横尾和博/想像は光である〜「清水正vs中村文昭」を読んで


ドストエフスキー曼陀羅』第四号は特集『「清水正vs中村文昭〈ネジ式螺旋対談〉in21世紀」に寄せて』学生、文芸評論家、ドストエフスキー研究家たちの論文・エッセイを掲載してある。今回は横尾和博氏の批評を紹介する。



想像は光である〜「清水正vs中村文昭」を読んで

横尾和博

重要かつ貴重な対談である。
 「江古田文学」82号の「ドストエフスキーin21世紀 清水正vs.中村文昭<ネジ式螺旋>対談」は、これまでの清水正文学の営為を解くうえで重要な対談である。過去いくつかの清水氏の対談、鼎談、座談のなかで、「江古田文学」(1987年春号)の小沼文彦、江川卓鼎談と同じように意味のある作品だ。
 それはなぜか。5時間に及ぶ対談の長さだけではない。2012年12月25日、降誕祭(クリスマス)という日にち設定がふたりに与えた無意識の影響、そして中村氏が清水氏の批評に切り込んでいる場面が圧巻だからである。
 芸術という舞台でふたりの役者が対峙している。
鋭い火花が散るのはキリスト教、神、信仰をめぐっての議論。中村は清水の信仰について迫る。「清水批評と信仰の問題はどうなのですか」と。清水は「僕は僕なりの信仰があります」と答えているが、信仰の問題を現代人は正面から問わないし、答えられない。
 先に私の立場を述べれば、キリスト教に代表される一神論的な考えには同意できないが、汎神論的な思考には同調するものである。
中村氏はここでキリスト教徒とキリスト者を分けて考えることを提起している。マルクス者とマルクス主義者の比喩を用いて、清水をドストエフスキー主義者ではなく、ドストエフスキー者だと規定する。ドストエフスキーへの共感、心酔、体験が現れているともいう。それは神秘体験ぬきには語れない、と指摘する。
 「主義者と者」この違いが理解できないとドストエフスキー論を語ることができないと私は考える。ドストエフスキーの手紙にもある。「真理と共にあるよりはキリストとともに歩いていきたい」と。
 研究論文では文学の本質に迫ることができないし、芸術の真髄に触れることができない。清水氏が若いころ獲得した思考は、まさにいまの文学状況を照射するのにふさわしい考え方である。「停止した意識空間内分裂者」である。
清水批評の本質は、見出しにもある「ねじ式螺旋」。螺旋との言葉が印象的であり、本質の暗闇に真っ直ぐ降りていくダイヤモンドの切っ先を連想させる。
 ある時期から清水氏は原典や原語にあたり、テクストを詳細に読みこむ。この対談でも述べられているが。その読解は『罪と罰』に象徴されている。ひとつだけ紹介しよう。
ラスコーリニコフとソーニャの屋根裏部屋での有名なシーンがある。聖書の「ラザロの復活」をソーニャが読む。ソーニャはラスコーリニコフに向かって聖書を朗読しているのではない。信仰告白をしている。まさにそのときに、イエスが狭く汚いペテルブルグの裏町の屋根裏部屋に現れているからなのだ、と清水はいう。ラザロ復活の場面、「殺人者と娼婦が永遠の書を読む」場面。このラスコーリニコフ、ソーニャの聖書朗読場面がドストエフスキーのなかでダブルイメージになっている、ということだ。しかも、そのふたりの精神的、肉体的交わりを、こっそり聞いているスヴィドリガイロフがいる、との物語の重層的な構成をあばきだした功績は大きい。
 もちろん清水氏をはじめ私たちが、このような読み方ができるようになったのは江川卓『謎解き「罪と罰」』の成果だが、それをさらに螺旋批評で切り込んでいった清水氏の想像力はまさに芸術である。
このように清水批評の根源はテクストの再構築である。背後に隠れている闇を徹底的に洗い出すことだ。
エドガー・アラン・ポーは「私の心を発(あば)く」と『マルジナリア』で書いた。
「野心のある者は、ただ一冊の小さな本を書くだけでいい。その本のタイトルは簡単で『私の心を発く』というものだ。しかしこの本を書く勇気のあるものはいない。勇気があっても書くことができない。書こうとすればペンは灼熱して、紙は燃えあがってしまうだろう」。
清水氏は作家や登場人物の精神の二重底、三重底どころか、四重底、五重底まで批評し尽くすことにより、埴谷雄高がポーやドストエフスキーについて指摘したように不可能性の文学を求めて、批評を続ける。
 人を批評、批判する言葉は必ず自分に返ってくる。そのことを一番わかっているのは、対談者のふたりだ。ゆえに対談に馴れ合いがないし、お互いの文学観をぶつけ合い、対峙している。
 今回、多忙ゆえにあまりこの「対談」について多くを述べることができないが、私の拙い感性でもこの対談の持つ意味を感じることができる。
 想像は光である。
 萩原朔太郎宮沢賢治志賀直哉林芙美子トルストイスピノザ、サド…、重要なキーワードが続々と登場する。
 このふたりにはこれからもこれらの作家をひとりずつ俎上にあげて、大対談をやってほしい。それは文学シーンを大きく変える、宝物となるだろう。