下原敏彦/「清水 正 VS 中村文昭」対談に想う


ドストエフスキー曼陀羅』第四号は特集『「清水正vs中村文昭〈ネジ式螺旋対談〉in21世紀」に寄せて』学生、文芸評論家、ドストエフスキー研究家たちの論文・エッセイを掲載してある。今回は下原敏彦さんの批評を紹介する。




「清水 正 VS 中村文昭」対談に想う

 下原敏彦


 
 はじめに、『江古田文学82』での特集〈ドストエフスキー in 21世紀〉「批評家清水正の『ドストエフスキー論全集』完遂に向けて」に、あらためてお祝い申し上げます。
 清水氏は、想像・創造批評という独自の手法で半世紀にわたりドストエフスキー批評をつづけながら新しい批評世界を切り開いてきた。
おそらく日本はむろん、世界においても清水氏ほど、ドスト論を多大に発表している批評家・研究者は、いないと思う。ドスト関連出版物も数知れない。目下、集大成の第一期として『清水正ドストエフスキー論全集』を六巻まで刊行している最中でもある。
氏は現在、還暦半ば目前、人生もドスト論も、佳境にある。こうしたなかでの清水正ドスト論批評の特集、大いに歓迎されるところである。
特集には、学生から研究者まで清水氏を巡る多くの人たちが、様々な批評、感想を寄せている。交流譚あり、著作評あり、作品評あり。ドストエフスキー研究を発信つづける清水氏への労いと応援歌となっている。この特集で、氏のドストエフスキー論がますます深化し発展されんことを切にお祈り申し上げます。

               一

特集の中で注目すべきは、何といってもスタートを飾る対談である。五時間にも及ぶ長い対談だが、それを感じさせない面白さがある。スリリングな展開と多くの謎解き。
大袈裟に評するなら、清水正ドスト論を構成する総ての因子が、この対談に集約されている――そのように思えるのである。
ドストエフスキーほど読む人によって解釈や感想が違う作家はいない。神の問題ひとつをとっても作家を無神論者と思う人もいれば、熱烈な神の信奉者と思う人もいる。愛読者にしてもキリスト教信者の人もいれば、イスラム教や仏教徒の人もいる。思想においても皇帝擁護論者で極右の旗手とみる人もいれば、革命の使嗾家とみる人もいる。よく云われることだが、まさに百人の読み手がいれば、百通りの感想がある。
それ故に、ドストエフスキーをテーマにした対談は、難解な言葉や単語が飛び交うだけの掴みどころがないカタログ的対談で終わる場合が、ままある。
十七歳からドストエフスキーを読みつづけ、書きつづけ、論じつづけている清水正氏。詩人・評論家、「江古田文学」編集人として清水氏のドストエフスキー論を見つめてきた中村文昭氏。この孤郄の研究者と観察者。異質な両者の対談は、はたしてどんなものになるのか。好奇心と期待が交差する一方、ネジ式との副題から中身の濃い内容になるのでは――浅薄な読者としては、ついてゆけるのか、そんな不安も先に立つ。
ドストエフスキーを論じることは、底なし沼の泥さらいをするようなもの。いくらさらってもさらっても底は見えてこない。(その証拠に、ドスト論はつづいている)
ドスト論批評は、その無間地獄をさらに考察するということである――だとすると、そんなことは可能だろうか。ミイラとりがミイラになるように、こちらも底なし沼にはまってズブズブと沈んでいってはしまいか…最初そんな怖れもあった。
しかし、読み始めるとまったくの杞憂だった。対談は、「清水正ドスト論」という名のデズニーランドにも似ていた。観覧車あり、ジェットコースターあり、魔法の国ありの遊園地だった。他に、涙あり、笑いあり、コントありの演芸場でもあった。
対談すべては、おそらく天然自然のものに違いないだろう。が、いたるところに客を楽しませる為の仕掛や工夫が施されていた――というか。そのように錯覚するほどの楽しさ、愉快さがあった。長い対談だが、一気に読めた。
これもインタビュアーである中村氏の巧みな誘導と、清水氏の一種演芸にも似た話術の成す技といえる。
総じていい話を聞いた、いい風景をみた。そんな余韻の残る対談だった。清水正江川卓・小沼文彦による鼎談を彷彿させるものがあった。

               二

 対談は、『江古田文学』誌面の頁数で108ページに及ぶ。ロング対談である。小説なら立派に中編小説ができあがるほどだ。ふつう、これほど長いと、どこかでダレたり、読む方にも飽きがくるものである。が、それがなかった。
清水正ドスト論のいくつかは、これまで著作物で読んだりしていて、馴染みがあった。直接、耳にしたこともある。にもかかわらず、どの考察も新鮮に見えた。
見慣れた山河だったが、どこも新天地を旅するようで、珍しく感じた。おそらく文字面だけだったら、これほどの印象はなかったと思う。対談という立体化と二人の会話が、ドスト論の難解さを充分に分かり易くさせていた。
この対談は、旅するようだ、と書いた。が、マラソンレースにに例えることもできる。二人は先頭を争うランナーにも似ている。さしずめ読者は、テレビ観戦する応援団といったところか。先導するのは中村氏だが、ときには清水氏に追いつかれ抜かれたりもする。それだけに二人から目が離せない。
ラソン選手の走りが、日頃の練習成果のあらわれなら二人のベテラン論者の対談レースは、蓄積されてきたドスト論の披歴といえる。
スタート直後、二人は、挨拶がわりにそれぞれの思いを語った。中村氏は、対談日、つまり十二月二十五日の意義を訴えた。清水氏は、ドストエフスキー論全集刊行の動機を明かした。そうして足並みそろえて走り始めた。天気晴朗、風もなく、穏やかなレースと思われた。が、中村氏は、いきなりスピードをあげて、清水正ドスト論の核心に触れてきた。

ドスト論全集において「なぜ萩原朔太郎から始められたのですか」と。

突然に清水氏のドストエフスキー体験とは何か――に迫ったのである。
これを機に対談は、一気に『罪と罰』、『カラマーゾフの兄弟』などの作品世界を背景に丁々発止の展開をみせていく。勢いを増す清水氏に、中村氏は、よき水先案内人らしく

「そうだね、まあゆっくり行きましょう」

と、譲歩する。しかし、清水氏のネジ式の先端は、翻訳家・工藤精一郎の「豚」について訳問題にまで掘り下がる。

…だってマルメラードフが「私のことを豚でないと、あなたは豚でないと断言する勇気がありますか」というのを「豚だと断言する」になっちゃったらもう全然違うわけでしょ。

 回転するネジ式の先は、更に速度を増す。

…そうするとマルメラードフは「ソーニャだけは私のことを豚ではないと言っているんだけれども、若い人よ、ロジオンよ、ラスコーリニコフよ、あなたは私のことを豚じゃないと断言できる勇気がありますか」と聞いてるわけだから、これを間違えられちゃ困るわけです。

 マラソンは、ただ走るという単純な運動競技だが、頭の中では、いろんな思いが湧きあがって尽きることはないという。両者の対談も同様である。翻訳問題から「ドストエフスキー主義者とドストエフスキー者の違い」「ラスコーリニコフの殺人へのこだわり」などなど、次ぎ次ぎ浮かんでくる。それらは、湖面に投げ入れられた小石の波紋のようにひろがっては消え、広がっては消え尽きることがない。

               三

対談のなかで取り上げられる清水正ドスト論の数々。そこから尽きぬ想念、尽きぬ議論が湧きあがる。それらのいくつかは、前述したようにこれまで刊行された書物や清水氏との会話の中で、既に知り得たものもあった。が、多くは何となく曖昧模糊としていた。はっきりと現実感をもって理解できていなかった。
しかし、中村氏と清水氏のこの対談で、見えにくかったもの、わからなかったものの輪郭が見えてきた。そんな気がした。
その一つに清水氏のドストエフスキー体験がある。対談の核を成す議題である。ドスト体験…聞きなれてはいるが、何か深い霧に包まれたものを感じる。それだけに中村氏にとって最大の謎かも知れない。解明は、この対談の最終目標──そのようにみた。その証拠に

「しつこいようだけど、…」

中村氏は、執拗にこの問題に食い下がる。ネジ式の先を向けようとする。が、清水氏の口から出るのは、小難しい観念言葉ではない。

「巨大な人工遊園地に見えてきたんですよ」

清水氏は、おとぎ話をでもするように自らのドスト体験を語る。
「底なし沼みたいなところに落ち込んで、その中で必死になってのたうちまわっていた」。が、「あるとき」そこはドストエフスキー遊園地とわかった。そんな説明である。
巨大な人工遊園地――これまでは、なにか比喩的にしか感じられなかった。が、今回の対談からは、臨場感が伝わってきた。
氏が体験した現実感とは、どんなものか。深い川に落ちて、溺れると思いもがいていたら、不意に足が川底に着いた。「あれ、浅いんだ ! 」そんな安堵と驚きの感覚だろうか。
清水氏は、つづける。

「だから、巨大な人工的なドストエフスキーの世界が、つまり楽しいんですよ。ジャングルがあって、…ジェットコースターがあったりとかね」

対談から、夢見る少年のように瞳を輝かせて話す清水氏の顔が浮かんでくる。
ここで唐突だが、対談を読みながら、不意に確信した。そうか ! その発見に清水正ドストエフスキー論の原点があるのだ、と。
ドストエフスキーは、巨大な人工遊園地。本物の沼やジャングルではない。と、すればまだ他にもいろんな遊び場がたくさんあるはず。全部を遊び切るには、まだまだ時間がかかる。だからあきないのだ。遊ばれていたのではなく、遊んでいる。この逆転の発想が、ドスト論者としての清水氏の幅をひろげている。そのように思えた。
この比喩的体験は、楽しい遊戯施設を思い起こさせる。が、反面、神とは何か、存在とは何か。宇宙とはなにか。そうした難解な哲学的問題を考えさせられるところもある。
しかし、筆者は「ドストエフスキーは巨大な遊園地」と聞いて、こんなSF小説を想起した。エドモンド・ハミルトンの古典名作「フェッセンデンの宇宙」である。
物語は、人工宇宙を創って遊ぶ天才科学者。そんな奇想天外な話である。
自宅に閉じこもった天才科学者フェッセンデン。彼は、いったいどんな研究に没頭しているのか。友人は、興味からある夜、彼の家を訪ねた。研究室で友人が目にした光景は、自分が創った小宇宙を恣意的に操る天才科学者の姿だった。彼は邪悪な神の存在となって、平和な惑星に異変を起こさせ楽しんでいた。
「まるで楽園のような」星に住む、「愛と幸福につつまれた」住人たち。彼らは、やがてくる人為的災難を知る由もない。刻々せまる滅亡のとき、友人は思わず…
この物語の悲劇的結末は、どこかドストエフスキーの小作品『おかしな男の夢』を思いださせる。
もしかしてドストエフスキーは、この宇宙を人工宇宙と疑っていたのかも。想像すると、森羅万象の謎解きに挑戦する作家とドストの人工遊園地で遊ぶ清水氏の姿が重なる。
宇宙の謎は、即ち人間の謎。清水氏は、巨大なドスト遊園地で遊ぶことで、その謎を解こうとしている。そのように空想すると、ドストエフスキーも楽しいものになる。
それにしてもドスト世界は遊園地とすると、遊戯機材はいったい誰がつくり運んできたのか。ジェットコースターのレールや車輪は、誰が組み立てたのか。
ドストエフスキーは地獄絵を見たとき、鬼たちが持っている手鉤を見て、手鉤をつくった工場はどこにあるのか、そんな疑問を抱いた。工場がなければ地獄はニセモノか……。
ニセモノといえば清水氏は、ドストエフスキーは贋物だと謎解いている。なぜニセモノなのか。では、本物の遊園地とは何か。その疑問に、氏は、このように答えている。

それこそ、僕が死んでぼくの書いているものを全部を検証するひとが出てきたときに、「そういうことだったのか」みたいなことじゃないかと、僕は思うんだけど。

時間でしか解決できない ――― まだ全部を批評していないから謎解くのは、不可能ということか。清水正ドスト論の完成が待たれるところだ。
清水氏のドスト遊園地体験は、いろんなことを想起させてくれる。この銀河宇宙は、人工宇宙。神様ではなくフェッセンデンのような科学者がつくった。もしそうだとしたら、いま現在もこの天空のどこかから、この星のすべてをこっそり覗き見ているかも。
彼は、戦争を面白がったり、核汚染に苦虫をつぶしたりしている。そうして人間という生き物に何か悪戯をしてやれと企んでいるのかも知れない。もし、そうだとしたら彼、創造者が、フェッセンデンのような異常な性格の科学者でなければよいが……そう祈るばかりだ。この空想、上手く説明はできないが、何かドストエフスキー体験を連想する。
 
 近年、世界各地で起きている異常気象。台風、竜巻、豪雨、地震、酷暑、干ばつ、どれも観測史上初、これまで経験したことのないものとの報道。もしかして、この自然災害は、意図的に、誰かが引き起こしているのでは。そのように思ってしまう。
 
               四

人間はどこから来て、どこに行くのか。宇宙の謎を解くために『2001年宇宙の旅』(アーサー・クラーク)のボーマン船長は、ディスカバリー号で旅立った。しかし、この宇宙は、人工宇宙だった。それがわかったときのボーマン船長の驚きはいかばかりか…。作者アーサー・クラークもびっくりである。
こんな筆者の勝手な空想を他所に、対談は、大河のように滔々と流れていく。星星を集めた天の川のように。平野をゆく大河のように。されど清水川と中村川は、まったく違った土地から流れてきた川である。それ故、両者のドストエフスキー観は、同じではない。宗教、キリスト体験、『罪と罰』の読みなどには、それぞれに大きな相違もある。そんな川がいきなり合流したのである。当然、飛沫もあがる。

「僕は反キリストではないけれども、違うんです。ちょつとね」

と、清水氏がつぶやけば、

「だから、僕はキリスト教キリスト者は違うよって言ってるんですよ。――」

と、中村氏は返す。
 『罪と罰』の主人公ラスコーリニコフの評価についても中村氏は

「だから清水さんにかかると、長い間清水さん自体が、ドスト文学イコールドスト体験で、『罪と罰』のラスコーリニコフと自分を一体化して…」

と、水を向け

「-―ラスコーリニコフは悪魔のサインを持って生れてきた。そういう話になる。だから『罪と罰』論三冊をよんで、そうだっていうのと、いや違うんじゃないといった揺さぶりを感じている」

と、疑義を呈する。
しかし清水氏は、即座に否定する。

「――僕はね、面白いな、中村さんの話の中で面白いなと思ったのはね、斧を振り上げるロジオンが美しいってこと言ったことがあるでょ。そのとき僕は〈ええっ〉って思ったね。もし違いがあるとすれば、そこは決定的にちがうんですよ。――」

二つの水質の違う激流は、ともすれば交わることなく並行したまま、波しぶきをあげて流れゆく。しかし、それも岸辺の風景が変わることによってしだいに調和へと変化していく。例えば『悪霊』について清水氏が

「だから、僕がピョートルに対して幾らヴィジョンを語っても〈え、何言ってるんだお前は〉みたいなところが残ると思うんですよね」

と、こぼせば、中村氏は、
「そうそうそうそう」と、何度も受け止め清水氏も

「中村さんは、そういうところに注目してくれるけど、ほかの人はちょつと無理でしょう。まだね、……」

と、胸襟を開く。
性質の違った二筋の川は、対談という流れのなかで対立と妥協と同意を繰り返しながら、いつしか一つの大河となって、大海をめざす。

               五

大河にとって大海は、終着地である。が、はじまりの地点でもある。この星の生命は、すべて大海からはじまった。生命の源の水は、蒸気となり、雲となり、大地に降りそそぎ川となり大河となって、またふたたび大海に向かう。それの繰り返しだ。
この対談も、それに似ている。過去、現在、未来を語りながらも、ふたたびの過去に戻る。そうしてまたふたたびの現在、未来と時間を繋ぐ。
清水氏は、林芙美子の『浮雲』論をつづけることで、その繰り返しを検証していくと明かす。

「……それを60数年前に書いた林芙美子のすごさだね。・・・焼け野原になった東京の荒涼とした光景を目に焼き付けている。その殺伐とした無残な光景は、去年の3・11の東日本大震災でまた再現されたわけですね」

清水氏が、林芙美子を高く評価するのは、芙美子の作品に歴史の繰り返しが投影されている。それをきちんと書き切っているからという。そこに芙美子の作品が世界文学線上にのぼる何かを感じているのだ。
大河の水面には、対談を彩る、様々な人物、風景が映る。『地下生活者』の横顔、マルメラード家の居間、街角に立つソーニャ、苦虫をつぶした小林秀雄、月に吠える萩原朔太郎、うす笑いするラスコーリニコフ、のどかなスクヴォレーシニキ、宮沢賢治イーハトーブ村、大母ワルワーラ、ピョートルの陰謀。現実のネチャーエフと『悪霊』の登場人物などなどである。そのなかに林芙美子の『浮雲』の場面場面も、入り混じる。
それらをながめていた中村氏は、突然、
「もう一つ、質問しようとしていたことがあります」
と、申し出て、『悪霊』論の世界を俎上にあげた。
『悪霊』論において、清水氏は、アントン君黒幕説をはじめとする様々な想像・創造批評を展開してきた。例えば、

「――ニコライ・スタヴローギンというのは、絶対に舞台に登場してはいけない人物だったの、僕から言わせるとニコライ・スターヴローギンは、ピョートルやシャートフ、それから五人組の人々によってさまざまに語られたり、噂されたりする存在であって、姿をみせてはいけない存在なんですね」

と読み解くなど、定説を覆している。

「――だから、ピョートルがキリストに変換する。一瞬にして返還するというこの再構築ドラマは、僕の中ではすごいヴィジョンなんですよ」

清水正ドスト論は、従来の『悪霊』世界をも一変させるものがある。その批評は、中村氏の思いとは、乖離するようだ。が、中村氏は、あくまでもインタビュアーである。

「ああ、わかった。……今ピョートルの話もよくわかったのは、〈再構築〉という概念はそういうことだね……」

と、同調しながらも、ふたたび「ドストエフスキー体験」の謎を口にする。

ドストエフスキー体験というところから、俺ほどドストに心酔し入れ込んだ作家はいないと探したら、朔太郎が相当にやっていた、と言う出会いから始まって、――」

どうしてもドスト体験の解明をみたい。そんな意気込みがある。

               六

対談のスタート時に提起された「ドストエフスキー体験」の問題。中村氏は、是が非でもこの謎を解きたいようだ。
話は逸れるが、この謎解きのために、中村氏は、対談準備として、清水正ドスト論をじっくり観察してきたようだ。それはまるで真剣勝負に臨む剣豪を思わせる。
真相は知らないが、剣豪宮本武蔵は試合の前日、ひそかに海を渡り、巌流島にあがって潮の満ち引き、試合時の太陽の位置、浅瀬の距離などすべてを調べあげたという。
中村氏も、対談に備えて、最新の清水正ドスト論を読みきってきたのだ。

「…今回、清水正ドストエフスキー論全集』第1巻から第6巻までを通読して…これまで単著で読んできた印象と全然違った…」

中村氏は、清水氏のドストへの出発点、源泉をしっかり下見した。そして、改めて「ドストエフスキー体験」の謎を感じたらしい。

「清水さんがドストエフスキーと出会ったのは十七歳の時、『地下生活者の手記』だった」

 そこに何かあったのか。解明を胸に秘めて中村氏は、真剣試合に臨む武芸者のように対談に臨んだのだ。それ故に、一見のんびりしたものにみえた対談風景は、ときにピンと張り詰めた緊迫したものを感じさせる。

               七

中村氏には、過去『江古田文学』において清水氏のドストエフスキー論をじっと観察してきた軌跡がある。ドストに対する清水氏の情熱は熟知している。そのなかにあって、なおもドスト体験は何か、である。
ドストエフスキー体験 ―― ドストエフスキー研究者、読者のあいだでよく聞かれる言葉である。一般的言葉となっている。しかし、なにをもって体験というのか。そういった議論は、あまり聞かない。

「小林の直感批評には、清水正の神秘体験がないと僕は読みますけど」

話題が小林秀雄ドストエフスキー論になったとき、中村氏は、いきなりこう指摘した。
これに対して清水氏は、いく分とまどったようだ。おそらく氏にとっても、意表をつく言葉だったようだ。一呼吸おいて
「神秘体験 ? 」と、問い返している。
 それに対して中村氏は、このように説明している。少し長い抜粋だが、清水正という批評家の本質をついていると思うので、全会話を紹介する。

「うん、つまり小林は直感批評でね、彼はランボォとかゴッホとか、もちろんドストエフスキーとか論じているけど、なぜドストについて書くことをやめたんだっていったら、俺キリスト教徒でないからと言う。そこが直感批評の限界かもしれない。やっぱり神秘体験がないんだな。清水正の批評精神の中で、ものを書く前に俺は思索家だったんだという一文があって、何か世界に対する独特な感じ方っていうのかな、そういうものを大切にしている。清水式螺旋批評には空回りがいっぱいあるけど、ドスト文学の神秘的な核に向かって一ミリ単位でらせん状に掘り下げていくぞといった情熱がある。この執拗な情熱の核に清水正自身の神秘体験が重なっている気がしてならない。やはり清水正ドストエフスキー文学との出会いと体験とは、同時に清水さんの神秘体験だったんじゃあないかと思う。その神秘体験とは、最初の入口としては、ドストエフスキーを借りておのれの中の神秘体験の核まで降りていくんじゃあないかと思ったら、小林の直感批評じゃあだめだよ、君、みたいなことになる。」
 
この中村氏の見方「神秘体験」について、清水氏は、そのへんは「時間をかけてゆっくり話したいというのもあるんですよね」と、濁している。

               八

 ドストエフスキーの神秘体験とは何か。「ドストエフスキー体験」は、前述したが今日、よく聞かれる言葉である。一般的になっている。
しかし、「神秘体験」は、耳新しい。普通のドスト体験とは違うものなのか。違うとすれば、何が…これまで見聞きした、いわゆるドストエフスキー体験のなかで神秘体験と思われるものを探ってみた。特に印象深かいのは、アメリカの作家ヘンリー・ミラーのドスト体験である。

「ある晩、私は、はじめてドストエフスキーを読んだ。その経験は、私の生涯で、もっとも重大なできごと、・・・それは私にとって意味のあるさいしょの自発的、意識的な行為であった。それは世界の相貌を一変させた。私が最初に深い吐息をついて顔をあげた瞬間、実際に時計がとまっていたかどうか、それは知らない。だが、その一瞬、世界が停止したという事実だけは、はっきりと知っている。私は人間の魂の奥底を、はじめて瞥見したのだ。いや、もっと単純に、ドストエフスキーこそ自己の魂を切り開いて見せてくれた最初の人間であった、というべきだろうか?……あまりにも長期にわたって砲火の下をくぐってきた人間のようであった。」(『南回帰線』大久保康雄訳)

これは神秘体験か。ヘンリー・ミラーが感じたものは、遊園地ならぬ戦場体験だった。爆撃と砲弾が飛び交う中を歩いて来た感覚だった。
清水正小林秀雄。中村氏は、同じドストエフスキー批評家であっても、清水氏にあって、小林秀雄にないものがあるという。「神秘体験」がそれだと云う。
中村氏は、その検証として、清水氏がドストエフスキー論全集の第一巻目に萩原朔太郎をあげていることを指摘している。
神秘体験とは何か、を考えながら、筆者は、自分のドストエフスキー体験は、どんなものであったか、振り返ってみた。
私は二十五歳のとき、はじめてドストエフスキーを読んだ。その瞬間から世界が変わった。なにがどう変わったのか。具体的にと云われても困るが、例えればこんなことか。
昨日まで目の前に高く強固なベルリンの壁のような塀があった。が、ドストエフスキーを知った途端、一夜にして吹っ飛んだ。気がつくと目の前に地平がひろがっていた。そんな自由感覚だったろうか。なぜ、そんな気持ちになったのか。説明はつかない。が、これもまた一つの神秘体験といえるのか。とにかく筆者にとって、ドストは、世界観、人生観をも変える強力な爆弾だった。
 ドストエフスキー読者は、すべてドスト体験者なのか。筆者は、四〇年間「ドストエーフスキイ全作品を読む会」に参加している。会には、大勢のドストエフスキー愛読者がいる。いまも新しい参加者がつづいている。彼らは、どんな体験をしてきたのか。それは、いまだ知り得ていない。読書会で、わかるのは、いつの時代にあっても皆、それぞれ、違った手法でドストエフスキーを読み、憑かれ、魅せられて集まってくるということだけである。

               九

ドスト作品をいかに、批評するか。中村氏は、対談のなかで清水氏の批評構成と手法について、

「ここで僕なりに清水正のネジ式螺旋批評を段階としてまとめてみたい」

として、きちんと整理している。筆者の拙文より『江古田文学』で直接読むことをおすすめする。が、せっかくなのでこの場を借りてすこしばかり紹介したい。

□ 第一段階は、若き日の批評にみられるドストエフスキー文学の主人公との一体感を掘り起こす、ドストエフスキー体験批評。
□ 第二段階は、作品構造の分析に入っていく。バフチンの影響も入ると思うけど、いわゆる主観だけで鑑定するんじゃなくて、世界の文献を読みあさって、作品の構造をしっかり分析していく。
□ 第三階段目は、おのれの神秘体験とドストエフスキーの神秘体験の共通の普遍的な核をあぶり出すには、体験・作品の暗号的な構造分析を踏まえた上で、ドストの小説全部を写経しなきゃあいけないと。つまり写経ということは、般若心経でもそうだけど、全部写さなきゃあいけないわけだから、それだと清水正の批評はドストエフスキーを全部写しちゃえばいいことになっちゃう。しかし、なぜ写経という引用の仕方なのかと立ち止って考えてみました。すると合点するところがあった。二千枚以上書かれているあのドストの長編小説を、清水さんは、俳句の五七五しか書いてないと断言している。

対談は、この考察を土台に宇宙、宮沢賢治、科学、文壇、キリスト教など多岐にわたっている。それは、まさに壮大な宇宙でのキャッチボールを思わせる。中村氏が先導だった投げ合いは、いつしか、両者、思い思いの球になっていた。ときにはカーブを、ときには直球を。ときにはゆるやかな球を。順調な投げ込みがつづいた後、突然、球種もわからない、感動球が投げられ、はっとなった。その球は、実際の野球なら、投手が、勝負をかけた最後の一球にも似ていた。

               十

勝負をかけた最後の一球。先日の楽天・巨人の試合なら、7戦目の田中投手の最後の一球か。遠い記憶なら確か江夏が投げた二十一球目の球。どちらにしろ、記憶に残る、記録に残る一球である。
長い対談では、実に様々な事が話され論じられた。キャッチボールされた。どの球も重く貴重だった。そのなかで特にすごかった球があった。球場にズシッと響きこだまするほどの一球だった。それはまた心に残る、心にしみた会話でもあった。
百の感想より、一行の真理―――そんなわけで筆者の胸に残った会話を抜粋した。その場面は、こんなふうにはじまった。

「…それからもう一つ、これは重要な話なんで、ちゃんと言いますけども、つまり僕の息子はアラトという名前を付けたの。新人ですね。この新人という名前を、つまり僕は『罪と罰』の中から取っているわけで、それは神の国の人なんだよね」

清水氏は、突然、亡くなられた長男のことを話しだした。
中村氏は、呆然となりながらも。

「なるほどね」

と、頷いた。
―――というよりあまりの突然で頷くより他なかったようだ。
  清水氏は、つづけた。静まりかえった球場。かたずをのんで聞き入る観衆。そんな光景が頭に浮かんだ。

神の国の人。それから、次男はサトシと言いますから、聖と武士の士で聖士。「おまえはこの地上の世界の英雄となって、神の人と協力してこの汚れたる地上の世界を更新すべき使命を持った子供だ」っていうようなことで付けたんだよ。…」
「新人と聖士という名前を付けた。ところが、自分の長男坊の新人が急性骨髄性白血病ということで、それで命を亡くしたんですね。僕は新人が入院しているときに「名前を変えようか」と言ったときがあるんですよ」

中村氏は、ただ溜め息をつくばかりだ。
 清水氏は、積年の思いをつづける。ここまでの対談がそうさせたのか、もはや、二人の間に壁も塀も柵もない。何のわだかまりもない。あるのは、固く熱い信頼の絆のみである。

「これを言うと、泣けちゃうんだけど、ちょっと我慢して言いますよ」

「はい、はい」と静かに頷く中村氏。そこには、なにものも受け入れる河口の大海のような穏やかさとやさしさがあった。清水氏は、母なる海に語るように、ありし日の息子との対話を想い起こす。それは、氏の人生にとって、いかなる金剛石より光り輝く時であったろう。

「そしたら、その時に「いい、この名前でいいんだ」と言って死んでいってるわけですよ。僕の長男は。だから、僕にとってそれは非常に重要な問題であって、その時に最後に僕の息子が残した言葉っていうのは、「何か欲しい」と言ったんですね。「何か欲しい」。…いったい「何が欲しいんだ」というのが僕の一生の課題ですね」

 ドストエフスキーを論じ続けることと息子からの課題。このふたつが遺伝子のように清水氏のなかで絡み合っている。氏という物体を構成している。氏の言葉にそれを感じた。そして、その感動の深さに思わず鳥肌が立った。
 中村氏も同じ思いだったのかも知れない。

「うん、考え方が。うまく言えないんだけど。それで何ていうのかな、フラメンコ舞踏家のわりさやウラさんという僕にとって大切な女性が、二年前に亡くなった。これはね、低周波振動っていうのかな、地の底から、いや内臓の奥の奥からその言い知れぬ波動があがってくるんだな…」

と、答えてから、突然、こんな心情を吐露しはじめた。

「つまり、変な言い方だけど痛みですよ。母親が死んでも、父親が死んでも、全然何も感じなかったの。何て言うかな、両親に対して鈍感なんじゃないんだよ。ただ二人は僕を守ってくれてるみたいな。両親のことを大事に、感謝してることは確かだけど、夢の中でも一度として何かキツイこと言われたことがない。今でも毎日、小さな仏壇だけどね、母には水をあげてるけど、墓参りはどこか儀礼に終わっている。なぜなら、毎日母のことを考えているから。全然心の痛みっていうのはないんですよ。ただね、「中村さん、なんで生きてんの」って…

突然の告白に清水氏は、とまどいながら問う。「ウラさんが…」

「いやいや、ある恩義のある人だよ。ウラさんの死と、無言のまま夢に出てくるウラさんに感じる痛みと、あの恩ある人の一言が僕の心に触れた不思議な疑問。… 変だな。ウラさんは僕より先に死んじゃダメだよ。変だな、痛い。そんなことをくりかえしていて、ふと思ったのはね、僕には年子の弟でエイジ君ていうのがいてさ。」

中村氏は、構わずに話した。

「エイジ君」

中村氏が、はじめて口にした名前。氏の弟だという。
驚く清水氏を尻目に対談は、一気に中盤のヤマ場を迎えた。母親が死んでも、父親が死んでも全然何も感じなかった中村氏の精神の秘密。それは、一歳で亡くなった年子の弟「エイジ」君の存在にあった。
身近な愛する者の死。それを体験した両者。ドストエフスキー体験の謎の真相が、いき
なりぐっと近づいた。すぐそこに見えてきた。そんな気がしてきた。
 たくさんの問題提起、分析、指摘。そして告白。語られた多くの真理。それら一つ一つを提示し今一度考察もしたい。が、そうもゆかない。感想と称した駄文拙文は、このあたりで終わりにしたい。最後になるが、多くの会話のなかで、グサっと胸に突き刺さったのは、対談を締めた中村氏のこの言葉だった。

「母親は、ぼくの文学の原点で、清水さんは母親が師であるというか、非常に共感しますよね、僕のなかではね。」

 母親が文学の原点であり、師でもある――この言葉に、筆者も共感する。私の母は、三十六年前に亡くなった。亨年六十七歳だった。私も、もうすぐその歳になる。歳月は経ったが、母とのことは、昨日のことのように思いだせる。母には五人の子どもがいた。文学の友は私一人だった。辛く厳しい百姓仕事のなかで楽しみは母と文学の話だった。都会にでてからも母とは手紙で繋がっていた。その母が癌になった。私は、躊躇なく会社を辞して母の介護に向かった。母と過ごした一夏の病室。眼下にひろがる城下町、彼方に連なる北アルプスの峰々。いま思うと、あの日々が私の文学の出発点だった。そんな気がする。いま、こうして書いているのも、文学をつづけて来れたのも、母と過ごしたあの日があったからである。その意味で母は、文字通り私の文学の原点といえる。

 森羅万象を語る。まるでそう錯覚させるような豊饒な対談だった。いろんな発言があった。その一つ一つを列挙したいが、百聞は一見に如かず。ヘタな感想よりも対談全文を、みてもらった方が、わかるというもの。この対談を、多くのドストエフスキー体験者に、そしてまだ体験のない人たちにぜひおすすめしたい。
 最後になりますが中村文昭氏・清水正氏、お疲れ様でした。改めて、心に残る対談、ありがとうございました。