清水正の『浮雲』放浪記(連載131)

清水正への原稿・講演依頼は  qqh576zd@salsa.ocn.ne.jp 宛にお申込みください。ドストエフスキー宮沢賢治宮崎駿今村昌平林芙美子つげ義春日野日出志などについての講演を引き受けます。

清水正の講義がユーチューブで見れます。是非ご覧ください。

https://www.youtube.com/watch?v=LnXi3pv3oh4


批評家清水正の『ドストエフスキー論全集』完遂に向けて
清水正VS中村文昭〈ネジ式螺旋〉対談 ドストエフスキーin21世紀(全12回)。
ドストエフスキートルストイチェーホフ宮沢賢治暗黒舞踏、キリスト、母性などを巡って詩人と批評家が縦横無尽に語り尽くした世紀の対談。
https://www.youtube.com/watch?v=LnXi3pv3oh4


https://youtu.be/KqOcdfu3ldI ドストエフスキーの『罪と罰
http://www.youtube.com/watch?v=1GaA-9vEkPg&feature=plcp 『ドラえもん』とつげ義春の『チーコ』
https://youtu.be/s1FZuQ_1-v4 畑中純の魅力
https://www.youtube.com/watch?v=GdMbou5qjf4罪と罰』とペテルブルク(1)

https://www.youtube.com/watch?v=29HLtkMxsuU 『罪と罰』とペテルブルク(2)
https://www.youtube.com/watch?v=Mp4x3yatAYQ 林芙美子の『浮雲』とドストエフスキーの『悪霊』を語る
清水正『世界文学の中のドラえもん』『日野日出志を読む』清水正への原稿・講演依頼は  http://www.ebookjapan.jp/ebj/title/190266.html


ここをクリックしてください。清水正研究室http://shimi-masa.com/

デヴィ夫人のブログで取り上げられています。ぜひご覧ください。
http://ameblo.jp/dewisukarno/entry-12055568875.html

清水正研究室」のブログで林芙美子の作品批評に関しては[林芙美子の文学(連載170)林芙美子の『浮雲』について(168)]までを発表してあるが、その後に執筆したものを「清水正の『浮雲』放浪記」として本ブログで連載することにした。〈放浪記〉としたことでかなり自由に書けることがいいと思っている。



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 清水正の『浮雲』放浪記(連載131)
平成◎年3月10日
 ゆき子は、ソーニャのように〈娼婦〉(汚れた女)であるが、同時に〈キリスト者〉としてはっきりと聖性を帯びた存在ではない。ゆき子は平気で妻のある富岡と不倫の関係を結ぶし、一時とはいえ、外人兵士相手にパンパン稼業に足を踏み入れもした。ソーニャは一家の犠牲になって娼婦にならざるを得なかったが、ゆき子の場合はあくまでも自分の生活の糧を得るためであった。『浮雲』の表層舞台を読む限り、ゆき子に聖性を感じることはできない。富岡もまた、ゆき子に自分の魂の救済を求めたことはない。富岡がゆき子に求めたのは精神上のことではなく、あくまでも肉体である。『浮雲』において、邦子、ニウ、ゆき子、おせいといった女たちに精神上の魅力を見いだすことはできない。林芙美子は人物たちから、予め崇高な側面を削ぎ取ってしまっている。宗教上の崇高や聖性は、伊庭杉夫の金儲けの大日向教によって徹底的に愚弄されている。
 『浮雲』の中に登場する人物たちは、まさしく現実を生きる男と女であって、その関係に崇高なる神の意識やロマンチシズムが入り込む余地はない。富岡はどんなに経済的に追いつめられ、ゆき子に責められても、神頼みになったことはない。富岡の実存が疲弊し、追いつめられた果てに〈死〉を想うことはあっても、〈神〉を想うことはない。
 にもかかわらず、である。富岡は自分の部屋に居て、「一種の神秘な緑の光線が、ぐっと部屋の中にまで浸み込んで来る」のを見ている。そして、そんな富岡の部屋の扉を叩く者が現れる。富岡は冷やりとして「どなた?」と声をかける。作者はここで「声をかけた」などとは書いていない。作者は《「どなた?」と呼んだ。》と書いている。富岡は扉を叩く〈誰か〉を「呼んだ」のである。富岡に呼ばれた〈誰か〉は「わたしです」と答える。この〈わたし〉が〈イエス〉と重なるイメージがあるからこそ、わたしはこの場面に執拗にこだわる。イエスはマルタに言う「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか」と。マルタは言う「主よ、信じます。あなたがこの世にきたるべきキリスト、神の御子であると信じております」と。
 『ドラえもん』第一話「未来の国からはるばると」で、のび太が密閉された部屋に一人居ると、どこからか「野比のび太は三十分後に首をつる」「四十分後には火あぶりになる」という声が聞こえてくる。のび太は立ち上がって部屋中を見回しながら「だれだ、へんなことをいうやつは。」「でてこいっ。」と大声を発する。すると机の引き出しの中から丸い猫のようなものが現れて「ぼくだけど、気にさわったかしら」と言う。この得体の知れない丸いものが〈ドラえもん〉で、〈ドラえもん〉はのび太を不幸な運命から救い出すために未来の国からやってきたということになっている。イエスは万人を救うために人間の姿を借りてこの世界に降臨してきたキリスト(救世主)であるが、〈ドラえもん〉はあくまでものび太ひとりを救うためにやってきたという設定になっている。
 さて『浮雲』であるが、富岡の呼び声に「わたしです」と応えた〈誰か〉はすぐに「ゆき子です……」と言っている。この〈ゆき子〉は痩せてすっかりやつれ果て、濡れた雨傘を持って廊下に立っている。まさか、この〈ゆき子〉を富岡の運命を変える〈ドラえもん〉や〈キリスト〉と思う読者はいないだろう。現に富岡はそう思っていない。作者もまた富岡のその思いと結託し、「薄情のようだけれども、富岡は肚の底から、ゆき子の訪問を迷惑至極に思った」と書いて〈四十二〉章の幕を下ろす。
 林芙美子は読者を聖性を帯びた隠喩の世界に羽ばたかせることを強く抑制している。〈ゆき子〉は〈幸子〉で、幸いを運んでくる存在を意味しているが、作品の表層舞台では救いようのない腐れ縁を演じる女に徹している。
 〈一種の神秘な緑の光線〉は濡れて霧を噴いている〈外の緑〉を通して部屋の中に浸み込んでいる。その〈外の緑〉の究極に〈屋久島〉がある。『浮雲』において〈屋久島〉の持つ意味は巨きい。〈屋久島〉まで富岡を追っていき、そこで命を落とすことになる〈ゆき子〉の存在意味は限りなく巨きい。が、小説はあくまでも現実から離れない。

〈四十三〉を読む

  三週間待っても、富岡が来てくれないことに、ゆき子は焦々して、雨の日であったが、ゆき子は思い切って富岡を尋ねて来たのだ。扉を開けてくれた時の、富岡の表情を見てとり、ゆき子は、もう、どんなに努力しても、富岡との愛情は、今日で終りになるにちがいないと受け取った。雨ゴートも、雨靴もないゆき子は、水色のブラウスに紺のスカートをはいて、毛深い脚をむき出したまま、部屋へ黙って這入って来た。
 「お邪魔じゃなかったンでしょうか?」
  富岡は、よれよれの浴衣の前をあわせて、窓ぎわに坐り、つとめて、ゆき子に笑顔を向けようと努力している。
 「大変だったンですのね………」
 「君こそ、大変だったンじゃないの? もう起きていいのかい?」
 「ええ、そういつまでも、入院してる訳にもゆきませんものね……。やっと元気になりました」
  仏印のころは、人目のないところでは、すぐ、二人は寄り添い、手を握りあっていたものだがと、ゆき子は、索漠とした二人の現実を淋しいものに考えている。
 「新聞で読みましたわ。ねえ、私、これ以上は待てなかったのよ。きっと逢いに行く。別れをしていないということが、君の真実なら、それを頼りに、逢いに行くと書いてくだすった、あなたのお手紙にすがって、私、やっと生きていたのよ……」
  ゆき子は、そこへへたばるように坐って、富岡に言った。富岡は変化のない白けた表情で、
 「うん、僕が、みんな悪いンだよ。君のことは、片時も忘れやしないンだが、おせいの亭主の問題もあってね、ごたごたしてたから行けなかった……」
 「じゃア、私が病院でうんうん唸って、そのまま亡くなっても、あなたは来てくださらないつもりだったンでしょうね……」
 「いや、それは、また違うよ。君が、だいじょうぶだと思うから、安心していた……」
 「嘘! 嘘ですよ。あなたは、私に嘘言ってるのよ。もう、愛情も何もない癖に、弱気で嘘言って、私をよろこばせようたってだめだわ。ーーそんなに、あなたは、おせいさんがなつかしいのかしら……。あんな女のどこがいいの?」
  ゆき子は、おせいに対する嫉妬で、躯が震えて来る。石のように動かない男の心理が、ゆき子にかあっと反射して来て苦しかった。こころをぶちまけてしまっては、二人の間がだめになると思いながらも、ゆき子は吐き捨てるように言った。(331〜332〈四十三〉)

 ゆき子は追う女だが、富岡は待つ男とは言えない。富岡は待っているのではなく、捕まってしまう男である。ゆき子は追う女だが相手を抱きしめる女ではない。富岡は捕まってしまう男だが、心はいつも逃亡している。富岡はゆき子から逃亡しきれないという点において、受動的にゆき子を受け入れている男ではある。富岡が逢いに行かない三週間にゆき子は耐えられない。ゆき子の場合は、プライドはいつも欲求の前に屈服してしまう。富岡はゆき子の存在が鬱陶しいが、それを面と向かって口にだすことはできない。ゆき子は富岡が「愛情も何もない癖に、弱気で嘘言ってる」ことを知っているが、それでも富岡に対する執着から抜け出せない。このゆき子の執着には、もはやこの世にいないおせいに対する嫉妬の感情が深く絡んでいる。嫉妬は理性や分別の壁をたやすく粉砕する。ひとたび嫉妬の渦に巻き込まれれば、理性の小舟など瞬く間に波に呑まれて姿を消してしまう。面白いのは富岡の〈変化のない白けた表情〉を、〈石のように動かない心理〉を、ゆき子と共に作者もまた見ていることである。林芙美子もまたゆき子と同じように、煮え切らない弱気の男を執拗に追って追って追いつめて苦い涙を流したことのある女であった。「こころをぶちまけてしまっては、二人の間がだめになる」と知りながら、ぶちまけずにはおれない女がいる。それがゆき子であり林芙美子である。