清水正著『ドストエフスキー「白痴」の世界』(鳥影社)の紹介(1)


この本に収録された『白痴』論は1985年12月23日に書き始め1987年5月11日に書き終えた。すでに二十六、七年も過ぎた。『アンナ・カレーニナ』論を含め、刊行したのが1991年11月。先日久しぶりに読み返したが、今度『清水正ドストエフスキー論全集』第七巻に収録したいと考えている。

清水正著『ドストエフスキー「白痴」の世界』(鳥影社)から目次と一部分を何回かにわたって紹介する
目次

第Ⅰ部『白痴』の世界
『白痴へ向けて――純粋の結末――7
ムイシュキンは境(граница)を超えてやって来た 25
идиот・新しい物語 38
ホルバインのキリスト像をめぐって 55
復活したキリストの無力 76
ムイシュキンの魔 92
ナスターシャ・フィリポヴナの肖像 121
レーベジェフの肖像 159
トーツキイのプチジョー 171
ムイシュキンの多義性――異人論の地平から――177


第Ⅱ部『アンナ・カレーニナ』の世界アンナの跳躍と死をめぐって 197
  ――死と復活の秘儀――

第一章 美の宿命 197
第二章 宿命的な邂逅 200
第三章 偽善(ファリシーヴィ)と不幸 203
第四章 不吉な兆 205
第五章 二人だけの秘密・偶然の魔の神秘 207
第六章 アンナの内なる悪魔 213
第七章 不倫の契約と自己欺瞞 218
第八章 ラスコーリニコフのあれとアンナの跳躍 221
第九章 跳躍の軌跡・アンナとゴリャートキン 224
第十章 ある何ものかの意志・神の使者イスタプニーク
第十一章 死と復活の秘儀・アンナの“罪と罰” 242
第十二章 赤い手さげ袋(красный мешочек) 244
第十三章 ゴリャートキンの発狂とアンナの死・自由と復活 247
第十四章 ラスコーリニコフの踏み越え 250
第十五章 ラスコーリニコフの復活とアンナの死 250
第十六章 アンナの死とイッポリートの「死」 252
第十七章 もう一人のアンナ=ナスターシャ・フィリポヴナ 256
第十八章 神の使徒・ひげぼうぼうの百姓とムイシュキン公爵 257

残された者たち 259  ――復活を待つセリョージャ――

あとがき 271



第Ⅰ部 『白痴』の世界

『白痴』へ向けて――純粋の結末――

   (一)
 『罪と罰』の世界をめぐって丸三年半が過ぎ、漸く一段落をむかえた。まだ書き足りない部分はあるが、それはいずれまた試みる機会があるだろう。
 私の予定としては『罪と罰』論を書き終えたらただちに『カラマーゾフの兄弟』を読み返すつもりでいた。その理由は、私は毎日のようにドストエフスキーの作品を読んで暮らしておりながら、この作品を二十歳の時に二度ほど読んで以来、すでに十六年もの間読み返す機会がなかったからである。十六年間……毎日毎日ドストエフスキーの作品を読み続けながら、この最晩年の大作を読み返す機会がなかったことはわれながら感慨深くもあり、また年月の過つ速さにも驚く。順序からいえば当然、『罪と罰』の後は『白痴』、『悪霊』、『未成年』と続き、そして漸く『カラマーゾフの兄弟』である。だが、その順序通り読んでいくと『カラマーゾフの兄弟』をいつ読めるのか不安になってくる。
 尤も、十六年間、『カラマーゾフの兄弟』を読まなかったとはいえ、最初に読んだ時の強烈な印象を忘れることはなかった。当時、私にとって一番身近かな存在は次男イヴァン・カラマーゾフであったが、この事だけは今も変わらないような気がする。イヴァンが提起した問題、「神がなければすべてが許されている」及び最終的結論「あるがままの事実を認める他はない」を、私は依然として超脱してはいない。特に後者に関しては、私はイヴァンと同じ考えであるといってもよい。イヴァンが世界の不条理を前にして言い放ったこの言葉を、私は十六年後の今日においても、そのまま認めざるを得ない。ただ、前者の問題「神がなければ……」に関しては、今後、徹底した検証をせまられるだろう。人の世の規範を根底的な所で絶対的に根拠づけるのが“神”であるとすれば、規範を求め、あるいは規範に基づいて生きようとする者にとっては“神”はなければならないであろう。そしてこの“神”がもし存在しないとすれば、人の世の規範は、絶対を装っただけの相対的な規範に過ぎないであろう。相対的な規範に過ぎなければ、それは絶対的な拘束力を人に及ぼすことはできまい。普通、世間を渡り歩いている人々の多くは、それでもって「神がなければすべてが許されている」などと公言はしないし、それに基づいて行動を開始したりもしない。仮にイヴァンの理屈を認めても、それはあくまでも理屈の次元の話であって、彼の手先になって動き回ったりはしない。尤もこれは当たりまえの話である。「すべてが許されている」ということは「何をしてもいい」ということであり、これは結局「何もしない」ということに落ち着く。だからこそイヴァンは鋭利な理論家ではあったが行動家になることはできなかった。スメルジャコフがイヴァンから聴きとる言葉は「すべてが許されている」ではなく「父親のフョードルを殺してもいい」である。
 人間を行動に駆り立てる言葉は一義的明晰さを保持していなければならない。極端な言い方をすれば、言葉が二義性を持ってしまったとき、もはやその言葉は人を行動に駆り立てる魔力を失っている。従って人を行動に駆り立てようとする者は、自らの言葉に強大な一義性のみを賦与し、それを保持し続けなければなるまい。しかしそれでもって人が動くためには、動く人間の裡にその一義的な意味を荷なった言葉(それは命令であったり、ささやきであったりする訳だが)に呼応する要素がひそんでいなければならない。これをイヴァンとスメルジャコフに適用すれば、スメルジャコフの裡に父親殺しの願望が潜んでいたということである。もしそうでなければ、つまりスメルジャコフがカラマーゾフ家での下男であることに充足する男であったのならば、イヴァンの理念はやはり、単なる暇なお坊っちゃまの屁理屈として頭の上を通り過ぎていったに違いない。
 『罪と罰』の居酒屋で交わされた学生と若い将校との話(老婆殺害の理論)を想起すれば事は一層明瞭となる。この学生と将校にとって理論は暇つぶしのための酒のさかなに過ぎない。例えその理論が“合理的”ではあっても、彼らはその“合理”に呼応する内的要素を欠いている。ところがたまたまその話の場に居合わせた一人の青年ラスコーリニコフは、その“合理”を認める前に、“老婆殺し”の方に敏感に呼応する。“合理”は“殺し”の言い訳に巧みに利用されただけであるが、当の殺人者はその己れの心の詐術に執拗に盲目である。(ラスコーリニコフは理念と行動を「イヴァン」と「スメルジャコフ」に分離独立することができなかった分だけ、より混沌とした内部世界を生きざるを得なかった。彼の踏み越えは最終的には自らの“復活”を意味しており、その“背理的踏み越え”はいかなる“合理”によっても説明され得るはずはなかった。)

   (二)
 今、私の正直な感想を言えば、ラスコーリニコフポルフィーリイに自ら語ったように、神を信じていたのだと思う。ただし彼は何故神を信じているのか人に説明することはできないだろう。“信じる”ことは論理的理性的次元で説明できるものではない。彼がまだ大学に通って勉強に励んでいた頃、貧しい学友を援助したり、吾身の危険をも省みず火事場から子供たちを救い出したことがエピローグにおいて記されている。それをそのまま信ずれば、ラスコーリニコフは首都ペテルブルクに上京したての頃は、素朴な、純潔な、信仰者であったといってもよいのだと思う。“信仰”は意識的次元でとらえ返される時が最も危険である。そしてわれわれが『罪と罰』本編で見たように、ラスコーリニコフの裡にもその危険が訪れる。彼の地道な努力は田舎に残った母と妹の苦労に報いることができない、それを覚ったときに彼は大学をやめてしまう。彼が母の期待に応えるためには、地道に一歩一歩けわしい出世の階段を昇っていたのでは間に合わない、一挙に踏み越えることによって一身上作らなければならない。そして彼は、そのことが彼の生きている世界から自分を切り離してしまうということも知っていた。彼は痛いほど、苦しいほど母と妹の自分に向けられた愛を知っていた。だからこそ彼は彼らとの関係をいっぺんに断ち切る踏み越えを行なった。愛する肉親の過剰な期待に応えることのできない一人の青年は、その愛ゆえに、愛を断ち切る行動をおこさなければならなかったのである。彼が復活するのは、作者の願望にすぎないとしても、彼が人を愛することのできる、純潔な青年であったからこそ踏み越えの誘惑に陥ったことだけは信じてもいいだろう。彼自身が言うように、もし誰も彼を愛さなかったら、この悲劇は絶対におこらなかったはずである。またたとえラスコーリニコフが首都で浮浪者のような生活をしていても、それを許容するような母であり妹であれば、やはりこの踏み越えのドラマは幕を開けることがなかったであろう。
 ペンキ職人ミコライが首都に出かせぎに来る。たまたまラスコーリニコフの落とした盗品をひろう。ミコライはそれを金にかえて酒を飲む。だがこのミコライが分離派の一宗派逃亡派に関係していた青年であったことが後に判明する。つまり田舎にいた頃は敬虔な信仰者も、首都ペテルブルクに来て人生を狂わせる。モダンな種々の絵入り雑誌、路地裏の娼婦、酒……いやが上にも都市は一人のうぶな青年をかどわかす。だからわれわれは物語の中で描かれなかったラスコーリニコフの都市生活の細部に想像力を働かせてみればよい。彼は下宿の主婦に百五十ルーブリの借金があり、母からは一年前に六十ルーブリ、四カ月前に十五ルーブリ、そして物語の〈七日目〉に三十五ルーブリを送金してもらっている。ところで母の収入といえば借金を差し引いた年金百二十ルーブリと内職代が一年に二十ルーブリだけである。それに妹ドゥーニャの一年間の家庭教師代二百ルーブリを加えても、いかに母妹が貧しいぎりぎりの生活の中から仕送りしていたかがわかろう。それではラスコーリニコフはその金をどのように使っていたのであろうか。エピローグに記されていたように“善行”のみに使っていたのであろうか。ミコライを襲った種々の誘惑がラスコーリニコフに無関係であったはずはなかろう。本編を注意深く読んでみれば明らかなように、彼は娼婦のたむろする路地裏に何度も足を運んでいる。二十三歳の青年が童貞であったとは思えないから、そのうちの何度かは娼婦と関係があったとみる方が自然であろう。つまり彼は首都ペテルブルクの空気にいろいろな意味で染まっていったのであり、その過程の中で自らの“素朴な信仰”が意識の次元でとらえ返されたはずである。信仰のかわりに西欧的理性が働けば、ことは簡単に分類できる。田舎には貧しいが息子思いの心やさしい母親がいる。ところでこの母親は日夜の内職仕事で身心をすりへらしながら、一家の柱であり杖である孝行息子が一日も早く出世して、首都ペテルブルクに呼んでくれるのを夢見ている。ところがその息子は十年先二十年先の自分のしっかりした生活を想像することもできない。非力でせっかちな青年の脳裡をかすめていくのは「一つの死が百の生にかわる」といった月並みな、それでいて魅惑的な議論である。そうだ、あの高利貸しのしらみのようなごうつく婆あを殺しても何の罪悪でもない、かえって世のため人のためだ。彼の人類二分法(凡人と非凡人)も、人の善悪二分法も実に単純で、彼は決してその単純を疑うことはない。彼が不断に疑ったのは自分の行動に関してだけである。醜悪卑劣な妄想、玩具のための玩具と自嘲しながらも、彼は先の二分法そのものの事実性に対しては揺るぎなく確信している。彼は何を根拠に老婆アリョーナを“悪”と判断し、自分の母と妹を“善”と判断するのか。いったい二十三年間親の脛を噛って生きてきた青年に、人生の辛酸をなめつくしてきた一人の老女を判断する資格があるのか。アリョーナを“悪”と判断する単純な論理でいけば、二人の女性を殺害した青年は“極悪”であろう。つまり彼は知らぬ間に、自らが最も嫌う合理的、功利的思想におかされているのだ。彼は二×二=四式の算術で人類を分け、人の善し悪しを判断しているのである。
 この二×二=四式の功利的精神、実際的精神で首都ペテルブルクに伸してきたのがルージンである。マルファの遺言でドゥーニャの手に入ることになった三千ルーブリのうち、千ルーブリを早速、自分の企画する出版社に出資金にしてくれと頼むラズミーヒンにいわせれば、この実際的精神とやらは「そうやすやすと得られやしない」そうで、事は全くラズミーヒンの言説通りであった。ルージンは美しき処女の花嫁をむかえることができなかったし、ラスコーリニコフも人類の利益になる事業をおこす前に、自身の老婆アリョーナ以上のしらみであることを自覚せざるを得なかった。二人の女性の殺害者の妹と結婚することになったラズミーヒンは、それでも“出版事業”を押しすすめるのであろうか。敏腕な事業家ルージンを前にして「実際的精神は依然としてありません」と断言したこの言葉は、それを発したラズミーヒンその人にこそはねかえってきたはずである。
 ペンキ職人ミコライとミトレイ、そして老婆アリョーナの住むアパートの前で居酒屋を営んでいたドゥーシキン、彼らはラスコーリニコフと同じリャザン県ザライスク生まれの百姓であった。このうち首都で成功したのはドゥーシキンのみである。彼は小者であるが、それなりに彼流の“実際的精神”を充分に発揮して、同郷人であろうが何であろうが、利用できるものは何でも利用して小金をためこんでいる。ラスコーリニコフの犯行直後、老婆宅を訪ねてくるコッホ、彼もまた高利貸し老婆と商取引きをしている男である。まだいる、七等官チェバーロフだ、彼はラスコーリニコフの百五十ルーブリの借用証書を、だた同然で下宿の主婦から手に入れる手腕を持った男である。(彼は下宿の主婦プラスコーヴィヤの情夫でもあったらしい)。
 「一八六四年……ドストエフスキーはペテルブルクのあらゆる種類あらゆる階層の高利貸しやアパートの管理人や事業家と絶えず余儀なく交渉をもちつづけた」この文章はドストエフスキー研究家で有名なレオニード・グロスマンの手による。私がここでグロスマンの言葉を引用するのは、ドストエフスキーが『罪と罰』執筆時にどんな職種の人達と交渉を持ったかを知ることではない。私がここで注目したいのは当時ペテルブルクにおいて様々な階層の様々な“実際的精神”の持ち主が数多く存在していたという、その紛れもない事実である。夫を若くしてなくしたアリョーナが、一人ペテルブルク(腹ちがいの妹リザヴェータがいたにせよ)で生きていくために高利貸しをはじめたとて誰が責めることができよう。彼女の用心深さ、人を信用しない臆病な態度、それを彼女一人のせいにする訳にはいくまい。それはゴリャートキンの狂気を、プロハルチンの吝嗇を誰も責めることができないことと同じである。それはピョートル大帝の造りあげた人工都市で生きるすべてに襲いかかってくる根底的な不安がそうさせるのである。
 『罪と罰』を読んで「都市における健全さ」を考えてみても、どうもしっくりしたイメージを結ぶことができない。酔漢マルメラードフ、娼婦ソーニャ、狂気の純潔者カチェリーナ、殺人者ラスコーリニコフ……これらから固有名詞をとり除いてみれば、酔漢、娼婦、狂人、殺人者である。これら物語で主役をはっている人物の周辺を眺めてみても“健全”といえるのはラズミーヒンや医師ゾシーモフぐらいである。尤も、『罪と罰』の世界で“健全”な人物と見做されるぐらいなさけないこともなかろう。彼らは首都ペテルブルクにただよう悪しき空気を呼吸しながらそれによる症状が顕在化しないだけの精神的麻痺者である。
 ペテルブルクで生活している多くの人間が、その所属する階層と能力に応じて実際的精神を発揮していたのだとすれば、ラスコーリニコフもまた知らず知らずのうちにそういった空気に感染し、まさに法科の学生に相応しい犯罪理論を考え出しても一行に不思議ではない。ただし、彼が自分の理論(空想のための空想)を婚約者のナタリヤに熱っぽく語ったのは、自らの理論の不当を彼女によって指摘されたいがためである。もちろんナタリヤは思弁によってラスコーリニコフの理論を反駁できるわけではない。ナタリヤは自分の存在を賭してラスコーリニコフの理論の不当を証す他はない。彼女は尼寺に行きたいと望み、最後には病(チフス)で命をおとしてしまう。彼女の病は単なる肉体の病ではない。彼女の病はラスコーリニコフによってひきおこされたものだ。われわれはエピローグにおける「理性と意志を賦与された精霊」すなわち人類を破滅に導く微生物・旋毛虫(трихина)を想い出したらいいのだ。ラスコーリニコフの理論はこの旋毛虫によって構築されたものである。つまりラスコーリニコフからナタリヤに感染したのはこの旋毛虫である。前者はそれによって生きようとした、が後者はそれによって死んだのである。その意味でラスコーリニコフは単に二人の女性の殺害者であるばかりでなく、婚約者ナタリヤを殺した張本人でもあった。
 ナタリヤの死後一年してラスコーリニコフはソーニャと運命的な出会いをすることになる。ラスコーリニコフが酔漢マルメラードフの口を通してソーニャの存在を知ったとき、すでにこのときラスコーリニコフは踏み越え(殺人)の告白をソーニャにしようと決めている。踏み越え前であるにも拘らず、ラスコーリニコフは告白の相手にソーニャを選んでいるのである。
 ソーニャ――酔っ払いの父親と気の狂いかけた継母とその幼い子供たちのために、吾身を犠牲にした女……ソーニャはナタリヤの生まれ変わりである。一度死んだナタリヤがソーニャとなって殺人者ラスコーリニコフの前に現われる。踏み越えの理論を聴き続けたナタリヤは自らの命をおとすことによって、ラスコーリニコフに根底的な反省をうながしていたはずである。だがすでにラスコーリニコフは“信仰”のかわりに“理性と意志”の力を信じていた。西欧的論理的思考が受け入れられるのは理性と意志の力であり、真理の外にあるキリストを信ずることではない。はたしてそうか、彼は本当にキリストのかわりに理性と意志の王国を信じたか。まさか、まさかである。もし彼が理性と意志の王国を信じていたなら、彼の苦悩は存在しまい。何故彼は自分の考えを聴いてくれるナタリヤを必要としたか。まさか彼の理性と意志がナタリヤを必要とした訳ではあるまい。彼はナタリヤに何を求めていたのか。ナタリヤは彼の妹ドゥーニャと違って美貌の持主ではない。彼女はむしろ醜女であった。ラスコーリニコフは彼女に外形的な美など微じんも求めていない。その点に関しては彼は徹底している。ナタリヤは女性としての肉体を備えていなくてもよい、否、かえってその方がよいのだとラスコーリニコフは考える。ここには単にラスコーリニコフ個人の問題を超えて、ドストエフスキーの主要人物に共通した傾向性を指摘できよう。肉体的に男の機能をはたせないムイシュキン公爵がナスターシャに結婚を申し込んだり、スタヴローギンがびっこで半気狂いのマリヤを正妻にしたり、フョードル・カラマーゾフが誰も相手にしない醜い乞食女に子供をうませたりすることがそれである。
 とにかくラスコーリニコフがナタリヤに求めたことは肉体ではなく魂の次元のことである。結果としてナタリヤはラスコーリニコフの踏み越え(犯罪)をとどめることも、その理論の不当を指摘することもできないまま死んでいった。ラスコーリニコフにとってナタリヤの死は解くことのできぬ大きな謎であったはずだ。余りにも深く、手に負えぬ謎であるからこそ、彼はナタリヤの死を〈チフス〉の一言で片付けなければならなかった。物語のどの頁を開いても、ラスコーリニコフがナタリヤの“死”について考えている箇所はない。彼は自分で解答の出せる諸問題については多言を費して思考する青年であるが、解答不能の問題を前にすると、その“沈黙”の重さと持続に耐え切れず、すぐに安易な考え慣れた二分法の議論に逃げ込んでいく、逃げても逃げても、逃げきれぬのが夢の世界であるが、彼の不気味な夢の世界に登場するのは不死身の老婆アリョーナではあっても、リザヴェータやナタリヤは決してその姿を現わさない。
 殺される老婆アリョーナ、殺されても生き続ける老婆アリョーナ、これはラスコーリニコフの論理的次元で解決のつく問題だ。解決のつかぬ、説明しようのないのは、ナタリヤの“死”であり、リザヴェータやソーニャの“信仰”である。何故、忍従できるのか、何故、不平不満を言わず従順に、与えられたままの運命を受け入れているのか、何故何にもしてくれない神を信ずるのか。ラスコーリニコフはあるがままのソーニャを受けいれる前に、何度も問いを発せざるを得ない。何故なら彼はソーニャの義母カチェリーナと同じように、すべての人間が幸福と平和のうちに生存しているのでなければ神の存在を認めることができないからである。
 ラスコーリニコフやカチェリーナにとって神は何よりもまず絶対正義、絶対善の地上的顕現でなければならない。ところが現実の世界はどうか。我利我利猛者のルージンが幅をきかせる世界にあって、心優しい自己犠牲の精神にとんだソーニャは娼婦として街角に立っていなければならないではないか。現実がこのあり様である限り、神など存在する訳がない、存在しないのであればすべては許されているはずだ。なるほどラスコーリニコフの早急な頭脳は世界の不条理を前にして一つの結論を得た。こちらにも異論はない。ただしラスコーリニコフは「すべてが許されている」から殺人という踏み越えを正当化したのではない。現に「すべてが許されている」ことを知っているポルフィーリイは踏み越えのドラマを通り越して「おしまいになってしまった」人間を生きている(死んでいる)。「すべてが許されている」からスヴィドリガイロフはマルファと一緒に退屈な七年間を田舎で過している。要するに「すべてが許されている」ことを知ってはいても、それでもって何でもかでも行動可能だというわけではない。むしろ「すべてが許されている」ことは人を無為の生存領域にとどまらせる。
 ラスコーリニコフは肉親から過剰な期待を寄せられた貧乏な元学生であり、「すべてが許されている」といったある意味では余裕綽々の倦怠の精神領域にたたずんでいられる青年ではなかった。彼が犯罪に関する論文で言及した「良心に照らして血を流すことを許す」といった非凡人の理論と「すべてが許されている」の間には物理的尺度では測り知れぬ距離がある。彼は殺人を犯す前に「犯罪に関する論文」を執筆し、殺人を犯した後で「すべてが許されている」ことを覚り、そしてエピローグでは「復活の曙光に輝く」男である。彼はペテルブルクの通りを飽くことなく歩き回った夢想する散策者であるが、彼の内部世界に照明をあててみれば、彼は一歩一歩を論理的に歩行していくタイプではない。彼は要所要所で飛ぶ男である。

 (三)
 ドストエフスキーは同じテーマを何度も執拗にとりあげ、それを深めていくタイプの作家である。ラスコーリニコフが復活の曙光に輝いた後で、ムイシュキン公爵が登場してくるのを誰も不思議に思う者はいない。それならそれで、ムイシュキンは二人の女を殺したことのある男だと指摘するぐらいの読者がいてもおかしくはなかろうが、そういった指摘に出合うことはない。何故ムイシュキンは「白痴」なのか。殺人者(ラスコーリニコフ)と、娼婦(ソーニャ)と、おしまいになってしまった男(ポルフィーリイ)と、どこかへと消えてしまった幽霊(スヴィドリガイロフ)たちとの織りなすドラマの後に、われわれが見せられるのは“白痴”なのである。ドストエフスキーが描きたかったのは“美しい人間”であって“白痴”ではなかろう。しかし“美しい人間”は“白痴”としてでなければ現実の舞台に出場することができない、この確信に基づいてムイシュキンはわれわれの眼前に現われる。スヴィドリガイロフは不気味さを漂わせた幽霊(привидение)であったが、ムイシュキンとて幽霊であることに間違いない。スイスの山奥からペテルブルクにやってきたこの男は、実はこの世に存在しない天使であり、この男の正体を看破したロゴージンは殺人者に、そしてナスターシャ・フィリポヴナは殺されるより他の運命をえらびとることができなかった。天使が現実の地獄ペテルブルクに舞いおりて巡礼を開始すれば、心ある者すべての胸に嵐が巻きおこる。天使は二つの天駆ける翼のかわりに一つの布袋を下げて舞い降りた。彼は“天使”ではなく一人の“白痴”として現実を生きはじめる。
 ところでドストエフスキーは白痴の天使ムイシュキンがスタヴローギンに脱皮していく場面を明瞭に予知していたはずである。ドミートリイの言いぐさではないが“美”とは実におそろしきものなのである。真っ白が真っ白であるということは表裏一体の背後に真っ黒が存在していなければならない。ムイシュキンがムイシュキンであるためには情欲の虜になったロゴージンが存在しなければならないし、ナスターシャの狂気の純潔はトーツキイやエパンチン将軍らが織りなした豪奢な絨毯の上でしか輝きを増さない。一つの“絶対”は相対的な現実の世界に舞い降りてこそ“絶対”である。“美”も“白痴”も、この“絶対”と同じである。ドストエフスキーがムイシュキンにおいて目ざしたのは相対的な美や白痴ではない。換言すればムイシュキンは相対的な内的磁場で自らが生きることを封じられている。彼の心情、彼の発する言葉は不断に一義的絶対的肯定性を帯びていなければならない。こういった人間はふつう現実の世界を生きていくことができない。美しい人間は夭折するのである。
 生きるとは、生き続けるとは屈辱恥辱の泥水を精神にあびるということである。泥水をあびつつ自らの純潔を保とうとするとき、そこに一人の道化が誕生する。ムイシュキンは一人の道化としてペテルブルクにやってきたのではない。彼は作者によって道化を封じられている。道化はめまぐるしいほど相対的磁場を駆け回る、つまり不断に気をきかしへりくだりながら相手を笑いの渦中にひきずりこむ内的作業に従事しなければならないが、ムイシュキンはただただすべてを赦すことのできる“白痴”でありさえすればよい。
 尤も、ムイシュキンの“白痴”は二重の意味を帯びている。彼は世間の泥沼を生きる人間からみれば純粋で一滴の泥水さえあびたことがないように見える。彼が生きてあるあり様自体が、世間の眼からは“白痴”に見える。彼の美しい心が、思いやりの情が、恐ろしいほど悲惨な狂気の美(ナスターシャ)に誰よりも敏感に反応する感受性が、世間の眼には“白痴”に見える。“白痴”と命名せずには彼を自らの住む社会に許容することができないのである。彼は自らの心に素直に反応しているだけなのに、それは世間の眼に常に過剰として映る。自己の感性にかさぶたをつけ重ねることで世を渡って来た生活人は、ムイシュキンの“純粋”に幼い頃の郷愁を感じはするが、決して自己の生活人としての確信を捨て去ったりはしない。自らの確信を捨てることよりは、ムイシュキンを“白痴”と命名することによって特別視(疎外)することの容易さに身をまかせる。ムイシュキンの“純潔”さは自己自身と、その“純粋”さに深く感応する者にとっては危険であり、物語の結果はまさにそのことを証している。ナスターシャも、ロゴージンも、ムイシュキンの“純粋”と“危険”をそれと知りつつ生きつくしたのである。そしてそのことを世間の人たちもまた予め知っていた。ムイシュキンは世間という泥沼の相対世界で“純粋”の絶対性を生きたが、その絶対性はいつの世でも“白痴”という命名を甘受することによってしかそのつかの間の生存を許されないのである。まずはこういった意味でムイシュキンは“白痴”であった訳だが、さらに彼は“白痴”としての生に挫折した男として、最終的に“白痴”になってしまった男である。ムイシュキンという一人の男を理解しようとするとき、最も恐ろしい事実が、この最終的な“白痴”に秘められていよう。彼は一切の人間的感覚を喪失したひとりの痴呆にすぎず、そしてシュネイデル療養所の所長の見解によれば二度と再び回復する見込みのない“白痴”、生きる屍と化してしまったのである。
 この物語は今まで実に多くの批評家達によってありきたりの解釈をほどこされてきた。彼らは物語を読む前に、この物語に関する作者の“意図”をうのみにしすぎたのである。ムイシュキンが十九世紀中葉のペテルブルクに現出してきた「キリスト」であり、「ドン・キホーテ」であることを誰も否定しはしまいが、しかし彼は、何よりもまず“純粋”を生きた(演じた)一人の“白痴”であったことを忘れてはなるまい。ムイシュキンの“純粋”が、ナスターシャとロゴージンの“純粋”に強力に作用し、“純粋”自身の宿命を生きつくしたのだ。疑問に思う者は逆のことを考えればよい。もしナスターシャが“純粋”にではなく、“不純”に、“汚れ”に没して、自己の心を偽って生き続けるならば、彼女はロゴージンの“純粋”な刃に倒れるかわりに、トーツキイの情婦として、あるいはエパンチン将軍の愛人として、あるいはガヴリーラとの結婚生活に甘んじていたことであろう。生き延びるために、ただそのためだけにどれだけ多くの者が、自己欺瞞という悪魔の誘しにのったことであろうか。この世における道化とは、その自己欺瞞の一点を凝視し続ける者である。その一点を不断に反復し、だが決してその一点を超脱しない者である。
 ナスターシャは自己を欺瞞しては一瞬もその生に耐えることのできない女性であった。だが彼女は自分自身であろうとすればするほど“トーツキイ”に対する復讐心や憎悪や敵意をいたずらに増長させるだけであった。彼女が求めたのはもはや絶対にとり戻すことのできない自らの“生”であった。その“生”自体がはらむ悲しさを、ムイシュキンは“美”として感応した。ムイシュキンはどうにでも解釈できる二つの尻尾を持った心理的次元でナスターシャに対したのではない。彼は率直に即時にナスターシャの“生”に感動し心を奪われたのである。この圧倒的な感覚の後に続く百万の言葉もそれを説明しつくすことはできない。ナスターシャの悲劇はムイシュキンに自らの“生”を受感された時に始まる。ナスターシャはその“生”がもはやとり返しのきかないことを知っており、従ってムイシュキンと共にその“生”を生きることができないことを充分に自覚していた。にも拘らず、ナスターシャはその“生”と共に生きる伴侶を夢見続けてきたのである。彼女の前にムイシュキンが現出してきたこと、それは彼女にとって紛うことなき一大奇跡である。彼女は奇跡を信じた。だがその奇跡と共に生きる途は塞がれていた。ナスターシャの前にムイシュキンが立ち現われなければ、彼女は“狂人”としても生きていけた女性である。
 ムイシュキンはナスターシャの“生”に深く感応し、そして同時にその“生”を窒息死させる。ムイシュキンはナスターシャにたった一つの生きる途も用意することはできない。彼は翼をたたんだ天使としてペテルブルクを歩き回ったが、彼が原因で生起した事件は限りなく悪魔の術に近い。ムイシュキンは天使として饒舌をふるうが、この純粋で無垢なおしゃべりそのものに“悪魔”は姿を隠して密んでいる。ここにムイシュキンの“純粋”さが持つ危険がある。換言すれば彼の“純粋”さは常に怪しげな臭いを漂わせている。彼は自分自身の心の世界から完璧に悪魔を追放したが、その自らの心の働き自体をも忘れることで“天使”ともなり“白痴”ともなった。しかし人間として生きる者の誰が自らの心の世界から“悪魔”を追放することに成功するだろうか。心自体を消滅させるのでなければそれに成功しはしない。ムイシュキンの最終的な“白痴”はそのことを見事に証明していよう。ムイシュキンは自分の心から悪魔を追放した分だけ、悪魔の反撃を避けることができなかった。彼の“追放した分”は彼を“白痴”に追いやるほど強かった。ムイシュキンにキリストが具現されていると見る者は、キリストに誰よりも強力な、“悪魔”が同居していたことを指摘せねばなるまい。
 ムイシュキンと出会うことによって、あらゆる生き続ける途を閉ざされたナスターシャは、最終的に刃を振りおろすロゴージンの元に走る。彼女は自分の死に場所をこころえていた。否、ナスターシャだけではない。ロゴージンも、そしてムイシュキンも知っていた。彼ら三人は自分たちの“純粋”がどのような結末を迎えるか、三者三様の役割をも含めて予め知っていた。

   (四)
 『罪と罰』で復活の曙光に輝いたラスコーリニコフを描いたドストエフスキーは、次作『白痴』で“白痴”にならざるを得なかったムイシュキンを描いた。ドストエフスキーはこの主人公の結末において“しんじつ美しい人間”の形象に失敗したのか。それとも、ドストエフスキーは“しんじつ美しい人間”の不可避の結末を描いたのか。『白痴』本篇の最終場面が戦慄的であるのは、“しんじつ美しい人間”云々ではなく、赤裸々に一人の青年が浮き彫りされているからではないのか。ムイシュキンとロゴージンはそれ以外にはあり得ない自らの運命を生ききった。それを作者は描いただけだ。尤も、作者は最終場面に漂う異常な緊張感を出すために、重要な場面のほとんどすべてを削除している。読者はロゴージンとナスターシャの濡れ場と殺しの場、その両方ともに目を覆われている。人間の精神の細部に異常なほどこだわったドストエフスキーが、こと濡れ場に関しては一切触れようとしない。ソーニャの娼婦生活の細部が一切描かれなかったように、ナスターシャとロゴージンの性生活は闇の中に置き去りにされたままである。
 『罪と罰』は主人公の殺人前、殺人、殺人後の物語であるが、描写の大半は殺人後から自首に到るまでのプロセスに費されている。『白痴』はロゴージンとムイシュキンの出会いから、ナスターシャの殺害に到る物語である。作者ドストエフスキーは殺人者ラスコーリニコフに復活の曙光を輝かせたが、『白痴』ではロゴージンもムイシュキンもその光から見はなされたままである。特にムイシュキンの再発した“白痴”が不治であるということは絶望的な気分にさせられる。
 ナスターシャの死の床のかたわらで、ロゴージンとムイシュキンがとり交わす秘密めいた小声の会話、そして深く重い沈黙……この場面から“しんじつ美しい人間”ムイシュキンを感じる読者はいないだろう。一人の女が殺された、確かに死体はベッドの上に存在する。だがこの場面に悲惨さも残酷さも漂ってはいない。これは不思議なことか。否、このとき、ムイシュキンがナスターシャの“死”に何を感じていたかがわかれば、これは不思議でも何でもなかろう。ナスターシャの“死”はムイシュキンにとってエロチシズムの極そのものを示している。

彼は突ったったまま、一、二分のあいだじっと瞳をこらして見つめていた。その間、二人とも寝台のそばに立ちつくして、ひとことも口をきかなかった。公爵の心臓は激しく搏って、その鼓動は死のような部屋の沈黙の中で聞きとれるかと思われるばかりであった。だが、彼の眼はようやく闇になれて、寝台がすっかり見わけられるようになった。寝台の上には、誰かがまったく身動きもせずに眠っていた。かすかなきぬずれの音も、かすかな息づかいも、聞えなかった。眠れる人は頭からすっぽり白いシーツをかぶっていたが、その手足はなんだかぼんやりとしか見わけがつかなかった。ただ盛りあがっているところから、そこに人が手足を伸ばして横たわっている、ということだけがわかった。あたり一面乱雑に、寝台の上にも、足もとにも、寝台のすぐそばの肘掛椅子にも、床の上にまで、脱ぎすてられた衣裳が、豪華な白い絹の服や、花や、リボンなどが、ちらかっていた。枕もとの小さなテーブルには、はずしたまま投げだされたダイヤモンドが、きらきらと輝いていた。足もとには何かレースらしいものが、まるめられて捨ててあったが、その白く浮いて見えるレースの上には、シーツの下からのぞいたあらわな足の爪先が見えた。それはまるで大理石から刻まれたもののように思われ、恐ろしいほどじっと動かなかった。公爵は瞳をこらして見つめていたが、見つめれば見つめるほど、部屋の中がますます死んだようにいっそう静けさを増していくのを感じた。と、ふいに眼をさました一匹の蝿がぶんとうなって、寝台の上をさっと飛び過ぎると、そのまま枕もとのあたりで鳴りをひそめた。公爵はぎくりと身震いした。

 ムイシュキンは視る。見る。みる。今、ムイシュキンの眼前に存在する“世界”はただただ見詰められることだけを願っている。そこに開かれた、否、開かれつつ現象してくる“世界”は、物質(死)にまで昂められた“生命”の極を黙示しているかのようだ。
 ナスターシャがまだ生きてムイシュキンやロゴージンと話を交わし、肉を交わしていた時には、彼女は誰にも束縛されず、限りなく自由であった。ただし彼女が望んでいたのは“自由”ではない。彼女が望んでいたのはトーツキイやガヴリーラやロゴージンの女から解放されてムイシュキンの伴侶となることであった。もし彼女が“自由”に耐えられる、真の意味での新しい女性であったならば、彼女のヒステリーも怒りも憎悪も、そして彼女を死へと誘い込む悲劇も起こらなかったであろう。彼女は自由人としてムイシュキンの伴侶になることはできない。彼女は自らの身の汚れを知っており、ムイシュキンの伴侶となるには、二人の出会いが遅すぎたことを痛覚している。彼女は『罪と罰』のカチェリーナのように潔癖な性分で誇り高き女性である。もし彼女が自分の自由を安易に売りわたし、現世での安泰な生活を望むような女性であったなら何の問題もなかった。彼女は外貌の美しい、だがほとんど魅力のない平凡な一女性の生涯を全うしたであろう。
 ナスターシャは自分の魂を真に理解してくれる人間を求めながら、同時にそういった人間の現われに恐怖を抱いている。彼女の度を超した誇りも、憤怒も、その感情を支えているのは、自分の“美しい魂”を理解し受け入れる者はこの世のどこにも存在しないのだという絶望的な確信である。彼女はこの確信によってのみ誰をも恐れず、大胆奔放、常軌を逸した狂気的な言動をくりひろげる。だが彼女は自分のこの“確信”を不断に撤回したいと望んでいるからこそ、トーツキイやガヴリーラやエパンチン将軍に対して侮蔑的な態度を示さずにはおれない。そしてついに彼女の前に、彼女の望んでいたはずの“男性”が現われる。彼女はムイシュキンの無垢な魂に触れて、自分を理解してくれる、かつて夢にまでみた理想の人が現実に存在していたことを知る。そしてこの時、この瞬間にナスターシャは死んだ。彼女の奔放な狂気的な生を支えていた確信は、このとき瞬時のうちに瓦解した。彼女は今までの奔放な生の続行を封じられ、同時にムイシュキンとの新生活の展望を持つことも許されなかった。彼女に残された唯一の途は、自分の生存の閉幕を、自分の熱く激しい短かった生涯にふさわしく飾ることだけだった。
 ナスターシャは自分の死の瞬間のパートナーにロゴージンを選んだ。彼ら二人が“死”の瞬間に到るまで、どれほど激しく痛ましく求め合ったことか。それはムイシュキンの凝っと視る眼差しに映し出された嵐の後の光景にすべてが凝集されている。純粋無垢なムイシュキンの魂に全心を奪われたナスターシャ、そのことを誰よりもよく知っていたロゴージン。彼はムイシュキンを愛しながら、ムイシュキンに憎悪と殺意を感じるほど嫉妬に狂っていた。魂はムイシュキンにある、死を覚悟したナスターシャの肉体をロゴージンはどのように愛撫し、所有しようとしたのか。魂はムイシュキンにありながら、肉をロゴージンに捧げるナスターシャはどのように身をまかせたのか。描かれざるベッド・シーンを、想像力の限りをつくして視た後でなければ、ムイシュキンの眼差しに捉えられた光景(嵐の後の異様な静けさ)のエロチシズムを触感することはできまい。
 ムイシュキンの眼が視たナスターシャの肉体は「シーツの下からのぞいたあらわな足の爪先」だけである。おそらくムイシュキンの心の眼はシーツの下のナスターシャの全裸身を視ただろう。しかしシーツの下からはみだした「足の爪先」が、見えざるナスターシャの全裸身を、それがあるがまま以上の姿で浮き立たせる。この思いがけなく露呈してしまった「足の爪先」に、ナスターシャの、形而上学では把握し得ぬ女の業が現われていよう。
 ムイシュキンの心でロゴージンのように激しく女を抱くことはできまい。おそらくロゴージンは魂のないナスターシャの肉をかぎりなく所有することでムイシュキンに復讐をはたそうとしたことであろう。ロゴージンはナスターシャの魂がムイシュキンにあることを知っている。だが同時に彼は、ナスターシャの肉欲は自分に向けられていることを実際に知っている。性的不能者であるムイシュキンはナスターシャと魂の同伴者ではあっても、ロゴージンの役目を引き受けることはできない。さらにムイシュキンは実際的な性的不能者ではあっても彼の裡に性的要素が欠如しているわけではない。もしムイシュキンに性的要素が欠如していたなら、あるいは彼が性的次元を完全に超脱した人物であったなら、ロゴージンは彼を嫉妬することはなかったし、ナスターシャを殺すことによって所有しようとする無謀な行為に走ることもなかったはずである。
(1985・12・23〜1986・1・10)