清水正の『浮雲』放浪記(連載135)

清水正への原稿・講演依頼は  qqh576zd@salsa.ocn.ne.jp 宛にお申込みください。ドストエフスキー宮沢賢治宮崎駿今村昌平林芙美子つげ義春日野日出志などについての講演を引き受けます。

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https://www.youtube.com/watch?v=LnXi3pv3oh4


批評家清水正の『ドストエフスキー論全集』完遂に向けて
清水正VS中村文昭〈ネジ式螺旋〉対談 ドストエフスキーin21世紀(全12回)。
ドストエフスキートルストイチェーホフ宮沢賢治暗黒舞踏、キリスト、母性などを巡って詩人と批評家が縦横無尽に語り尽くした世紀の対談。
https://www.youtube.com/watch?v=LnXi3pv3oh4

https://www.youtube.com/results?search_query=%E6%B8%85%E6%B0%B4%E6%AD%A3%E3%81%A1%E3%82%83%E3%82%93%E3%81%AD%E3%82%8B 清水正チャンネル
https://youtu.be/KqOcdfu3ldI ドストエフスキーの『罪と罰
http://www.youtube.com/watch?v=1GaA-9vEkPg&feature=plcp 『ドラえもん』とつげ義春の『チーコ』
https://youtu.be/s1FZuQ_1-v4 畑中純の魅力
https://www.youtube.com/watch?v=GdMbou5qjf4罪と罰』とペテルブルク(1)

https://www.youtube.com/watch?v=29HLtkMxsuU 『罪と罰』とペテルブルク(2)
https://www.youtube.com/watch?v=Mp4x3yatAYQ 林芙美子の『浮雲』とドストエフスキーの『悪霊』を語る
https://www.youtube.com/watch?v=Z0YrGaLIVMQ 宮沢賢治オツベルと象』を語る
https://www.youtube.com/watch?v=0yMAJnOP9Ys D文学研究会主催・第1回清水正講演会「『ドラえもん』から『オイディプス王』へードストエフスキー文学と関連付けてー」【清水正チャンネル】
https://www.youtube.com/watch?v=iSDfadm-FtQ 清水正・此経啓助・山崎行太郎小林秀雄ドストエフスキー(1)【清水正チャンネル】

清水正『世界文学の中のドラえもん』『日野日出志を読む』清水正への原稿・講演依頼は  http://www.ebookjapan.jp/ebj/title/190266.html

ここをクリックしてください。清水正研究室http://shimi-masa.com/

デヴィ夫人のブログで取り上げられています。ぜひご覧ください。
http://ameblo.jp/dewisukarno/entry-12055568875.html

清水正研究室」のブログで林芙美子の作品批評に関しては[林芙美子の文学(連載170)林芙美子の『浮雲』について(168)]までを発表してあるが、その後に執筆したものを「清水正の『浮雲』放浪記」として本ブログで連載することにした。〈放浪記〉としたことでかなり自由に書けることがいいと思っている。



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 清水正の『浮雲』放浪記(連載135)
 平成◎年9月16日

富岡がゆき子に向かって言う「君は君の人生」とはいったいどんな人生なのか。富岡にしてみれば、〈ダラットのゆき子〉がいればいいので、しつこく追いかけ回してくるゆき子はいらない。富岡の人生は、いわば女を梯子して歩く人生で、ただ一人の〈永遠の伴侶〉などを求めていたのではない。邦子、ニウ、ゆき子、おせいのうち、ただ一人の女も〈永遠の女〉とはならない。富岡は裏街酒場を飲み歩く酔っぱらいと同じで、そのつど女にちょっかいはかけても、必ず家に帰ることは忘れない。かと言って、家に待つ邦子を誰よりも愛しているわけでもない。今、富岡の頭におせいは蘇ってきても、邦子のことを親身になって考えることはない。
 富岡は「俺と一緒にいれば、君は駄目になってしまう」と口にするが、別にゆき子のことを思って言っているのではない。今の富岡にとってゆき子は邪魔者でしかないので、彼女を追い払おうとしているだけである。性愛で結びついた男と女は、そのどちらかが一方的に冷めてしまえば、別れを免れることはできない。ゆき子がジョオと関係を持った時、富岡がおせいと関係を持った時、二人は別れる。もし、二人ともに分別が働けば、二人は別れて別々の人生を歩みはじめたであろう。が、ゆき子は富岡への執着を捨てきれず、富岡はゆき子をきっぱりと切り捨てることができない。

 性愛の泥沼にはまりこんでしまった二人は、分別や理性がまったくきかない領域でのたうちまわるほかはない。ゆき子はすでに殺されて、この世に存在していないおせいに対して嫉妬の炎を燃やしている。なぜか。富岡の心のうちにおせいが生きているからである。嫉妬深く、独占欲の強いゆき子は、富岡の心の内に生きているおせいと張り合って、燃え殻のような肉体で富岡に迫っていく。若く弾力のあるおせいの肉を味わってしまった富岡は、ゆき子に何の魅力も感じない。堕胎後のゆき子を見舞った伊庭は「昔の生娘とは違うなまめかしさ」を感じるが、富岡の眼にゆき子はなんの魅力もない。もはやゆき子はダラット時代の〈キングバナナ〉でも〈マンゴスチーン〉でも、ましてや〈臭気ふんぷんとしたドウリアンという珍果〉でもなくなってしまったのだ。
 ゆき子が富岡に執着するのは自分でも明晰に意識できない〈復讐〉の念であり、富岡がゆき子を捨てきれないのは、自分でもよく分からない追いかける〈母性〉を求めているからである。ゆき子は富岡への手紙に「一時は、貴方を憎み、怒りましたが、やはり、ゆき子以外には、貴方を慰めてあげる女は他にいないと思っております」と書いた。ゆき子は自分という女を〈慰めてあげる女〉と認識している。単なる〈慰め〉の感情だけでは、これほど執拗に富岡を追い回すことはできない。この〈慰め〉には憎悪、殺意、復讐、嫉妬の要素が混在している。単なる慰めなら、富岡も断固として拒むことができようが、復讐や嫉妬などが入り交じった感情を前にすると尻込みせざるを得ないのである。部屋へ押し入り、ベッドへ坐りこみ、泣き続けるゆき子の激しい感情の炎を、消し止めるだけのマグマを富岡は持ち合わせていない。ゆき子は今までの経験で、富岡の〈もぬけのから〉の中に入りこむ手だてを会得している女である。ゆき子のような激しい執着型の女は、富岡のような〈もぬけのから〉のような男を好むのであろう。

 「まア! 何て、怖いことを言うのよ、あなたってひとは……。私に、ここで死んでみせろって言ってるみたいね……。私が自分の人生を歩むのだったら、もうとっくに、あなたには逢ってはいないわ。ーーそれ、でも、あなたの本当の気持ちなンでしょうね。私に飽きてしまったから、本当の事が言えるンでしょうね……。私、何を言われたって驚かないわ。ええ、そうなンです。おせいさんと二人で暮らしていらしたこの部屋の空気が、あなたと私に邪魔をしてるのかも知れないけど……。もし、ここに、おせいさんのお化けが出て来たら、私言ってやる。一生、富岡さんとは別れてやらないって言ってやる……」(334〈四十三〉)

 ゆき子はおせいの〈お化け〉とも戦う覚悟があって富岡と対している。こういう女を前にしては、富岡がいくら〈もぬけのから〉を強調しても無駄である。わたしは作者林芙美子が執拗に繰り返し描いたゆき子と富岡の修羅場を引用しながらつくづく思うことがある。ドストエフスキーは人物の観念はきわめて細密に描いたが、ここに展開されたような男と女の確執を具象的に描くことはなかった。ニコライと正妻マリヤ、ニコライとマリヤ・シャートワ、ニコライとリーザ、ニコライとマトリョーシャ、ニコライとダーリヤ、ニコライと情婦たちの濡れ場はいっさい描かれず、彼らの間にゆき子と富岡が展開したような修羅場も描かれない。
 ここでゆき子が発しているセリフを、『悪霊』のダーリヤがニコライに向けて発すれば、かなり具象的なリアリティを獲得するだろう。ドストエフスキーは、ニコライがシャートフの妻と関係して子を身ごもったことは明確にしているが、ニコライとダーリヤの間に肉体関係があったのかどうかに関してはあいまいなままにしている。読者が勝手に推測する他はないのだが、わたしはニコライがダーリヤと関係しない理由を見つけることはできない。ダーリヤはニコライの看護婦的な役割をあてがわれているが、『浮雲』のような作品を読んだ者の目からすれば、きれいごとの次元を越えていない。『罪と罰』のソーニャの場合もそうだが、ドストエフスキーはこの娼婦から、娼婦としての現実を完璧にぬぐい去っている。ソーニャはきれいごとどころか、少女マンガの次元にとどまっている。手塚治虫がマンガ『罪と罰』で描いたソーニャのように、ドストエフスキーの描くソーニャは泥々の現実につかった肉体を完璧に隠されたまま聖性のみを強調されている。この〈聖性〉の檻の中からソーニャを解放しなければ、人間ソーニャは誕生しない。檻の中に閉じこめられた聖性のソーニャを前にして、殺人者ロジオンは罪の意識に襲われることなく復活の曙光に輝く、こんなおとぎ話のような作品にいつまでたぶらかされ続ければ気がすむのか。キリスト者でもない小林秀雄は「信仰なき者は罪である」というロマ書からの一節を引用して、『罪と罰』論を終えている。愚かしいことだが、この欺瞞を欺瞞とも感じることのできない者たちが未だに存在する。

 ニコライ・スタヴローギンを前にして「もし、ここに、マトリョーシャのお化けが出て来たら、私言ってやる。一生、ニコライさんとは別れてやらないって言ってやる……」と、こういうセリフが吐けるダーリヤであれば、『悪霊』もかなり現実的なものとなったであろう。『悪霊』は壮大な政治劇、革命劇、悲喜劇、思想劇であるが、主人公のニコライ・スタヴローギンなどは観念的に肥大化したグロテスクな存在として描かれ、その生身の卑小さが見落とされがちである。ニコライの観念世界に影響されやすい観念的な読者は、ニコライを観念上で巨大化させてしまう。わたしの目に、ニコライは卑小卑劣な存在にしか見えない。いくら作者ドストエフスキーがニコライを神格化しようとたくらんでも無駄である。ロジオンもニコライも、観念の魔にたぶらかされた青年であり、観念の魔にたぶらかされる傾向性をもった読者にのみ英雄視される。前者は本当に観念の魔にたぶらかされた青年だが、後者はその半端な模造品にとどまる。
 林芙美子が描いた富岡兼吾はニコライ・スタヴローギンの模造品ではない。富岡兼吾は正真正銘の富岡兼吾であって、ニコライ・スタヴローギンのようなロクデナシではない。ニコライは不断に〈神を試みる〉誘惑にかられ、実際に試みて挫折するロクデナシだが、富岡兼吾にはそもそも〈試みる神〉が存在していない。