清水正著『ドストエフスキー「白痴」の世界』(鳥影社)の紹介(5)


この本に収録された『白痴』論は1985年12月23日に書き始め1987年5月11日に書き終えた。すでに二十六、七年も過ぎた。『アンナ・カレーニナ』論を含め、刊行したのが1991年11月。先日久しぶりに読み返したが、今度『清水正ドストエフスキー論全集』第七巻に収録したいと考えている。

清水正著『ドストエフスキー「白痴」の世界』(鳥影社)から内容の一部分を何回かにわたって紹介する

ムイシュキンは境(граница)を超えてやって来た


(四)カインとしてのロゴージン 

ロゴージンの「父親殺し」に関連して、もう一つ問題になるのは彼の弟セミョン・セミョノヴィチ・ロゴージンの存在である。ロゴージンは弟に対して「このおれを誰よりもいちばんひどい目にあわせたのは弟のやつなんだ」「弟のやつは死んだ親父におれのことをさんざん中傷しやがってね」と語っている。この、父親を主柱とする兄と弟の確執、敵対関係は、われわれにカインとアベルの物語を想起させる。ロゴージンの語るわずかの話を聴いただけでも、弟のセミョンは両親の信頼を愛を一身に受けた存在であることがわかる。父親の死後、ロゴージン家を支配していたのは弟のセミョンであり、セミョンは「熱病」で「親父の死目にもあえない」兄パルフョンに代って一家をとりしきっていた。一方、ロゴージンは父親が急死したというのに「弟のやつもおふくろも、金を送ってもこなければ、知らせてもこない! まるで犬ころ扱いさ!」と語っているように、ロゴージン家のやっかい者、つまりロゴージン家から追放された「除け者」的存在だった。だがロゴージンにしてみれば、父の寵愛を一身に受けていた弟のセミョンは実は「親父の棺桶にかかっていた金襴の覆いから金糸の房を切りとって、『こんなものにえらく金がかかっているんだな』とぬかす」ような傲慢不遜な男であり、ロゴージン家の正当な後継者は彼自身を置いて他にはいないと確信していたのである。
 そこでわれわれは改めて、弟セミョンに照明をあててみる必要がある。半年ぶりにペテルブルクに戻ってきたムイシュキンは初めて訪れたロゴージン家の書斎でパルフョンに問う「弟さんはどこに暮しているの?」と。パルフョンは「弟のセミョンは離れにいるのさ」と応える。このロゴージンの弟をめぐる短い会話をひとはおそらく読みとばしていくだろう。だが先にも指摘したように、『白痴』本編を通してパルフョンの弟セミョンはその姿を現わすことがないのである。設定された筋書き通りに読めば、弟のセミョンはムイシュキン、ナスターシャ、ロゴージンの物語が幕を降ろした後、つまり第四篇第十二章の終局(заключение)においてロゴージン家の莫大な全財産の相続者として再登場するまで、ひたすら離れに引っ込んで沈黙を守っていたことになる。しかしこの物語をロゴージンの深層心理的側面から読んでいけば、弟のセミョンは父のセミョンと同様、彼パルフョン・ロゴージンによってすでに葬り去られていたのである。
 われわれ読者はロゴージンによるただ一件の殺人、つまりナスターシャ殺害のみを舞台上に見せられたにすぎない。否、厳密にいえばそれさえ闇の中で実行されたのである。ナスターシャ殺害の現場を知っているのは二人の当事者と、それを視ていたロゴージンの父の肖像画だけだ。殺人後の現場を訪れるムイシュキンも、そしてわれわれ読者も、ロゴージンとナスターシャの二人だけの“現場”からは見事に排除されてしまったのである。だがその闇の“現場”を凝視すれば、ナスターシャ殺害の奥に、弟セミョンの殺害が、さらにその奥に父セミョンの殺害が幻視されてくるはずである。
 ムイシュキンは単にナスターシャ殺害の共犯者としてロゴージンの側にたたずんでいるのではない。彼らは誰よりも深く、父殺しの共犯者として、否、父殺しの挫折者として今、同等の“罪”を負うているのである。

注 大塚義孝氏は“カイン疾患としての「てんかん」——その運命像と人間的危機構造−”(『てんかん人間学』所収)の第2章「カイン(e)の現象形態像」において次のように述べている。《e因子の本質は「カイン」(Kain)である。/カインとは、いうまでもなく聖書にみるアダムとイヴの長男で、その従順で善良な弟アベルを殺害した神話上の人物のことである。フロイトがエディプスの概念を導き出したように、ソンディは、このカインが、弟を殺害しようとして憤怒にかられ、興奮する過程、そして事実、殺害していった、その運命的意義に、e因子の本質を見出し、これを象徴的に「カイン」と呼称したのである。したがって、てんかん患者の発作と激情に内在する本質的な意味内容は、この憤怒と憎悪、猜疑と嫉妬にかられ、殺人に至ろうとするカインそのものにある。しかしまた、このe因子の本質は、この荒々しい人間の憤怒や猜疑にかられた精神の興奮を抑制し、殺意を禁止し、善良たらんとする忍耐と正義、敬虔と安寧、さらには宗教をも惹起させようとするモーゼ的欲求をも始源させる意義をももつ。e因子における「アベル化されたカイン(der abelisierte Kain)の意義である。》
 ロゴージンが「カイン」的役割を、ムイシュキンが「アベル化されたカイン」的役割を荷なった存在であることは、この引用文によって明白である。重要なことはロゴージンが「カイン」の運命を生きたように、ムイシュキンもまたアベル化された「カイン」の運命を生きざるを得なかったことであろう。《アベル化されたカインとしての健康な現象形態像は、その性格的側面では、善良さ、寛大性、温情深さ、律儀さ等、いわゆる良心性を強調する姿となって確認される》としても、ムイシュキンの生は不断に自らの内なる「悪魔」(カイン)に襲撃される危機的情況に置かれており、その生の様態は《健康な現象形態像》と《病的な現象形態像》(不安、恐怖、猜疑、殺意、意識の混濁、徘徊等)の間をままぐるしく揺れ動いていたのである。ムイシュキンは自らの内なるカインを完全に超脱してアベルとなったのではなく、アベルという仮面を被ったカインの運命を生きたのである。ムイシュキンは内なるカインを認識することができないまま、そのカイン因子によって自らの存在を爆破してしまった、それが彼の“白痴”への突入、否、“白痴”への呑み込まれであることはもはや言うまでもなかろう。