清水正の『浮雲』放浪記(連載27)

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清水正研究室」のブログで林芙美子の作品批評に関しては[林芙美子の文学(連載170)林芙美子の『浮雲』について(168)]までを発表してあるが、その後に執筆したものを「清水正の『浮雲』放浪記」として本ブログで連載することにした。〈放浪記〉としたことでかなり自由に書けることがいいと思っている。
 清水正の『浮雲』放浪記(連載27)
平成△年6月23日
 ゆき子は富岡に対して〈激しい怒り〉に襲われても、その怒りが持続して彼と別れてしまおうとは思わない。作者は「その怒りはすぐ口に噴きこぼれないうちに、胸のなかで淡く消えて行った」と書いている。惚れた女の弱みと言おうか、ゆき子は富岡と決定的な別れに発展するような怒りかたはしない。怒りの感情もやがて少しずつおさまる。二人は石段を登りつめる。まさに二人の関係を端的に象徴しているかのようである。彼ら二人は、すでに仏印のダラットで登りつめており、日本での腐れ縁の関係は、登りつめた果てに現れた〈路地〉を歩き続けるようなものである。ゆき子は登りつめた果てから一人投身することはできないし、富岡もまたゆき子を道連れにして投身することもできなかった。富岡のいい加減さだけは徹底していて、おせいと石段を二人して下って堕ちる所まで堕ちても、ゆき子を裏切り切ることはできない。おせいと深い関係を結んだ翌日、富岡はゆき子と腐れ縁の〈路地〉を歩き続ける。

 「少し歩いてみようか?」
 「風邪をひくといけないからよしましょう」
  富岡は立停って、纏りのない小さい声で、「君は神経衰弱なンだよ」と言った。そうしてまた早口に、
 「いや、僕の神経が弱っているんだ。落ちつかないのは僕のほうなンだ。すぐ溺れたがる。孤独ではいられなくなっているンだね……。どうにもやりきれないから、このまま沈下してゆくンだよ。ーー手当り次第に勝手な方向へ歩きたくなっている……。いまも、勝手なことを考えていたンだ」
  と、言って、富岡は棒のように凍った手拭を、まるでステッキのように肩にかついだ。
 「冷えちゃうわ。とにかく、家の中へ這入って、さっさと寝かせて貰いましょう……。明日朝早く、私、ここを発ちたいンですから……」
 「君だけ帰るようなことを言ってるじゃないか……。僕も帰るよ。いっしょに来たンだもの、いっしょに帰らなくちゃいけない」
 「ええ、そりゃアそうですけれど……。あなたって、大変な方なンだから……。もう、こんなことはどうでもいいわ。よしましょう。私、足がぶるぶる震えて来たわ……」
  二人は、裏口から二階へ上って行ったが、隣りの部屋では亭主は鼾をたてて眠っていた。おせいはいなかった。富岡は茶ぶ■台の徳利を取って耳にあてて振っていたが、酒が残っていたとみえて、冷え酒をコップにあけて、咽喉を鳴らして飲んだ。おせいが亭主の寝床にいないということは、温泉から戻って来た富岡やゆき子に、多少の効果はあった。二人は、二人なりに、それぞれの思いで、おせいのいないことを気にしている。ゆき子は冷えこんだ足を炬燵に入れて、明日、東京で富岡と別れてからの生活を考えていた。池袋の生活は、この一週間あまりの不在で、いっさいが片づいているような気もした。
 (288〈三十一〉)

富岡は案外、正直に自分の心の内をゆき子に吐露している。富岡は孤独に耐えられず、「すぐ溺れたがる」男なのだ。富岡は戦時中、日本に残した妻を愛していながら、「孤独ではいられなくなって」安南人の女中ニウに溺れ、継いで日本からタイピストとして派遣されて来たゆき子に溺れる。つまり富岡にとって「手当たり次第に勝手な方向へ歩きたくなっている」という心持ちは今に限った事ではない。富岡は社会的な規範からみれば卑怯で狡い男と見なされるが、自分のその時々の気持ちには正直に振る舞っている男と言える。目の前に好きなものがおかれれば、それに手を出さずにはいられない男で、要するに我慢の足らない男なのである。もちろんこういった男であったから、ゆき子は富岡との関係にのめり込めていけたわけで、その意味では富岡とゆき子は紛れもなく同じ穴のムジナである。
 ゆき子は十九歳で伊庭に強姦されたことになっているが、先にも指摘したように、ゆき子は伊庭に軀を与えることで、下宿代とタイピスト学校の月謝を伊庭に出させていた可能性があり、もしそうだとすればゆき子は一筋縄ではいかないしたたかさを身に備えていた女だったということになる。成瀬巳喜男の映画では、ゆき子の女としてのしたたかさや狡さは極力抑えられている。この場面でのゆき子は切なく悲しい女の姿を晒している。ゆき子は富岡の心が自分にではなくおせいに向けられていることを知っている。ほかの女に意識が行っていながら、とぼけて一緒に路地を歩いている男の心模様をはっきりと認識しながら、ゆき子はそんな男に愛想を尽かして捨て去ることができない。富岡は決して自らの口から別離の言葉を発することはない。別離の言葉を発して相手をきっぱりと捨て去ることができないという点では、富岡もゆき子と五十歩百歩ということになる。