清水正の『浮雲』放浪記(連載28)

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清水正研究室」のブログで林芙美子の作品批評に関しては[林芙美子の文学(連載170)林芙美子の『浮雲』について(168)]までを発表してあるが、その後に執筆したものを「清水正の『浮雲』放浪記」として本ブログで連載することにした。〈放浪記〉としたことでかなり自由に書けることがいいと思っている。
 清水正の『浮雲』放浪記(連載28)
平成△年6月25日
「手当り次第に勝手な方向へ歩きたくなっている」とは自由な精神の発露を意味していない。むしろ方向性を喪失した者の虚無的な気紛れの証となっている。富岡には人生の本来的な目的などというものはない。親や妻を守って、平和な家庭を築こうという小市民的な願望もないし、ドストエフスキーの作品を読んでニコライ・スタヴローギンに影響されることはあっても、ドストエフスキーを凌ぐ小説家になろうなどという野心もない。
 富岡にやむにやまれぬ欲望があるとすれば、若い女の躯を抱きたいという欲望ぐらいのものである。しかも、この欲望とて、なにもかも犠牲にして果たそうとする激しく熱い衝動に欠けている。ゆき子と向井に隠れておせいを抱いても、おせいをさらって逃げる情熱はない。富岡には本来の意味での二者択一がない。ユダヤキリスト教の神は「熱いか冷たいか、どちらかであってほしい」と願い、生温き者を自らの口から吐き出してしまう。富岡は生温き者の典型的存在で、ここでもゆき子かおせいかであってほしいと願う者を決定的に裏切っている。富岡はどちらか一人を選ぶことができない。気持ちはおせいの方を向いても、ゆき子を拒み切ることができずにいる。
 富岡が必要としている女は大いなる母性であるが、未だ彼はその母性と出会っていない。ニウも、ゆき子も、そしておせいも、弾力的な若い躯を備えているうちは富岡の関心をひくが、そうでなくなると興味も薄れていく。富岡は女の精神性と混じりあうことができず、ひたすら女の肉体に没頭する。
 富岡がまるでステッキのように肩にかついだ〈棒のように凍った手拭〉とは、まさに富岡の凍った魂の隠喩そのものである。この凍った魂は家のなかへ入って暖まっても溶けて再生することはない。
 ゆき子は「明日朝早く、私、ここを発ちたい」と言う。〈ここ〉とは、富岡にとってはゆき子と心中する妄想に駆られてやって来た場所であり、ゆき子にとっては富岡と新たな関係を結べるかもしれない再出発の場所であった。しかし、〈ここ〉は彼ら二人の妄想の実体を容赦なく暴きださずにはおかなかった場所であった。富岡は〈ここ〉でおせいと出会うことで、新たな〈再生幻想〉を抱いたに過ぎないし、ゆき子は眼前の富岡がダラットでの富岡ではないことを苦い思いで再認識したに過ぎない。ゆき子は〈ここ〉を去っても、行くべきところがない。
 ゆき子は富岡のそばにいても一人であり、その一人である孤独を凍えた自らの両腕で抱きしめるほかはない。富岡もまた限りなく一人である。富岡はゆき子が一緒にいても一人であり、おせいに幻想を抱いても一人である。「君だけ帰るようなことを言ってるじゃないか平成22年6月25日(木曜)
「手当り次第に勝手な方向へ歩きたくなっている」とは自由な精神の発露を意味していない。むしろ方向性を喪失した者の虚無的な気紛れの証となっている。富岡には人生の本来的な目的などというものはない。親や妻を守って、平和な家庭を築こうという小市民的な願望もないし、ドストエフスキーの作品を読んでニコライ・スタヴローギンに影響されることはあっても、ドストエフスキーを凌ぐ小説家になろうなどという野心もない。富岡にやむにやまれぬ欲望があるとすれば、若い女の躯を抱きたいという欲望ぐらいのものである。しかも、この欲望とて、なにもかも犠牲にして果たそうとする激しく熱い衝動に欠けている。ゆき子と向井に隠れておせいを抱いても、おせいをさらって逃げる情熱はない。富岡には本来の意味での二者択一がない。ユダヤキリスト教の神は「熱いか冷たいか、どちらかであってほしい」と願い、生温き者を自らの口から吐き出してしまう。富岡は生温き者の典型的存在で、ここでもゆき子かおせいかであってほしいと願う者を決定的に裏切っている。富岡はどちらか一人を選ぶことができない。気持ちはおせいの方を向いても、ゆき子を拒み切ることができずにいる。富岡が必要としている女は大いなる母性であるが、未だ彼はその母性と出会っていない。ニウも、ゆき子も、そしておせいも、弾力的な若い躯を備えているうちは富岡の関心をひくが、そうでなくなると興味も薄れていく。富岡は女の精神性と混じりあうことができず、ひたすら女の肉体に没頭する。
 富岡がまるでステッキのように肩にかついだ〈棒のように凍った手拭〉とは、まさに富岡の凍った魂の隠喩そのものである。この凍った魂は家のなかへ入って暖まっても溶けて再生することはない。
 ゆき子は「明日朝早く、私、ここを発ちたい」と言う。〈ここ〉とは、富岡にとってはゆき子と心中する妄想に駆られてやって来た場所であり、ゆき子にとっては富岡と新たな関係を結べるかもしれない再出発の場所であった。しかし、〈ここ〉は彼ら二人の妄想の実体を容赦なく暴きださずにはおかなかった場所であった。富岡は〈ここ〉でおせいと出会うことで、新たな〈再生幻想〉を抱いたに過ぎないし、ゆき子は眼前の富岡がダラットでの富岡ではないことを苦い思いで再認識したに過ぎない。ゆき子は〈ここ〉を去っても、行くべきところがない。ゆき子は富岡のそばにいても一人であり、その一人である孤独を凍えた自らの両腕で抱きしめるほかはない。富岡もまた限りなく一人である。富岡はゆき子が一緒にいても一人であり、おせいに幻想を抱いても一人である。「君だけ帰るようなことを言ってるじゃないか……。僕も帰るよ。いっしょに来たンだもの、いっしょに帰らなくちゃいけない」この富岡の言葉に、わたしなどはソーニャに向かって発したロジオン・ロマーノヴッイチの声が重なってくる。

 ロジオンの〈踏み越え〉は二人の女の頭上に斧を振りおろしたことであり、ソーニャの〈踏み越え〉は貧窮した一家の犠牲となって処女を銀貨三十ルーブリで閣下に売ったことであった。ロジオンは自分とソーニャを同じ〈踏み越え〉た人間と見なして、一緒に苦しみを背負って行こうと言っている。一人の殺人者は二人の女を殺害しながら〈罪〉の意識に襲われることがなかったことに苦しみ、一人の娼婦は我が身を犠牲にしながら、深く〈罪〉の意識に苦しんでいる。ロジオンは神に反逆しつつ神を求める者であり、ソーニャは神を信仰しながら肉を売る身に甘んじている。彼ら二人に共通しているのは、その中心に神が置かれていることである。富岡とゆき子の場合は、神が置かれる中心がそもそも彼らの内に存在しない。