清水正の『浮雲』放浪記(連載129)

清水正への原稿・講演依頼は  qqh576zd@salsa.ocn.ne.jp 宛にお申込みください。ドストエフスキー宮沢賢治宮崎駿今村昌平林芙美子つげ義春日野日出志などについての講演を引き受けます。

清水正の講義がユーチューブで見れます。是非ご覧ください。

https://www.youtube.com/watch?v=LnXi3pv3oh4


批評家清水正の『ドストエフスキー論全集』完遂に向けて
清水正VS中村文昭〈ネジ式螺旋〉対談 ドストエフスキーin21世紀(全12回)。
ドストエフスキートルストイチェーホフ宮沢賢治暗黒舞踏、キリスト、母性などを巡って詩人と批評家が縦横無尽に語り尽くした世紀の対談。
https://www.youtube.com/watch?v=LnXi3pv3oh4


https://youtu.be/KqOcdfu3ldI ドストエフスキーの『罪と罰
http://www.youtube.com/watch?v=1GaA-9vEkPg&feature=plcp 『ドラえもん』とつげ義春の『チーコ』
https://youtu.be/s1FZuQ_1-v4 畑中純の魅力
https://www.youtube.com/watch?v=GdMbou5qjf4罪と罰』とペテルブルク(1)

https://www.youtube.com/watch?v=29HLtkMxsuU 『罪と罰』とペテルブルク(2)
https://www.youtube.com/watch?v=Mp4x3yatAYQ 林芙美子の『浮雲』とドストエフスキーの『悪霊』を語る
清水正『世界文学の中のドラえもん』『日野日出志を読む』清水正への原稿・講演依頼は  http://www.ebookjapan.jp/ebj/title/190266.html


ここをクリックしてください。清水正研究室http://shimi-masa.com/

デヴィ夫人のブログで取り上げられています。ぜひご覧ください。
http://ameblo.jp/dewisukarno/entry-12055568875.html

清水正研究室」のブログで林芙美子の作品批評に関しては[林芙美子の文学(連載170)林芙美子の『浮雲』について(168)]までを発表してあるが、その後に執筆したものを「清水正の『浮雲』放浪記」として本ブログで連載することにした。〈放浪記〉としたことでかなり自由に書けることがいいと思っている。



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 清水正の『浮雲』放浪記(連載129)
平成◎年3月8日

  一万円の稿料の半分を割いて、富岡はゆき子に送ったのだが、その金が、子供をおろす病院の費用になったことも、皮肉な気がした。仏印に捨て去って来た、安南人の女中に産ました子供のことが、いま、富岡はふっとなつかしく思い出されたが、生涯、その子供に逢うこともないだろうと思うにつけて、富岡の荒さびた気持ちのなかに、その思い出は、郷愁をそそった。(331〈四十二〉)

富岡は稿料の半分をゆき子に送った。ゆき子はその金で子供を堕胎した。富岡に、宿った命を殺したことの罪意識は微塵もない。仏印に捨て去ったニウの子供のことをついでに思い出すが、それは郷愁を誘うことはあっても、疚しさや罪の意識につながることはない。富岡は南国の果実に関しては専門知識を駆使してさまざまに記述することができても、そこで深い関係を結んだ女たちを記述することはない。富岡の眼前には堕胎された血塗れの胎児や、子供を抱いたニウの恨めしい顔や、自分が原因で亭主に殺されてしまったおせいの断末魔の顔が現れることはない。富岡は妻の邦子やゆき子に責められても、いつも巧妙に逃げ切ってしまう。富岡には告発し断罪する神の意識はないので、そもそもの初めから罪の意識に苦しめられることはない。「これが良心の呵責とか、悔恨とか呼ばれているものだろうか」という、ニコライ・スタヴローギンの内心の声が富岡には生じようがないのである。富岡の瞼に浮かんで来るのは〈南のダラットの風物〉であって、そこに彼が関係したさまざまな女たちを隠喩的にくみ取ったにしても、富岡が秘めた内心の深奥を照射しきることはできない。
 富岡が秘め隠したのは関係した女たちとのことばかりではない。『浮雲』の読者は、この作品の時代設定が戦中・戦後であったことを忘れてはならないだろう。ゆき子がダラットに着いたのは昭和十八年十月半ば過ぎである。富岡とゆき子はダラットで悦楽の日々を過ごすが、日本は連合国軍相手に必死の戦いを展開していた。富岡は日本が戦争に負けることを認識していたが、この戦争に関してどのように思っていたのか、そのことを具体的に詳細に語ることはなかった。読者は戦争の悲惨な姿を完璧に隠されている。富岡とゆき子は〈戦争〉という現実から離れて、男と女の悦楽の時空を生きていた。日本が戦争に負けた時点で、彼らのユートピア時空は幕を下ろすべきであった。が、ゆき子の執拗な追っかけによって、二人は敗戦後の日本の荒野を舞台に男と女の修羅場を演じることになる。照明はあくまでも富岡とゆき子の修羅場に当てられており、敗戦後、とつぜんアメリカ型民主主義の信奉者となった者たちの思想などは完璧に無視されている。男と女の関係も、そして戦争もきれいごとの思想が介入する余地はない。
 富岡は反省しないし、悔悟もしない。否、より正確に言えば、富岡はだらしなく反省し、だらしなく悔悟する男なのだ。ゆき子は伊香保の湯殿で〈煮〆めたような日本手拭〉を使っているが、まさに富岡はそういった存在なのである。浴槽には二人の女がいて、彼女たちはパンパンらしく〈匂いのいい石けん〉や〈大判のタオル〉をみせびらかすように使っている。ゆき子は宿の女中から借りた汚れた〈日本手拭〉と〈魚臭い石けん〉を使っている。もしゆき子がジョオとの関係を続けていれば、まさに彼女は二人のパンパンと同類であった。ゆき子は敢えて〈煮〆めたような日本手拭〉を選んだ。この〈手拭〉は敗戦後の日本の男たちの的確な隠喩であって、そのことを痛く自覚せずに、自分を〈匂いのいい石けん〉や〈大判のタオル〉と勘違いして、戦勝国側の論理に便乗して大声できれいごとをならべているような者は箸にも棒にも引っかからない恥ずべき者と言えようか。
 話を前に戻すと、ゆき子がジョオを捨てて再び富岡と一緒になったことに関しては説得力に欠ける。言い方を換えれば、作者林芙美子が、ゆき子とジョオの関係が破綻に終わったその原因をうまく書けていなかったということである。穿った見方をすれば、ゆき子はジョオとの性的関係において、富岡とのそれを上回る満足を得られなかったということになろうか。わたしは〈煮〆めたような日本手拭〉富岡に、人間としても、男としても魅力を感じることはない。ただし、こういったダンディ気取りの男に理屈なしに惹かれてしまう女がいることは確かで、ゆき子もまたそういった女の一人であったということである。男と女の関係には本来、倫理も道徳も法律も介入することはできない。富岡とゆき子は、自分たちの腐れ縁にそれらを介入させることはなかった。その意味では彼らふたりは見事に〈腐れ縁〉の舞台を全うしたと言える。