・177~178)

 

 この独白から明白なように、ロジオンはアリョーナ婆さんを殺したことに関して微塵の罪意識を感じていないし、〈良心〉の呵責に苦しんでもいない。彼にとってアリョーナ婆さんは殺害前も殺害後も有害な1匹の〈虱〉にとどまっている。

 

 問題はリザヴェータである。まるでロジオンは他人事のようにリザヴェータのことを思い出している。この殺人者の心理を共感的に受け止めることのできる読者がはたして何人いるだろうか。意志的に彼はリザヴェータの頭を叩き割っている。斧を通してロジオンはその衝撃を手に腕に全身に感じたはずである。噴き出る鮮血、血塗れの顔、床に崩れ落ちるリザヴェータ……。その一つの尊い命が尽きる最後の残酷きわまる姿をロジオンはしっかと脳裏に焼き付けたであろう。たまたま殺害現場の目撃者となったリザヴェータは、ロジオンによって微塵の躊躇もなく殺された。おい、ロジオン、おまえさんの〈良心〉はこの第二の殺人に関してもしらを切るつもりなのかい? 殺人の当時者が、殺害した女に関して〈哀れな、柔和な女〉〈かわいい女〉などと言っている。おいロジオン、ふざけるのもいい加減にしろよ! と憤るのがふつうの読者のふつうの思いなのではなかろうか。わたしは殺人を犯したことがないのでロジオンの思いを体感的に理解できないし、理屈の上でも理解できない。

 

 おいロジオン、おまえさんは自分が犯した殺人現場に、もし母親が現われても、明晰な意識のもとに斧を振り上げ、振り下ろすことができたのかい? 母親の頭を叩き割り、その醜く歪んだ死者の顔をのぞき込むことができたのかい? おいロジオン、その時おまえさんの〈良心〉は母親殺しに関しても許しを与えたのかい?

 

   ロジオンの非凡人は〈良心に照らして血を流すことを許された存在〉であった。彼の〈良心〉は社会の害虫でしかないアリョーナ婆さん殺しを許した。しかし、リザヴェータ殺しに関して、彼の〈良心〉がそれを許したかどうかについてはいっさい説明がされない。殺害時も殺害後も、彼はこの問題に関して言及を避けている。まさにロジオンがここで独白しているように、彼はまるでリザヴェータを殺さなかったように彼女のことを思い出さない。ロジオンはそのことを「それにしても妙だな」と感じているが、わたしは彼以上にそのことをずっと妙だなと思い続けてきた。

 

 ロジオンはリザヴェータ殺しに関してほとんど口を閉ざしているが、これは単に登場人物の問題というよりは、作者ドストエフスキーの問題でもある。『罪と罰』という小説はアリョーナ婆さん殺しに読者の関心を引きつけ、リザヴェータ殺しを失念させるような書き方を貫いている。

 

 ロジオンは物語開幕当初、「本当に俺はアレができるのだろうか?」(Разве я способен на это?)と独語する。大半の読者は〈アレ〉(этоのイタリック体)をアリョーナ婆さん殺しと理解してしまった。ここが問題である。

 

 なぜ、リザヴェータが予定時刻より早く帰宅したのか。ロジオンは前日、センナヤ広場で古着屋の町人夫婦とリザヴェータの会話を聞いて、リザヴェータは明日の午後七時には家にいないと思い込み、もしアリョーナ婆さん殺しを決行するなら明日の七時過ぎしかないと思うのである。つい先刻、悪魔の誘惑から解放され、自由の境地に浸ったばかりのロジオンが、なぜ再び悪魔の唆しにのってしまうのか。額に悪魔の数字666を刻印されたロジオンは〈第六時〉(六時から七時の間)を午後七時と思い込んでしまう。悪魔が悪魔と結託してロジオンを犯行へと誘い込んでいったとしか思えない。