清水正「動物で読み解く『罪と罰』の深層 ■〈虱〉(вошь)」連載1

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江古田文学」99号(2019-3-25)に掲載した「動物で読み解く『罪と罰』の深層」(連載3回)を数回にわたって紹介する。

動物で読み解く『罪と罰』の深層

 

清水正

 

■〈虱〉(вошь)

連載1

 

罪と罰』で〈虱〉という言葉が最初に出てくるのは、一月半ほど前、ロジオンが高利貸しアリョーナ婆さんの所に初めて質入れに行った帰り、立ち寄った安料理屋で若い将校と会話していた学生の話の中においてである(第一部六)。学生は将校に向かって十四等官未亡人アリョーナ婆さんを〈ユダヤそこのけの金持ち〉〈ひどい鬼婆〉〈意地悪の気まぐれ屋〉〈ちんちくりんの鬼婆〉などと悪口を並べた後に「ぼくは、あの糞婆さんなら、たとえ殺して金をとっても、いっさい良心の呵責を感じないね、賭けたっていい」と熱っぽく語る。将校が笑い出したので学生はむきになって続ける「一方には、おろかで、無意味で、くだらなくて、意地悪で、病身の婆さんがいる。だれにも必要のない、それどころか、みなの害になる存在で、自分でも何のために生きているのかわかっていないし、ほっておいてもじきに死んでしまう婆さんだ。―略―ところがその一方では、若くてぴちぴちした連中が、だれの援助もないために、みすみす身を滅ぼしている。それも何千人となく、いたるところでだ!。修道院へ寄付される婆さんの金があれば、何百、何千という立派な事業や計画を、ものにすることができる。何百、何千という人たちを正業につかせ、何十という家族を貧困から、零落から、滅亡から、堕落から、性病院から救いだせる――これがみんな、彼女の金でできるんだ。じゃ、彼女を殺して、その金を奪ったらどうだ? そして、その金をもとに、全人類の共同の事業に一身を捧げるのさ。きみはどう思う、ひとつのちっぽけな犯罪は数千の善行によってつぐえないものだろうか? ひとつの生命を代償に、数千の生命を腐敗と堕落から救うんだ。ひとつの死と百の生命を取りかえる――こいつは算術じゃないか! それにいっさいを秤にかけた場合、この肺病やみの、おろかな意地悪婆さんの生命がどれだけにつくだろう? 虱かごきぶりの生命がいいところだ。いや、それだけの値打もない。だってこの婆さんは有害なんだからな。この婆さんは他人の生命をむしばんでいるんだから。このあいだもあの婆さんは、かっとなって、リザヴェータの指に噛みついたんだぜ。すんでのことで噛みきるところだったんだ!」と。

 

 読者はここで高利貸しアリョーナ婆さんとその腹違いの妹リザヴェータに関する基本的な情報を得る。ロジオンはこのことに何か神秘的な偶然を感じる。と言うのは、まさにロジオンの頭の中にも学生と同じような考えが芽生えていたからである。ロジオンは犯罪に関する論文をさる雑誌に寄稿していたが、その中で彼は人間を非凡人と凡人の二つの範疇に分け、凡人は保守と服従をこととするが、非凡人は既存の慣習や法律を踏み越える権利を持っていると説く。ロジオンがこの自分が書いた論文を想起するのは犯罪を犯した後に出会うことになったポルフィーリイ予審判事によってである。ポルフィーリイはロジオンの説く非凡人には「すべてが許されている」と言い、ロジオンはそれを受けて「非凡人は良心に照らして血を流すことが許されている」のだと訂正する。ポルフィーリイの言葉は挑発的であり、そこには彼独特のおとぼけも含まれている。ポルフィーリイ予審判事はロジオンの論文を十分に理解した上でわざと間違え、そのことでロジオン自身の口から正確な説明を引き出そうとしたとも考えられる。

 

 ロジオンの説明で押さえておかなければならないのは〈良心〉(совесть)である。なにしろこの〈良心〉は相手の血を流していいか悪いかを判断する究極の内的装置とも言えるからである。ふつうに考えれば、〈良心〉を認めることは絶対的判断の根拠となる〈神〉の存在が前提となる。ロジオンが考えている非凡人は血を流すにあたって〈良心〉に照らすことを条件付けられている。ということは、ロジオンの非凡人は神の存在を認めていることになる。自分の中に存在する〈神〉との相談なしには、ロジオンの非凡人は血を流すことはできないということである。問題はロジオンが自身を非凡人の範疇に属する者と考えていたかどうかであるが、彼がはっきりと自分を非凡人と表明した場面はない。

 

 いずれにせよ、〈良心〉と学生が言う一つの犯罪は百の善行によって贖われるという考えがロジオンのうちにも否定しがたく存在していたことは確かである。ロジオンの〈良心〉によれば高利貸しアリョーナ婆さんは、生きていても何の役にも立たない、否、却って社会の害にしかならない、いつでもたたき殺してかまわない〈虱〉のような存在ということになる。しかもロジオンの場合、〈アリョーナ婆さん=虱〉を決定付けたのは、彼が初めて彼女に会った時に感じた生理的嫌悪感である。ロジオンは屋根裏部屋の思弁家で、いわば論理的思考の持ち主であるが、同時に感覚の鋭い若者であったことを失念してはならないだろう。つまり理屈より前に彼の鋭敏な感覚がアリョーナ婆さんに極度の嫌悪を感じてしまっている。この生理的感覚と学生の言う〈鬼婆〉云々が重なって、ロジオンの内部で社会に有害な〈アリョーナ婆さん=虱〉が成立し、彼女抹殺の正当化が〈良心〉のもとになされたのであろう。

 

 ロジオンは二人の女を斧でたたき殺した殺人者で一見無神論者のように思われるが、彼の内部世界を単純に決めつける訳にはいかない。姓のラスコーリニコフ(Раскольников)は〈分離派〉(раскольники)を意味するが、〈раскол〉は分裂、〈расколоть〉は割り裂くを意味する。まずは〈分裂〉から見ていこう。ロジオンはポルフィーリイに向かって、〈神〉も〈ラザロの復活〉も文字通り信じていると断言している。が、キリスト者ソーニャの前では〈不信心者〉〈безбожник〉、〈涜神者〉(богохульник)として振る舞っている。ロジオンは名前(РРР)からして悪魔(666)を意味しているが、彼の意識は〈信仰〉と〈不信〉に分裂している。本編のロジオンは最後までこの信と不信の間を悩ましく揺れ動いていたと言っていい。面白いのは、ロジオンにおいてはこの分裂を冷静に直視する視点が欠けていることである。ロジオンは激しく揺れるブランコに乗った分裂者で、停止したブランコに乗った分裂者ではない。ロジオンは〈神〉と〈悪魔〉のいずれか一方を選ばずにはおれない分裂者で、その両方を等価なものとして受け入れる分裂者ではない。ロジオンは不断に〈あれかこれか〉の決断を迫られた現存在で、彼の存在様態を支配する時性は狂気に陥った『分身』のゴリャートキンほどではないにしろ〈切迫した時性〉と言える。ロジオンの行動様式に特徴的な〈突然〉(вдруг)はその一つの証である。ロジオンは将に来るべき未来の一点を凝視することができない。同時に、彼にとって最も重要な過去の出来事(アリョーナ婆さんとリザヴェータを殺害したこと)を的確に現在へと繋ぐことができない。ロジオンの未来には〈自殺〉が待ち受けているのか、それともゴリャートキンと同じく決定的な再起不可能な狂気が待ち受けているのか、彼には自分の未来が全く見えていない。結果としてロジオンの未来には〈復活〉が待ち受けていたが、本人にその未来が見えていたとは言えない。

 

 わたしが改めて問いたいのはロジオンの〈良心〉である。彼は〈良心〉に照らして老婆アリョーナ殺しを自らに許している。犯行後、彼は老婆殺害に関して〈良心〉の呵責に苦しむことはなく、微塵の罪意識も感じていない。しかも問題なのは、殺害現場に来あわせたリザヴェータを殺しても、そのことに罪意識を感じていないことだ。ロジオンは犯行後、ほんの一瞬リザヴェータのことを思い出すが、その時にも〈かわいそうなリザヴェータ〉とは感じても〈良心〉の呵責に苦しむことはない。確かに犯行後のロジオンは苦しみのただ中にいるように描かれているが、しかしその苦しみは二人の女性を殺害したことによる苦しみと言うよりは、彼が勝手に〈自分は非凡人の範疇に属する人間〉と思いこんでいた、その認識を撤回しなければならなかったことの苦しみと見たほうが納得がいく。ロジオンは一見、全人類の苦悩を一身に背負ったような若者に見えるが、アリョーナ婆さんに対しては一片の思いやりもない。母親や妹ドゥーニャに限りのない愛情を注ぐことのできるロジオンであるが、ことアリョーナ婆さんに関しては、愛に基づく想像力を発揮して彼女の不可避の人生に暖かい眼差しを向けることはできなかった。