清水正の『浮雲』放浪記(連載199)

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新著紹介


小林秀雄の三角関係』2015年11月30日 Д文学研究会発行・私家版限定50部

清水正の『浮雲』放浪記(連載199)
平成A年9月17日

もし、比嘉医師から投げられた〈緑のテープ〉を受け止め、海上の甲板で〈運命の鎖〉から解き放たれた富岡が、この場面で〈新生〉の瞬間に輝いたとすればどうだろうか。ゆき子との未遂に終わった〈心中〉、向井清吉による〈おせい殺し〉という、小説的必然性から逸脱してまで林芙美子は富岡とゆき子の腐れ縁を描き続けた。が、林芙美子は富岡の〈新生〉を描くことはなかった。しかし、林芙美子は富岡が海上で暖かい陽射しを受けて爽快な気持ちを味わっている、その場面にただ一人立ち会っている。〈ただ一人〉に注意してほしい。富岡をしつこく追ってきたのはゆき子だが、そのゆき子はこの時、一等の船室に身を横たえていた。つまりゆき子は、比嘉医師と富岡が〈緑のテープ〉で繋がっていた光景も、富岡が白く輝く海上にあって爽快な気分にひたっていたその光景も目撃してはいない。林芙美子は富岡を追ってきたゆき子をさしおいて、この重要な光景をただ一人見つめている。作者林芙美子は、自ら作り上げた人物ゆき子ではなく、自分自身の目で富岡の姿を追っている。ふと、林芙美子はゆき子に嫉妬さえ感じていたのだろうかと思ったほどだ。
 いずれにせよ、ロジオン・ロマーノヴィチが復活の曙光に輝いたようには、富岡兼吾は新生の瞬間を体感することはできない。ロジオンは二人の女を殺してさえ〈罪〉(грех)の意識に襲われなかったことに苦しむが、妻ある身でニウ、ゆき子、おせいと関係を結んだ富岡には、そもそも〈罪〉という言葉さえ浮かんでこない。富岡は行き当たりばったりに女と関わり、仕事を変えてきた。富岡には強い意志の働きがない。ゆき子を腹の底から求めていないのに、ゆき子が追ってくればそれを断固として拒否することもできない。こういう優柔不断な、生温い富岡には、〈神の風〉が吹くことはない。
 ただし、これは〈読み〉の問題になるが、テキストを解体して巨きく再構築すれば、富岡兼吾を復活の曙光に輝かせることも不可能ではない。富岡はゆき子と比嘉医師の三人でラジオから流れていたドヴォルザークの『新世界』を聴いていた。〈新世界〉に至るまでに、ひとはおのおのの人生の地獄を、煉獄をくぐり抜けてこなければならない。〈新世界〉がいきなり、訪れるわけではない。富岡は親友の小泉と結婚していた邦子を奪った。戦争になると、富岡はダラットへ山林事務官として派遣される。邦子は富岡の両親の世話をしながら夫の帰りを待つ。その間、富岡はベトナム人のニウと情事を繰り返し、ニウは富岡の子供を身ごもる。