柏の「日本海」でホッピーを飲みながら三島由紀夫の「美について」を読む

柏の「日本海」でホッピーを飲みながら三島由紀夫の「美について」を読む。太平書林のゾッキ本コーナーにおいてあった新潮社「三島由紀夫選集」の第五巻「魔群の通過」に収められている。タイトルの〈魔群の通過〉とはおそれいった。目次をみると、このタイトルの作品があった。後で読んでみようか。さて、私は三島の愛読者ではないが、まったく関心がないわけではない。韓国に留学した際に「仮面の告白」について書き、日本に帰って完成し『三島由紀夫・文学と事件―予言書『仮面の告白』を読む』(2005年9月 D文学研究会)という本まで刊行した。三島はおそらくドストエフスキーの愛読者ではない。『罪と罰』も本当に最後まで読んだのか疑問に思っている。
そんな三島が「美について」でドストエフスキーにも触れていたので引用してみよう。



 ーードストエフスキーにあつては、美は人間存在の避くべからざる存在形式であり、存在形式それ自体が謎なのであり、これが彼の神学の酵母となつてゐる。なぜなら彼は美を神と対置させたり(ワイルド)対決させたり(ボオドレエル)する代りに、美の観念の次元を高め、人間存在の内に行はれる神と悪魔との争ひをも美といふ存在形式で包括したからである。

 ジッドはドストエフスキーの内部の複雑なアンタゴニズムを救つたのは、福音書の自己抛棄、自己犠牲の精神によるものと説く。この宗教的救済と美との関係の二重性は何であらうか? ドストエフスキーの美の観念には異教的色彩があり、神ならぬものに対する憧憬的な畏怖がある。人間性の深淵をうかがつた者の、救済をねがはぬ傲慢な肯定がある。美は彼にとつて救済の拒否を意味しなかつたか? たとへ一瞬でも。



 私が三島の文章を引用しようと思ったのは「美は彼にとつて救済の拒否を意味しなかつたか? たとへ一瞬でも。」が眼に焼き付いたからである。
 今度、『清水正ドストエフスキー論全集』の第七巻に『白痴』論を収めるつもりでいるのだが、殺される運命を生ききったナスターシャ・フィリッポヴナや、自殺する運命を生ききったアンナ・カレーニナのことなどを考えると、美と救済の問題は一筋縄ではいかない。美はやはり救済を拒んで破綻の途へと突き進むしかない。ムイシュキンの、ロゴージンの情熱(страсть)にもまさる憐憫の情(жалость)をもってしてもナスターシャを救済することはできなかった。ムイシュキンの哀れみの情は、ナスターシャの破綻を彼自身が白痴にもどることで共有するほかはなかった。美は畢竟、破綻へと飛び込むほかはないが、ロゴージンの情熱も、そしてムイシュキンの憐憫もそれを徹底すれば破綻に終わるのである。三島は三島なりに救済を拒否する〈美〉に突入したとは言えるだろう。が、ドストエフスキーの描いた美と、三島が生きた美とは性格を異にする。前者における、美の実存を生ききったナスターシャに三島における演技性はない。ナスターシャ・フィリッポヴナもアンナ・カレーニナも、神のもとに生きた人物であるが、三島の場合、彼を厳しく裁く神の存在はない。