清水正著『ドストエフスキー「白痴」の世界』(鳥影社)の紹介(2)


この本に収録された『白痴』論は1985年12月23日に書き始め1987年5月11日に書き終えた。すでに二十六、七年も過ぎた。『アンナ・カレーニナ』論を含め、刊行したのが1991年11月。先日久しぶりに読み返したが、今度『清水正ドストエフスキー論全集』第七巻に収録したいと考えている。

清水正著『ドストエフスキー「白痴」の世界』(鳥影社)から目次と一部分を何回かにわたって紹介する
目次

第Ⅰ部『白痴』の世界
『白痴へ向けて――純粋の結末――7
ムイシュキンは境(граница)を超えてやって来た 25
идиот・新しい物語 38
ホルバインのキリスト像をめぐって 55
復活したキリストの無力 76
ムイシュキンの魔 92
ナスターシャ・フィリポヴナの肖像 121
レーベジェフの肖像 159
トーツキイのプチジョー 171
ムイシュキンの多義性――異人論の地平から――177


第Ⅱ部『アンナ・カレーニナ』の世界アンナの跳躍と死をめぐって 197
  ――死と復活の秘儀――

第一章 美の宿命 197
第二章 宿命的な邂逅 200
第三章 偽善(ファリシーヴィ)と不幸 203
第四章 不吉な兆 205
第五章 二人だけの秘密・偶然の魔の神秘 207
第六章 アンナの内なる悪魔 213
第七章 不倫の契約と自己欺瞞 218
第八章 ラスコーリニコフのあれとアンナの跳躍 221
第九章 跳躍の軌跡・アンナとゴリャートキン 224
第十章 ある何ものかの意志・神の使者イスタプニーク
第十一章 死と復活の秘儀・アンナの“罪と罰” 242
第十二章 赤い手さげ袋(красный мешочек) 244
第十三章 ゴリャートキンの発狂とアンナの死・自由と復活 247
第十四章 ラスコーリニコフの踏み越え 250
第十五章 ラスコーリニコフの復活とアンナの死 250
第十六章 アンナの死とイッポリートの「死」 252
第十七章 もう一人のアンナ=ナスターシャ・フィリポヴナ 256
第十八章 神の使徒・ひげぼうぼうの百姓とムイシュキン公爵 257

残された者たち 259  ――復活を待つセリョージャ――

あとがき 271

ムイシュキンは境(граница)を越えてやって来た

罪と罰』は七月初旬の夕方、一人の青年が又借りしている屋根裏部屋から通りへ出て来る所から始まる。次作『白痴』は「十一月も末、ある珍しく寒のゆるんだ雪どけ日和の朝九時ごろ、ペテルブルク・ワルシャワ鉄道の一列車が、全速力でペテルブルクへ近づいていた」で始まっている。この書き出しで明らかなように、『白痴』は前作『罪と罰』をきちんと踏まえたうえで書かれている。七月初旬から四カ月後の十一月末……この季節を表す数字(四)をラスコーリニコフの歳(二十三歳)にプラスすれば、『白痴』の男性主人公二人の青年の歳になる(尤もムイシュキンの年齢は二十六、七歳と正確に記されてはいない)。四は死と再生を意味する数字であり、『白痴』が『罪と罰』開始の四カ月後から開幕されたことは予め作者の裡で計算されていたことである。九時ごろとはイエス・キリストの死去時刻であり、従って十一月末の朝九時とは、数の象徴的次元でいえばイエスの死と復活の秘儀の時そのものである。『白痴』の文章は「とても湿っぽく霧のふかい日だったので、あたりはようやく明るくなりかけたところだった」と続くが、これは単に十一月末の雪どけ日和りの光景を描いているのではなく、まさに“死”から“再生”へと映りゆく、その一大奇跡の象徴的描写でもある。

(一)復活したキリスト

 ちょっと立ち停まってタイトルを眺める。『白痴』……идиот。アホ、バカ、マヌケ、お目出たき人、おばかさん、痴呆……一つの言葉идиотが多様な貌を見せはじめる。その多様さが重要なのではない。多様な貌がたった一つの言葉идиотで一義性を確立している、そのこと自体が重要である。ドストエフスキーが真実美しい人・キリストの具現化を試みたとき、なぜその人をидиотと名付けなければならなかったのか、その謎を解いてみるのでなければ『白痴』という世界に踏み込む理由は半減する。私は『白痴』について書くとは、идиотにどこまでせまれるか、という背筋がぞっとするような内的霊的冒険の旅の軌跡なのだ。
 “ペテルブルク・ワルシャワ鉄道の一列車”が、ペテルブルクから“外国”へ向けて出発したのではない。この一列車はまさにペテルブルクへと到達しつつある。やがて全能の無形の語り手は、その一列車の、三等車の一座席に向かい合わせに座っている二人の青年に照明をあてていくことになるが、その前に彼(語り手)はさりげなく「乗客のなかに外国帰りの人」がいることをもらしている。
 ここまでは『白痴』の日本語訳文庫本でも一頁を費していない。この一頁に充たない描写に、たとえば十五分の時間をかけても撮りきれない映像の世界を見たり、一人の舞踏家の舞いを見ればよい。あたりがようやく明るくなりかけた雪どけ日和の朝九時、あなたの耳に、全速力でペテルブルクに近づいてくる一列車の音はどのように聴こえるか、汽笛は、噴煙は……。そうだここで読者は一人の有能な映画監督と化せばよい。鉄道の停車場で、列車の到着を待つ一人の男に照明をあてれば、彼の耳に列車の近づく轟音がどのように響いているかは説明するまでもない。それはまさに音の遠近法というにふさわしく臨場感にあふれたものとなるであろう。さらに細かいことをいえば、この停車場にたたずんで列車を待つ一人の男が、どのような内的情況にあるかで事情は異なってこよう。
 しかしここでわれわれは新たなる“小説”を書きはじめるのではないから、それなりの想像力を発揮したならば、もう一度、作品の描写場面に立ち帰ってみよう。すると面白いことに気付く。それはどういうことかというと、この最初の描写にはまず音がない。鉄路を力強く走り抜ける轟音も、汽笛もいっこうに聴こえてこない。さらに映像も明確でない。語り手は「とても湿っぽく霧のふかい日だったので……車窓から十歩も離れたところは、線路の右も左も、まだ何ひとつ見わけることができなかった」と記している。つまりこの場面の描写には音も映像もない。強いていえば濃い霧のたちこめた無音で灰色の光景が存在するだけである。まず読者はこの灰色一色で塗りこめられた場面を凝視し、その灰色の奥に“ペテルブルク・ワルシャワ鉄道”の一列車がペテルブルクに近づきつつあるのだということを実感しなければならない。その手続きを終えてはじめてわれわれは、語り手が照明を与えた三等車の光景を見ることが許される。
 少数に外国帰り、そして大部分をしめる身分の低い町人や商人たちの群……しかしここでも、映像が明確になってきたにも拘らず、依然として音は存在しないままである。三等車に乗りこんだ商人たちの話し声はおろか、彼らの呼吸音さえ聴こえてこない。語り手は描写を続ける「みんなは当然のことながら疲れきっていて、一晩のうちにはれた眼をどんよりさせ、腹の底まで凍えきっていた。どの顔も霧の色にまぎれて、蒼白く黄ばんで見えた」と。ここまで読んでくれば明らかである。場面は全速力でペテルブルクに近づきつつある一列車を登場させておきながら、いっさいの流動感を欠いている。ただ無音の世界で濃霧が徐々に晴れていくだけのことである。この無音の濃霧の世界は“死”の世界といっても同じことである。濃霧が晴れ三等車に座をしめた乗客達の“蒼白く黄ばんだ”顔は死の貌に他ならない。
 そこでわれわれは漸くこの章のタイトルにした“ムイシュキンは境を越えてやって来た”を問題にすることができる。『白痴』導入部の描写場面においてムイシュキンという青年は未だ一切ふれられていないが、ただわれわれは“外国帰りの人”という言葉に留意しておかなければならないだろう。いずれ明らかになることだが、彼ムイシュキンは物理的地理的次元ではスイスからペテルブルクに帰ってきたことになっている。従って彼は紛うことなきれっきとした“外国帰り”である。今、私がここで問うことは地理的次元のことではない。ムイシュキンはиз‐за границы(外国帰り)であるが、この場合のграница(①境、分界②国境③限界、埒)が問題である。ムイシュキンは単に“スイス”から“ペテルブルク”にやって来たのではない。彼は“死”から“生”へと、“白痴”から“正気”へと、“天国”から“地獄”へと……やってきた一人の青年だということである。従って“ペテルブルク・ワルシャワ鉄道の一列車”は、地理的物理的時間・空間を超脱した狭間としての境(граница)を、全速力で走っていたということになり、それを描写した『白痴』の導入部が灰色一色の無音の世界であるのは当然である。
 時のない、距離のない鉄路を全速力で走る一列車とは、だから死の世界を走る幽霊列車であり、乗客はすべて死者である。そして、今、まさにこの多くの死者たちを乗せた幽霊列車は“ペテルブルク”という“生”の世界へと到達(復帰・復活)しつつあるのだ。そう思って再び三たびこの『白痴』の導入場面を読み直せば、いかにこの作品が神秘的黙示的雰囲気をかもし出しているかが触感されるだろう。われわれが『罪と罰』のエピローグで見せられた、突然の、唐突な殺人者の復活劇ではない。ドストエフスキーは『罪と罰』で主人公たち(ラスコーリニコフとソーニャ)を客体的に扱うことで彼らの“復活”を描き得た。主人公たちの“復活”それ自体は多くの読者の感動を誘ったわけだが、作家ドストエフスキーにしてみれば、それ(復活)を主人公の内部世界によりそって、否、入りこんで描ききるのでなければ自己欺瞞的な気分をぬぐい去ることはできなかったであろう。だから当然のこととして、ドストエフスキーは“復活”の秘儀そのものの内実を描きたかったに違いない。だがはたしてそんなだいそれたことが可能なのか。それを可能にするのは“神”をおいて他になく、いかなる天才芸術家もその秘儀そのものの内実に照明をあてることはできないのではなかろうか。
 そう思ってまた、『白痴』という物語の世界をふり返ってみれば、ことは明白である。読者の誰もが、なぜ、どのようにして、ムイシュキンが“白痴”になったのか、そして“白痴”から“正気”にもどったのか、それを知ることはできない。ただ物語全編を通して、正気にもどってペテルブルクに帰ってきた一人の西南が再帰不能の“白痴”にもどっていかざるを得なかった、その痛ましくも滑稽な経過だけが明白であり、その内実は依然として謎だということである。
 私はすでに主人公を“ムイシュキン”として書き記しているが、先に触れたように、作者は初めから主人公の名を明かしてはいない。この手法は『罪と罰』のラスコーリニコフと同じであるが、『白痴』においてはさらに重要な意味を持っていよう。何しろこの作品は“死”から“生”へと、その狭間(граница)を徐々に超え出てくる所から出発した物語であり、登場人物もその正体を徐々に浮彫りにする手法が効果的なのである。
 それではいよいよわれわれも語り手のあてた照明にそって『白痴』の主要二人物のプロフィールに注目してみよう。まず気づくのはムイシュキンとロゴージンが全く正反対の体格風貌を持っていることである。前者は「明るいブロンドの髪」「真っ白な顎ひげ」「大きな空色の瞳」で象徴されるように、その身体的特徴からして純潔・無垢の人を思わせる。後者ロゴージンは「髪はほとんど真っ黒」「小さくて灰色の瞳」「薄い唇」といったように前者とはまるで正反対である。こういった余りにも図式的な人物紹介の仕方は一見、漫画的でとうてい高級な手法とは思えないが、ではこれだけ単純に図式的に紹介された二人物がかつて明確に把捉されたことがあったかと問えば、残念ながら依然として今日まで、この二人物は無傷のまま『白痴』の世界に居すわり続けているのである。
 ムイシュキンは「とても大きな頭布のついた、かなりだぶだぶの、厚手のマント」を着、持ち物といえば身のまわり品をいれた包み一つきりである。語り手はいう「何から何までロシア的ではなかった」と。作者がムイシュキンに賦与したイメージは明らかだ。ムイシュキンの身につけたマント(плащ)はплащаница(棺中のキリストを描いた布・棺覆い)に他なるまい。つまりムイシュキンは復活したキリストとしてペテルブルクに帰ってきたのである。ここで少し先走ったことをいえば、ドストエフスキーの作品の結末は、その導入部においてすでに予告されている場合が多く、『白痴』もまたその例外ではないということである。ムイシュキンの身につけたマントについて作者は「イタリアでは役にたち十分その目的をはたしたものも、ロシアではからっきし役にたたなかったわけである」と書いている。『白痴』全編を読み終わっている読者にはぞくっとする予告である。墓場から蘇った“キリスト”ムイシュキンの伝道はロシアではまるっきり無力であったということだ。だとすれば作者は予め“具現化したキリスト”のロシアでの無力を悟っていたとでもいうのであろうか。作者は自らの作品の結末を凝視して、この導入部分を描いている。そう思わなければ、このことばを納得することはできない。作品を読む面白さは常に恐怖と裏腹である。ロシアでは丸っきり役に立たなかったплащを着こんでムイシュキンはペテルブルクに降り立ったのである。