清水正の『浮雲』放浪記(連載124)

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https://www.youtube.com/watch?v=29HLtkMxsuU 『罪と罰』とペテルブルク(2)
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デヴィ夫人のブログで取り上げられています。ぜひご覧ください。
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清水正研究室」のブログで林芙美子の作品批評に関しては[林芙美子の文学(連載170)林芙美子の『浮雲』について(168)]までを発表してあるが、その後に執筆したものを「清水正の『浮雲』放浪記」として本ブログで連載することにした。〈放浪記〉としたことでかなり自由に書けることがいいと思っている。



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 清水正の『浮雲』放浪記(連載124)
平成◎年2月25日
富岡が記す「果実の思い出」の〈果実〉のうちに安南人のニウや幸田ゆき子や、その他、『浮雲』の中では登場しなかった様々な女たちが含まれていることは言うまでもない。〈上品な果実〉と形容された〈マンゴスチーン〉に日本で家を守っていた妻の邦子が反映されているとすれば、〈臭気ふんぷんとしたドウリアン〉は激しく執拗に性的関係を迫ってくるゆき子が反映されていよう。
 ここで思い出されるのは、富岡がダラットの山林事務所で初めてゆき子と会話を交わした翌日、事務所から四キロ離れたマンキンへひとり向かう途中の描写である。作者は「富岡は黙々として歩いた。沿道は巨大なシイノキや、オブリカスト、ナギや、カッチャ松の森で、常緑濶葉樹林が、枝を組み、葉を唇づけあって、朝の太陽を鬱蒼とふさいでいた」と書いた。この光景は、富岡のゆき子に対する性的妄想の具体的な隠喩ともなっていた。久しぶりに日本から派遣されてきたゆき子に性的慾望を刺激されたのは加野久次郎だけではない。表面上はダンディを気取った毒舌家が心の奥深くに押さえ込んだ慾望を、日本で伊庭杉夫と三年間も不倫の情事を積み重ねてきたゆき子が見逃すはずはない。富岡を追ってきたゆき子が、目の前を早足で歩く男の背中に〈卑しさ〉を感じ取って、巧みに誘惑の触手をのばしていくのはあまりにも当然のことであった。
 林芙美子の描く端的な自然描写は、富岡とゆき子の性的関係を具体的に際だたせる。ここに引用したさまざまな〈果実〉の描写も、各果実の特有性を的確に浮上させると同時に、それらが男と女の性器の生々しい隠喩ともなっている。それらは形状においてばかりでなく、視覚、触覚、臭覚を総動員させる生々しく具体的な隠喩となっている。富岡にとって四年間のダラットでの生活は、戦線から遠く離れた、いわば至上の楽園であった。その〈楽園〉の実態と言えば、自らの生き死にに関係ないところで、ニウやゆき子との性的快楽を享受していたことにある。ドストエフスキーの作品を読んでキリーロフの自殺に関する思想やニコライ・スタヴローギンの虚無に感じたことのある富岡が、ペンを手にして記そうとしたのが〈果実の思い出〉とか〈林業の思い出〉などというのであるから、これは悪い冗談か、流行遅れのギャグとしか思えない。敗戦後の日本へ引き揚げてきた富岡が、ペンを持って書かねばならなかったことが〈果実〉や〈林業〉であらねばならない、その必然性は、向井によるおせい殺し以上にないと言ってもいい。もしそこに必然性を持たせるとしたら、富岡における〈南方の林業の思い出〉が、ニウやゆき子と性的に関わった、その実存の暗い深みにまで踏み込んでいかなければならないであろう。
 唯一神のもとで〈罪〉の意識に苛まれる男の不断の無罪意識を体現したのがロジオンでありニコライ・スタヴローギンであるが、富岡兼吾はそもそもの初めから〈生温き者〉として唯一神の口から吐き出されてしまっている男であるから、彼らのような〈罪〉意識に裏打ちされたような無罪意識はない。三者に共通しているのは反省しないということである。ロジオンはシベリアでいきなり復活の曙光に輝いてしまうし、ニコライ・スタヴローギンは首吊り自殺したということにされてしまう。が、富岡は反省しないし、自殺もできないし、ましてや復活することもない。富岡のような生温き者は、死ぬこともできないし復活することもできない。自分の人生を実存的な地平で振り返ることすらできない。こういった男に限りなく寄り添って、作者林芙美子は彼と共に雨の窓を見ているのだ。
「雨の窓を見ていると、外の緑が濡れて霧を噴いているように見えた。一種の神秘な緑の光線が、ぐっと部屋の中にまで浸み込んで来る」と作者は書いている。富岡は今ここで、濡れて霧を噴いているように見える〈外の緑〉が、〈一種の神秘な緑の光線〉となって部屋の中にまでぐっと浸み込んでくるのを目の当たりにしている。これはまさに一種の神秘体験と言っても過言ではない。もはや何の希望もない、自死からも拒まれたろくでもない男が、〈神秘な緑の光線〉に撃たれている。〈緑〉は聖性を帯びた色である。スヴィドリガイロフの眼前に現れた〈幽霊〉(プリヴィデーニィエ=привидение)のマルファは緑色のドレスを着ていたし、流刑地シベリアでロジオンの傍らに現れたソーニャは緑色のショールを被っていた。が、富岡の場合、〈一種の神秘な緑の光線〉が人間の姿となって現れることはなかった。この〈緑の光線〉はある種の神秘性を湛えていても、それは〈外の緑〉、すなわちさまざまな植物の緑の域を超え出ることはなかった。生温き人間のいる部屋に、ぐっと、神秘な緑の光線が浸み込んできても、ロジオンがシベリアでルーアッハ(神の風)に撃たれて復活の曙光に輝いたという劇的回心の瞬間を獲得することはできない。