『清水正・ドストエフスキー論年譜』 

清水正ドストエフスキー論年譜』 
清水正


一九四九年(昭和24年)
二月八日、父・政吉と母いつの四男として千葉県東葛飾郡我孫子町我孫子弐百六番地に生まれる。戸籍上は四男であるが、すでに三人の息子を亡くしていた母は、わたしを長男として育てた。中学入学の時、履歴書に四男と記入したが、それまで母はわたしを長男で押し通した。

一九六三年(昭和38年)14歳
○「万物はすべてくりかえし」(12月18日 日記帳)
 ※アインシュタイン相対性理論を一般者向けに書いた本の影響を受け、時間は繰り返すという思いに至った。この時からわたしは必然者となった。一挙に善悪観念は瓦解し、眼前の世界は〈真っ白〉になった。これは比喩的表現ではなく、全身体感である。世界の秘密が一挙に解けた瞬間の体験。高校に入ってベルグソンの「時間と自由」を読んだが、ベルグソンの〈自由〉はわたしを〈必然〉から解放することはなかった。「有は無であり、無は有である」と日記帳に記した少年はニーチェ永劫回帰に共感したが、ニーチェの必然と自由の一体化に至福感を得ることはなかった。ニーチェの全世界を肯定するディオニュソス的恍惚よりも、神が創造した世界の不条理に直面して「事実にとどまるほかはない」とつぶやいたイワン・カラマーゾフの精神の苦渋に震えた。十七歳で初めて『地下生活者の手記』を読んで、以来ずっとドストエフスキーの文学に耽っているが、まずなによりもわたしの心をとらえたのは、地下男が第一部で展開する必然と自由をめぐる思弁であった。気まぐれもまた必然の網の目から抜け出すことができないのだとすれば、要するにすべては決定されているといこうとになる。

一九六八年(昭和43年)19歳
 日本大学芸術学部文芸学科入学。ひたすらドストエフスキーを読み、批評する。
○「『罪と罰』におけるラスコオリニコフの問題」:(文学クラブ機関誌)
 【わたしは文芸学科に入学して「文学クラブ」に入会した。が、入学してまもなく大学紛争が始まり、教室は封鎖された。「文学クラブ」の連中の大半は芸闘委のメンバーで、最初のコンパの時には〈文学〉の話は全くなく、先輩たちは声高らかに〈政治〉の話ばかりをしていた。わたしは酔った勢いで「文学の話をしたらどうだ」と言ったが、先輩たちは生意気な奴だぐらいに思っただけだろう。ある日、サングラスをかけて妙に気取った先輩の一人が「おまえ何やってるの」と訊くから、ボソッと「ドストエフスキー」と答えたら「ああ、ドストエフスキー 、それ小林秀雄がやってるじゃない」と鼻であしらうような言い方をした。「何を言ってるんだ、ドストエフスキーはおれだよ」とわたしは腹の中で思って黙っていた。当時、ドストエフスキーと言えば小林秀雄小林秀雄と言えばドストエフスキーの時代だった。あの頃の文学青年は小林秀雄の読み方でドストエフスキーを読んでいた。かく言うわたしもその一人であった。わたしは『罪と罰』を読めばすぐに小林秀雄の『罪と罰』論を読んだ。小林秀雄をいかに乗り越えるか。それが当時の課題であった。わたしが最も熱心に小林秀雄を読んだのは二十歳前後の一、二年で、それ以降はあまり小林秀雄を高く評価していない。あの小林流レトリックの魔術はわたしにとって麻疹のようなものだった。小林秀雄江戸前の寿司職人のような威勢のよさで〈ドス卜エフスキー 〉という寿司ネタをワサビをきかせて客の前に出した。その握り寿司は、形といい、ワサビのきかせかたといい、実に日本人好みの〈食物〉だったということだ。(略)この論稿は機関誌から破りとって保管してあったので、雑誌のタイトルも正確な刊行年月も知ることができない。わたしが大学に入学したのが一九六八年であるから、おそらく同年かその翌年ぐらいに発刊されたのであろうが、闘争後は文学クラブそのものが潰れてしまったので、その歴史も知ることができない。】(「自著をたどって振り返るドストエフスキー体験」より。以下「自著をたどって」と表記)

一九六九年(昭和44年)20歳
  【ドストエーフスキイの会発足〜】

一九七〇年(昭和45年)21歳
◎『ドストエフスキー体験』(1月1日 清山書房)A5判・並製一〇四頁  限定五百部 定価五〇〇円
 ※処女評論集。十九歳から二十歳にかけて憑かれるようにして執筆したドストエフスキー論。『罪と罰』『白痴』『悪霊』『カラマーゾフの兄弟』論を収録。
 【十七歳の時に『地下生活者の手記』を読んでから三年、その間私はドストエフスキーの作品だけを読んできたと言っても過言ではない。ここに載せてあるエッセイはこの一年間に書いたものである。私はドストエフスキー作品を読んだときの感動をそのまま表現したかった。けれどもエッセイを書くことは、私にとって躓きであった。偉大な作品を分析しようとする試みは常に失敗せざるを得ないのだし、それだからこそ偉大な作品と言えるのだろう。私は途中で何度放棄しようと思ったかしれない。ドストエフスキー作品を前にしての評論や批評などが、いかに無力であるかを深く思い知った。けれども私にとって「ドストエフスキー体験」は決して過去形ではないことは確かである。】(「あとがき)より)
【すきっ腹をかかえ、上野公園のベンチで『罪と罰』を読んでいた。浮浪者の男がゴミ箱から漁ったセンベイのかけらを鳩にまいていた。その光景が鮮明に蘇ってくる。『罪と罰』は空腹で読むといい。三日も食べ物を口にしなかったラスコーリニコフの気持ちが感覚的に分かる。
 十九歳のとき失恋した。それ以来手紙が書けなくなった。はじめて書いたドストエフスキー 論は日芸のサークル「文学クラブ」の機関誌に発表した『罪と罰』論だが、これは感想の域を出ていない。しばらくして『白痴』論を書きはじめた。失恋したばかりの青年にとってナスター シャをめぐるムイシュキンとラゴージンの三角関係のドラマは切実だった。家族の者が寝静まった冬の夜、一人炬燵に入って原稿を書きすすめた。朝、外に出ると雪が積もっていた。その美しく化粧された庭を踏みにじるように駆け回った。
 大学に入学してすぐに紛争が勃発。江古田銀座を抜け、環七通りを越して、さらに歩いて二十分、そこにあったダンボール工場でアルバイト。時給百円。大学は封鎖され、芸闘委の連中が学内に立ちこもるなか、ひたすらアルバイトに汗を流す日々。夜はドストエフスキーを読み、ドストエフスキー論を書いて過ごす。明け方眠りにつき、昼過ぎ起きる。完全に夜昼逆転の生活。
 失恋で体重は激減。身長百七十四センチで体重は四十三キロ。まさに骨に皮を張ったような痩身。歩けなくなって道を四つんばいになって這っている夢をよく見た。それでもアルバイトだけは続けた。給金をもらうとすぐに古本屋で目をつけていた本を買い、喫茶店で煙車を吸い、コーヒーをすすりながらその本を繙くのが何よりの楽しみだった。
 夏休みを終えた頃、ドストエフスキー 論を出版しようと思い、金を貯めることにした。所沢のゴム工場で時給二百五十円の仕事をする。我孫子からその工場まで片道三時間ぐらいかかった。内容は袋に詰められた金物の数を確認すること。一日中、そんな単純な仕事をしていると頭がおかしくなる。が、隣の塗料をシンナーで溶かす部屋では精神科に通っていた早稲田の学生がリハビリで通っていた。その部屋に失恋した女性に似た可愛い子がいた。もう二度と恋などするものかと思っていたが、その子を見ると心臓が高鳴った。その工場では一ヵ月ほど働いたのだろうか。正確な記憶がない。それでもどうにかこうにか出版資金もたまり、友人の紹介で高知の土電印刷所で印刷製本してもらうことにした。
『白痴』論七十枚、『悪霊』論九十枚、『カラマーゾフの兄弟』論百三十八枚、『罪と罰』論七十枚、あわせて三百六十八枚が完成。表紙の絵も自分で描いた。『カラマーゾフの兄弟』論が百枚を越えた時は手が震える思いだった。印刷所から完成の知らせがあり、我孫子駅の貨物置場に取りに行った。家に運び、ダンボール箱を開けた瞬間、表紙に描いたドストエフスキーの顔が両目に飛び込んできた。あの感激は忘れられない。
 限定五百部の『ドストエフスキー体験』はよく売れた。早稲田の古書店・文献堂、池袋の芳林堂書店、赤羽の豊島書房だけで、一年もたたないうちにほとんど売り切れた。あの頃たしかに多くの人々がドストエフスキーを熱心に読んでいた。】(「自著をたどって」より)

○「『カラマーゾフの兄弟』論(一)」「月刊 出入り自由」創刊号(2月10日)
※『ドストエフスキー体験』所収の『カラマーゾフの兄弟』論の再録(以下同)
○「『カラマーゾフの兄弟』論(二)」「月刊 出入り自由」2号(3月10日)
○「『カラマーゾフの兄弟』論(三)」「月刊 出入り自由」3号(4月10日)
 【当時、文芸学科研究室には此経啓助氏が助手として勤務していた。此経氏は「出入り自由」(「ジャーナリズム理論2 」の機関誌) という雑誌の編集をしていて、わたしにも何か載せないかと声をかけてきた。そこで『カラマー ゾフの兄弟』論を載せることにした。三回の連載であった。】(「自著を辿って」より)
ドストエーフスキイ全作品を読む会発足〜現在】
○「(第九回例会報告要旨)ドストエフスキーに関する勝手気儘なる饒舌」「ドストエーフスキイの会会報」No.10(8月31日 ドストエーフスキイの会)
 ※「ドストエーフスキイの会」の第九回例会(東京厚生年金会館 一九七〇年六月十日午後六時〜九時)で発表した「『罪と罰』と私」を会報用に文章化したもの。
 【「ドストエーフスキイの会」が新宿にあった東京厚生年金会館で研究発表会を開催していた。新聞の文化欄に載った情報をもとに会場に駆けつけた。一九七〇年四月二十七日のことである。講演者は水野忠夫氏、題目は「『カラマーゾフの兄弟』をめぐって」であった。会場に集まった人は百人ほどであったろうか。異様な熱気に包まれていた。日本人には「ドストエフスキーがドーシテコンナニスキー」と言われるぐらい熱狂的なファンがいる。が、二十歳のわたしが不思議だったのは六十過ぎの年配の方も多数おられたことだった。六十も七十歳にもなってドストエフスキーを読んでいることが解せなかった。当時のわたしはドストエフスキーは若いころ熱中して読むもので、老人になってまで読む作家ではないと思っていた。神があるかないかそれが問題だ、などと大真面目になって議論している作品などは青春時代に読むべきであって六十歳過ぎてまでドストエフスキーを読むというのはなんかみっともないことのように思っていたのである。その気持ちは今でも基本的には変わっていない。
 講演後、水野氏に『ドストエフスキー体験』を一部贈呈した。その際、近藤承神子、岩浅武久両氏から拙著を購読したいと申し出があった。後日、近藤氏とは早稲田大学の大限会館で開催されたドストエーフスキイの会総会( 一九七〇年五月七日土曜日)で再会した。近藤氏は次回の講演者としてわたしを推薦した。会場には筑摩書房ドストエフスキー全集の翻訳者として著名であった小沼文彦氏、早稲田露文科の教授でバフチン著『ドストエフスキイ論 創作方法の諸問題』(一九六八年 冬樹社)の翻訳者・新谷敬三郎氏、後にドストエフスキー の謎ときシリーズで有名になった江川卓氏、当時、会の事務局長であった木下豊房氏などが列席していた。小沼氏には拙著を二冊ほど購入して頂いた。
 わたしが東京厚生年金会館で「『罪と罰』と私」という演題で話をしたのは一九七〇年六月十日のことであった。初めて人前で話すということであがっていたのか、具体的にどのようなことを話したのかあまり記憶にはないのだが、途中ひとりの男(ずいぶんと年配の人だった)がとつぜん手をあげて話の中断を申し込んだことは鮮明に覚えている。
 この日の〈できごと〉は近藤承神子氏が「ドストエーフスキイの会会報」№10に「第九回例会印象記」を書いているので次にそれをそのまま紹介しておきたい。
《第九回例会の発表者は清水正氏。一九四九年生まれの堂々たる戦後派。痩躯鶴の如し。司会者は爆弾であると紹介した。会衆はキョトンとする。只の学生じゃねえか。だが長髪にかくれた顔をうつむかせてボチボチ口を聞き出した氏の話は次第に会場の落着きを奪ってゆく。どうもいつもとは様子が違う。居心地が悪い。ズカズカ人の居間に土足で上り込まれたようで苛立たしい。ルール無視の話し方だ。俎の鯉が調理人に咬みついているようなものだ。初っ鼻から清水氏は会衆の毒気を抜いた。抜かれる側もこれではならぬと陣形の立て直し。にらみ合い数刻の後に本号要旨にある──『罪と笥』と私── の話が始った。個性的である。数多く頒布されている評論解説の影響と模倣がみられない。裸の肉体をドストエフスキー御本尊にぶっつけて得た紛れもない自分の言葉で話り続ける。氏の独断とも倨傲とも思える見解の数々が次第に熱した口調にのって播き散らされる。しかしどれもドストエフスキー の作品の中にトップリ身をひたし、深く読込んで得られたものであることを覗わせる。会衆の神経はそれらに触れてピリピリと震えている。彼の大変な「居直り」にたまりかねた会員の一人が、とうとう中断を申し入れ、司会者をあわてさせた。
 理解するには先ず溺れろという言葉があるが、作品世界に埋没して客観を失い全身の力で共感また反発せざるを得ないというところに名作の魔力を知ることが出来る。ドストエフスキーはその作品の読み手に「体験」という傷跡を刻み込む偉大なる達人である。そこから惨み山る血の色を見て、読者は自分の生の痛みを知る。清水氏にも『ドストエフスキー 体験』という著書があるが、これとて、ゲバルト模様に彩りしてはあっても、その心は正統派。当たり前の真っ白けなのだ。この日会衆から発せられた質問は、残念なことに氏の巧妙なメクラマシに外され、白い腹を晒すには至らなかった。合戦は鯉の勝利で幕を閉じた。とにかく面白い三時間であった。》
 この近藤氏の例会印象記は当時のわたしのドス卜エフスキーに憑かれていた姿をよくとらえている。わたしはわたしのドストエフスキーをわたしの言葉で語ったまでだ。が、その言葉はある種の人にとっては常軌を逸した熱狂的な言葉に聞こえ、苛立ちを覚えるのだろう。わたしの批評はテキストに揺さぶりをかけて一度テキストを解体し、再構築化をはかって作品化するという試みである。テキストが〈人間〉である場合、揺さぶられて解体されてはたまらないと感じ、はげしく低抗するのもとうぜんということか。
 近藤氏は同・会報で拙著『ドストエフスキー 体験』の書評もしてくれた。それは、今読んでも面白い。ドストエフスキーを読むということが、どういうことかよく分かる書評である。この会報は後に『場ドストエー フスキイの会の記録I 』(一九七八年五月十五日海燕書房)に収録されたが、今は品切れで入手困難な状態にあるので次に全文を引用しておく。《稚拙な比喩で申訳ないが、ドストエフスキー の作品は濃厚な毒酒である。なまじっかな体質では殺される。故に一滴飲んでもう結構という輩もいれば、強烈な異臭に鼻をつまんでまっぴら御免と尻込みする者もある。口に含む勇気はないが気になって仕方がないという連中はもっぱら酒精の分析に熱をあげる。この酒には幾つもの副作用があり、中毒症状が顕著である。常用していると先ず人づき合いが悪くなる。極度の皮肉屋が生まれ、時に泣き上戸もできる。愛飲家は反抗的で虚無的で同時に博愛心旺盛で人類愛にも富んでいるのだが、程々ということがないから世間にひどく嫌われる。現在迄発売は禁止されていないが、一般には飲まないことが望ましいとされ、この酒の悪口を喧伝することは大いに歓迎されている。勿論、中毒患者は地下室に閉じ込められる。が、地下へと追いやられる程に症状の進行した患者は自分の体内に残った微かなエキスで、臓腑を同じ毒酒に変え得るから、彼は地下に座したまま、毒酒の味わいに酔痴れるのである。そこで彼は人が中途までも徹底させない意識を徹底的に追求する。この丁度を知らぬ表われこそ、この酒のもたらす特徴であり、この意識の徹底に耐え得る体質者のみが、この酒を飲み得るのである。
 『ドストエフスキー体験』いう清水正(まさし)氏の著書は、清水氏の毒酒痛飲酩酊の克明な記録である。氏は存分に毒酒を傾け「意識の徹底」という「病気」を引受けている。氏の肉体はすでに毒酒そのものを発酵させてもいる。ということは氏がドストエフスキーの作品を生きているということに他ならず、『ドストエフスキー体験』と銘されたこの酒もドストエフスキーの毒酒に劣らぬ絢爛たる猛毒の含有を保証している。地下に住む通人たちよ、肝臓には余程注意の上賞味されるがよかろう。然る後、かって或いは現在の己が酩酊と比べてみるがよい。果して清水氏程の泥酔が己れの体験にあったかと。(近藤記)】(「自著をたどって」より)
【小沼文彦主宰「日本ドストエフスキー協会資料センター」開設】
 ●三島由紀夫割腹自殺(11月25日)
○「〈断想・1〉ラスコーリニコフと老婆アリョーナ」:「陀思妥夫斯基」No.2(12月14日 日本ドストエフスキー協会資料センター)

一九七一年(昭和46年)22歳
○「〈断想・2〉肖像画に見るドストエフスキ──ー並びに批評の問題──」「陀思妥夫斯基」No.3(1月15日 日本ドストエフスキー協会資料センター)
○「肖像画に見るドストエフスキーニーチェ」「ニーチェ・ノート」(3月30日 日本大学芸術学部文芸学科)
○「〈断想・3〉三角関係に見るドストエフスキー──〈一〉『虐げられた人々』における三角関係」「陀思妥夫斯基」No.10(8月30日 日本ドストエフスキー協会資料センター)
◎『停止した分裂者の覚書』(9月15日 豊島書房)四六判・上製二八二頁 定価一〇〇〇円
 ※『ドストエフスキー体験』の増補改訂版。『未成年』論と「不条理の世界──カミュドストエフスキーか──」を増補。

 【近藤氏は『ドストエフスキー体験』を赤羽の豊島書房主岡田富朗氏に紹介、増補改訂版の刊行を企画してくれた。豊島書房は古書店を経営していたが出版も手掛けていた。白川正芳氏の埴谷雄高論や近代文学派関係の本を刊行していた。(略)最初のタイトルは『トストエフスキー 体験──停止した分裂者の党書──』であった。しかしこのタイトルは、椎名麟三に『私のドストエフスキー 体験』(一九六七年五月十日教文館)があるということで変更を余儀なくされた。そこでタイトルとサブタイトルを入れ換えて現行のものとした。
 近藤承神子氏と一緒に小沼文彦氏が主宰する「日本ドストエフスキー協会資料センター」を渋谷に訪れたのはドストエーフスキイの会総会の後まもなくしてのことであった。小沼氏は豊島書房から『ドストエフスキー体験』の増補改訂版が出ることを知って、「本は大きな出版社からだした方がいい」と言って、岩波書店からチェーホフの翻訳を出していた湯浅芳子氏の話などをされた。確かにそうだろうとは思ったが、小沼氏のアドバイスよりは、出版の斡旋をしてくれた近藤氏の友情の方がはるかに嬉しかった。】(「自著をたどって」より)

一九七二年(昭和47年)23歳
  ●浅間山荘事件(2月19日〜28日)
○「ドストエフスキー体験記述Ⅰ ドストエフスキ──ーそのディオニュソス的世界」「ピエロタ」17号(12月1日 母岩社)

一九七三年(昭和48年)24歳
○「ドストエフスキー体験記述Ⅱ 『貧しき人々』の多視点的考察(1)」:「ピエロタ」18号(2月1日 母岩社)
○「ドストエフスキー体験記述Ⅲ 『貧しき人々』の多視点的考察(2)」:「ピエロタ」19号(4月1日 母岩社)
○「ドストエフスキー体験記述Ⅰ 意識空間内分裂者による『分身』解釈(1)」:「るうじん」創刊号(4月1日)
○「回想のラスコーリニコフ」:「あぽりあ」15号(4月10日 「あぽりあ」編集室)
○「ドストエフスキー体験記述Ⅱ 意識空間内分裂者による『分身』解釈(2)」:「るうじん」2号(5月1日)
○「ドストエフスキー体験記述Ⅲ  意識空間内分裂者による『分身』解釈(3)」:「るうじん」3号(6月1日)
○「ドストエフスキー体験記述Ⅳ 意識空間内分裂者による『分身』解釈(4)」:「るうじん」4号(7月1日)

一九七四年(昭和49年)25歳
◎『ドストエフスキー体験記述──狂気と正気の狭間で──』(5月1日 私家版)A5判・並製二一一頁 定価一二〇〇円
 ※「肖像画に見るドストエフスキーニーチェ」「回想のラスコーリニコフ──自称ポルフィーリイの深夜の独白」「ドストエフスキー──そのディオニュソスヒサ的世界」「『貧しき人々』の多視点的考察」「意識空間内分裂者による『分身』解釈」所収。
 【一九七〇年末から一九七三年末までの約三年間、私は相変らずドストエフスキーを読み続け、書き続けた。喫茶店の薄暗い片隅でコーヒーをすすり煙草をのみながら、あるいは皆の寝静まった深夜に私はひとりドストエフスキーの宇宙に旅立った。その孤独で悩ましい体験のみが、私の生活であり、現実であったかのように──。/ドストエフスキーの作品群は、私にとって偉大な現代文学であり現代心理学であり現代哲学であり、人間存在の深淵に照明を与えてくれる唯一のものとして存在し続けた。ドストエフスキーの世界を解明する作業が、現代に生きる私自身の存在のあり方を解明する作業である限り、私は一生彼の宇宙を彷徨い続けなければならないのであろう。】(「あとがき」より)
【二十五歳になったら本を出したいと思っていたので原稿の準備だけはしていた。大学三年時のゼミ雑誌「ニーチェ・ノート」(一九七一年三月三十日 日本大学芸術学部文芸学科)に発表した「肖像画に見るドストエフスキーニーチェ」、三年から書きはじめた「貧しき人々」論、四年から書きはじめ卒業後一年たってようやく書き上げた「分身」論などを収録して『ドストエフスキー体験記述』は刊行する運びとなった。この本は最初の本と同じく高知の土電印刷所に頼んだ。当時は石油ショックで紙代が高騰し、印刷代が予想の三倍を超えた。完全な自費出版で百万近くの金がかかった。細君が貯金の全額を降ろして協力してくれた。金銭的にも精神的にも感慨深い三冊目の本である。
「分身」解釈を書いている頃、精神状態は最悪であった。主人公ゴリャー トキン氏の狂気が感染しそうな感じすら覚えた。江古田につくといつも烏が鳴いていた。その鳴き声が耳について離れなかった。百三十枚ほど書いて行き詰まった。書くべきことはある。が、それがなかなか表現になってくれない。苛立ちの中でハイデッガーの『有と時』(辻村公一訳)を読み、ビンスワンガーの『精神分裂病』、R - D ・レインの『引き裂かれた自己』など多くの精神病理学の本を読んだ。それもこれもゴリャートキン氏の狂気に照明を与えるためである。半年の間、一文字も書くことができなかった。ある日、日暮里から乗った電車の中でノートを聞き、とにかく我孫子駅までぺンを走らせた。それで突破できた。「意識空間内分裂者による「分身」解釈」は三百枚を超える批評となった。】(「自著をたどって」より)

一九七五年(昭和50年)26歳
  ●ベトナム戦争終結(4月30日)
○「『プロハルチン氏』をめぐって──鏡との対話──」:「ドストエフスキー狂想曲」創刊号(5月1日 「ドストエフスキー狂想曲」編集室)
 ※「ドストエフスキー狂想曲」は清水正編集・発行の同人誌。同人に浜田章、小島良隆、灘玄海、南保雅紀、新岡昭彦。寄稿者に中村文昭、小柳安夫、新部正樹、堤玲子、内田收省、山形敬介。
○「『おかみさん』の世界──胎内回帰とその挫折──」:「ドストエフスキー狂想曲」2号(12月10日 「ドストエフスキー狂想曲」編集室)

一九七六年(昭和51年)27歳
○「道化が戯れに道化を論ずれば──『ポルズンコフ』を中心に──」:「ドストエフスキー狂想曲」3号(10月30日 「ドストエフスキー狂想曲」編集室)
○「『弱い心』の運命」:「ドストエフスキー狂想曲」3号(10月30日 「ドストエフスキー狂想曲」編集室)

一九七七年(昭和52年)28歳
○「坂口安吾ドストエフスキー──『吹雪物語』と『悪霊』を中心に」:「ドストエフスキー狂想曲」4号(4月15日 「ドストエフスキー狂想曲」編集室)
○「初期作品に見るドストエフスキー」:「日本大学芸術学部紀要」第7号(12月20日 日本大学芸術学部紀要委員会)
○「関係の破綻と現実還帰の試み──『正直な泥棒』『白夜』『他人の妻とベッドの下の夫』をめぐって──」:「ドストエフスキー狂想曲」5号(12月25日 「ドストエフスキー狂想曲」編集室)

一九七八年(昭和53年)29歳
○「流刑前の作品世界 『分身』を中心に」:「「ドストエーフスキイの会会報」No.50(4月1日 「ドストエーフスキイの会」)
○「ドストエフスキーに関する勝手気儘なる情熱」:『場 「ドストエーフスキイの会の記録Ⅰ 1969-19739』(5月15日 海燕書房淵)
○「『イワン・デニーソヴィチの一日』について」:「ドストエフスキー狂想曲」6号(6月30日 「ドストエフスキー狂想曲」編集室)
○「死の家の記録」:「ドストエフスキー狂想曲」6号(6月30日 「ドストエフスキー狂想曲」編集室)
○「喜劇作者ドストエフスキー──『おじさんの夢』を中心に──」:「ドストエフスキー狂想曲」6号(6月30日 「ドストエフスキー狂想曲」編集室)
○「道化と赦しの物語──『ステパンチコヴォ村とその住人』について──」:「ドストエフスキー狂想曲」6号(6月30日 「ドストエフスキー狂想曲」編集室)
○「ドストエフスキーてんかん」:「「ドストエーフスキイの会会報」No.52(7月15日 ドストエーフスキイの会)

一九七九年(昭和54年)30歳
○「『罪と罰』序論──基本的構造からテーマへ向けて──」:「日本大学芸術学部紀要」9号(2月25日 日本大学芸術学部紀要委員会)
○「自意識病の道化師──『地下生活者の手記』について──」:「ドストエフスキー狂想曲」7号(6月25日 「ドストエフスキー狂想曲」編集室)
○「文体の魔術師──『地下生活者の手記』第一部・「地下の世界」について──」:「ドストエフスキー狂想曲」7号(6月25日 「ドストエフスキー狂想曲」編集室)

一九八〇年(昭和57年)31歳
●イラン・イラク戦争勃発(9月22日)

一九八一年(昭和56年)32歳
○「回想のラスコーリニコフ──自称ポルフィーリイの深夜の独白──」:「現代のエスプリ」164号(3月1日 至文堂)
 ※「あぽりあ」掲載の再録。
○「『罪と罰』をめぐって」:「ドストエフスキー」創刊号(4月1日 「ドストエフスキー」編集室)
 ※「ドストエフスキー狂想曲」終刊後、田村一平、富岡幸一郎と共に創刊したドストエフスキー専門誌。3号で廃刊。
◎『「虐げられた人々」論』(10月15日 私家版)A5判・並製六六頁 非売品
ドストエフスキーの全作品を批評しつくそうと考えていたから、初期作品から順を追って作品批評を展開していった。『虐げられた人々』はそれほと批評衝動にかられた作品ではなかったし、批評の方法に関しても行き詰まりを感じていた頃であった。ドス卜エフスキーの作品を読めば読むほど全文引用するより他はないのじゃないかと思い、現にこの論考はかなり引用が多い。長い引用は、批評家にとってはどこかしら屈辱的な思いを感じるものである。引用も批評のうちと開き直って論をすすめたが、やはりそれが批評として成功したとは思えなかった。この思いは今でも変わらない。しかし、長いドストエフスキー研究の途上でこういった引用だらけの批評もあっていいのではないか、こういった地点も通過していかなければ先に進めないのだ、と思ったことも確かである。
『慮げられた人々』のワルコフスキー公爵が発する言葉はきわめて魅力的で、彼の言葉はいくら長く引用しても退屈することは全くなかった。彼の〈言葉〉を乗り越える〈言葉〉ははたしてあるのだろうか。】(「自著をたどって」より)
◎『ドストエフスキ──ー中期二作品──』(10月30日 呼夢書房)A5判・並製一六二頁 定価一五〇〇円
 ※「自意識病の道化師──『地下生活者の手記』について」「文体の魔術師──『地下生活者の手記』第一部・「地下の世界」について」「『虐げられた人々』論──赦しの精神の破綻」所収。
【この本の表紙に使ったのはわたしが十九才頃にワラ半紙に書いた『悪霊』論の一枚である。当時わたしは極めて小さな文字で原稿を書いていた。わら半紙一枚に四百字詰め原稿用紙に換算して五十枚ほどになる文字を書いたこともある。二十歳前後の頃、わたしの神経は異常に研ぎ澄まされていて、赤インクや緑インクを使って文字を書いたこともある。当時のわたしは完全な夜型人間で原稿はほとんど夜中に書いていた。冬などは炬燵に入って原稿を書き、疲れればそのまま炬燵で寝ていた。
 新潮文庫『地下生活者の手記』(米川正夫訳)との出会いによってわたしのドストエフスキー体験は始まった。十代後半から二十代、三十代とわたしのドストエフスキー体験は絶え間なく続いた。四十代の十年間は宮沢賢治論に終始した感もあるが、それでもドストエフスキーと縁が切れたわけではない。むしろドストエフスキーはより深いところへと沈んでいったのかもしれない。】(「自著をたどって」より)
○「ドストエフスキー遊園地──無為なる道化のすべり台──」:「ドストエフスキー」2号(12月15日 「ドストエフスキー」編集室)
○「流刑前の作品世界 『分身』を中心に」:『場 ドストエーフスキイの会の記録Ⅱ 1973-1978』(12月15日 海燕書房)
○「ドストエフスキーてんかん」:『場 ドストエーフスキイの会の記録Ⅱ 1973-1978』(12月15日 海燕書房)

一九八二年(昭和57年)33歳
◎『ドストエフスキーの作品Ⅰ』(12月5日 私家版)A5判・並製五八頁 非売品
 ※「『貧しき人々』の多視点的考察」所収。

一九八三年(昭和58年)34歳
○「ドストエフスキー遊園地──白痴のブランコ──」:「ドストエフスキー」3号(1月25日 「ドストエフスキー」編集室)
◎『ドストエフスキーの作品Ⅱ』(10月30日 私家版)A5判・並製九四頁 非売品
 ※「意識空間内分裂者による『分身』解釈」所収。

一九八四年(昭和59年)35歳
◎『ドストエフスキーの作品Ⅲ』(8月31日 私家版)A5判・並製八四頁 非売品
 ※「『フロハンチン氏』をめぐって」「おかみさん』の世界──胎内回帰とその挫折」所収。
○「〈書評〉中村健之介著『ドストエフスキー 生と死の感覚』」:「日本読書新聞」(10月1日 日本読書新聞

一九八五年(昭和60年)36歳
○「秘教術的「数」の象徴と円還する時間」:「ドストエフスキー研究」4号(1月15日 日本大学芸術学部文芸学科・清水正ゼミ)
○「スヴィドリガイロフの子供」:「ドストエフスキー研究」4号(1月15日 日本大学芸術学部文芸学科・清水正ゼミ)
○「図表・『罪と罰』の十三日間」:「ドストエフスキー研究」4号(1月15日 日本大学芸術学部文芸学科・清水正ゼミ)
○「図表・ラスコーリニコフの食事と金銭出納表」:「ドストエフスキー研究」4号(1月15日 日本大学芸術学部文芸学科・清水正ゼミ)
◎『ドストエフスキーの作品Ⅳ』(6月30日 私家版)A5判・並製一二〇頁 非売品
 ※「道化が戯れに道化を論ずれば──『ポルズンコフ』を中心に」「『弱い心の運命」「関係の破綻と現実還帰の試み──『正直な泥棒』『白夜』『他人の妻とベッドの下の夫』をめぐって」「父親殺しと再生への途──『ニェートチカ・ニェズヴァーノヴァ』について」「死の家の記録」「喜劇作者ドストエフスキ──ー『おじさんの夢』を中心に」「道化と赦しの物語──『ステパンチコヴォ村とその住民』について」所収。
◎『ドストエフスキーの作品・ⅠⅡⅢⅣ』(6月30日 呼夢書房)A5判箱入り 定価三六〇〇円
 ※『ドストエフスキーの作品Ⅰ』〜『ドストエフスキーの作品Ⅳ』までを箱に入れたもの。

一九八六年(昭和61年)37歳
○「秘教的「数」の象徴と円還する時間」:「ドストエフスキー研究」4号(1月15日 日本大学芸術学部文芸学科・清水正ゼミ)
○「スヴィドリガイロフの子供」:「ドストエフスキー研究」4号(1月15日 日本大学芸術学部文芸学科・清水正ゼミ)
○「〈書評〉精緻な室内楽としての主調音──共通した主体の消失ないしは隠蔽──江川卓亀山郁夫編『ドストエフスキーの現在』」:「週間読書人」No.1624(3月17日 読書人)
◎『ドストエフスキー罪と罰」の世界』(3月25日 創林社)A5判・上製四六五頁 定価三八〇〇円
 ※「第Ⅰ部」(「第一章 精神の空白性」「第二章 精神の跛行十牛図」「第三章 初期作品と十牛図」「第四章 百尺竿頭からの最初の投身──ラスコーリニコフの場合」「第五章 犯行後の軌跡──マルメラードフの臨終まで」「第六章 運命的な邂逅──ラスコーリニコフマルメラードフ」「第七章 マルメラードフの告白と聴衆」「第八章 踏み越えとラスコーリニコフの思想」「第九章 赦罪者ソーニャとラスコーリニコフの出会い」「第十章 ラザロの復活」「第十一章 犯行の告白とソーニャの指示」「第十二章 主人公はひとりの青年(один молодой человек)」「第十三章 スヴィドリガイロフの肖像」「第十四章 スヴィドリガイロフの謎」「第十五章 чудо(奇蹟)の実践者スヴィドリガイロフ」「第十六章 スヴィドリガイロフの孤独」「第十七章 死者もまた夢を見る」「第十八章 スヴィドリガイロフと一匹のはえ」「第十九章 スヴィドリガイロフと『オルフェ』の死の女神」「第二十章 〈復活〉へのプロセス」「第二十一章 ラスコーリニコフにおける“突然”の時性」「第二十二章 作者ドストエフスキーの事後処理」「第二十三章 ラスコーリニコフの復活」「第二十四章 作者と結託した批評家ポルフィーリイの予言」「第二十五章 もっとほかの理論とあれ(ЭТО)──リザヴェータ殺しをめぐって」「第二十六章 真夏の夜の夢と現代の青年」「第二十七章 帝王の緋袍(道化)」「第二十八章 ポルフィーリイと『オルフェ」「第二十九章 おしまいになってしまった男の信仰」)「第Ⅱ部(「ルージンをめぐって」「ラズミーヒン論──ぶりっこ仮面の“好青年”──」「『罪と罰』の女性をめぐって」「秘教術的「数」の象徴と円環する時間」「踏み越えの時と場所」「図表・『罪と罰』の十三日間」「ラスコーリニコフの食事と金銭出納表」)所収。
【「ドストエフスキー遊園地」などを書いて、わたしはドストエフスキーで戯れて戯れて戯れつきようと思っていたのだが、これは衰弱の兆候でもあったのだろう。わたしはドストエフスキー論に行き詰まっていた。(略)
 原稿はよほどのことがない限り喫茶店で書く。わたしは四度目の『罪と罰』論を書こうとしていた。テーブルについてノートを開け、いきなり書き出すのがいつものわたしのやり方だが、とうしても書けない。何も言葉が出てこない。才能が尽きたか、まさか。まさか、と思わなければ生けていけない。そうだ、ドストエフスキーについては書き尽くしたのではないか。こう思えば気も楽だ。よし、この際ドストエフスキーの墓参りにでも行ってこよう。そういうわけでソヴィエトへと行くことにした。ところで私は海外旅行など行ったこともない。友人の山形敬介と行くことにした。かくして総勢十名ほどのソヴィエト旅行ツァーの一員となったわたしと山形の珍道中が始まることとなった。
 ドストエフスキーが眠る芸術家墓地へ着いてみると、ドストエフスキーの墓の前にだけ人が集まっていた。花束も捧げられていた。わたしは感慨深く、なかなか墓の前に立つことができなかった。ドストエフスキーについてすべてを書き終えたなどと思った自分の傲慢を感じて恥ずかしかった。ソヴィエト旅行はわずか一週間であったが得るところは大きかった。なんか途方もないエネルギーをもらった感じであった。
 帰国してすぐに『罪と罰』論を開始した。わたしにとってドストエフスキーとはどういう存在なのか、そういった根源的な問題を視野において『罪と罰』論を書き進めていった。江川卓氏が「新潮」で「謎とき『罪と罰』」を述載し始めた。この江川氏の評論は〈謎とき〉を全面に押し出したもので毎回興味深かった。長年ドストエフスキーをロシア語で読んできた者ならではの卓見が随所に見られた。わたしは江川氏の〈謎とき〉にも十分に目を配りながら論を進めた。(略)
 この本を出してから長男が病気になり、半年間の入院後、十一歳で他界した。わたしは思うところがあって創林社版の『罪と罰』論のカバー表紙のデザインを変えた。どこをどのように変えたかを、今はまだ言いたくない。創林社版のカバー表紙は色違いを含めると三種類存在する。】(「自著をたどって」より)
  ●チェルノブイリ原子力発電所事故(4月26日)
◎『ドストエフスキーの作品研究』(6月30日 私家版)A5判・並製三〇三頁 限定三十部 非売品
 ※創林社版『ドストエフスキー罪と罰」』第Ⅰ部に収録した『罪と罰』論の第一章「精神の空白性」から第二十九章「おしまいになってしまった男の信仰」までを一冊にまとめた私家版。
◎『「罪と罰」の脇役達』(6月30日 私家版)A5判・並製一三二頁 限定三十部 非売品
 ※創林社版『ドストエフスキー罪と罰」』第Ⅱ部に収録した「ルージンをめぐって」「ラズミーヒン論」「『罪と罰』の女性をめぐって」を一冊に纏めた私家版。
○「〈鼎談〉ドストエフスキーの現在(江川卓・小沼文彦・清水正)」:(11月14日 江古田「和田屋」)

一九八七年(昭和62年)38歳
Д文学研究会を発足。主宰者として出版活動を開始する。「Д文学研究会」(デーブンガクケンキュウカイ)とは「ドストエフスキー文学研究会」の意味で「D文学研究会」とも表記する。
○「『罪と罰』キャスト表(清水ゼミ雄志編)」:「ドストエフスキー研究」5号(1月15日 日本大学芸術学部文芸学科・清水正ゼミ)
○「鼎談 ドストエフスキーの現在──『罪と罰』から『白痴』そして未完の『カラマーゾフ』へ──(小沼文彦・江川卓清水正)」:「江古田文学」12号(5月20日 江古田文学会
◎『死と復活の秘儀──「白痴」の世界』(10月1日 Д文学研究会)
 A5判・並製一九四頁 限定五十部 非売品
 【『罪と罰』論を書き終え、わたしは次の『白痴』論にとりかかった。が、途中で息子が病に倒れ、わたしは半年間いっさいぺンをとらなかった。風邪で長いこと熱の下がらなかった息子は急性骨髄性白血病と診断された。長男の名前は新人と書いてアラトと読む。『罪と罰』のエピローグに出てくる〈新人〉からとった名前で〈神の国の人〉の意味である。しかし、わたしはその名前を付けたときはそのように解釈していなかった。血で汚れたこの地上の世界を浄化し更新する使命を持った者、すなわち世界が終末を迎えた時に何人か生き残った者として把握していた。
 わたしは病室で息子に「名前変えようか」と言った。息子は無邪気な笑顔で何もかも見透したような眼差しをわたしに向けて「今の名前がいい」と言った。母親が死んだとき、わたしはすべてが許せるような気持ちになった。どんな人間も一度は死ななければならないのだ。どんな人間だって悲しい、淋しい。が、新人のときで違った。悲しみは憤怒となった。】(「自著をたどって」より)
○「第一章 『白痴』へ向けて──純粋の結末」「第二章 ムイシュキンは境を越えてやって来た」:「江古田文学」13号(10月20日 江古田文学会

一九八八年(昭和63年)39歳
○「第三章 ИДИОТ・新しい物語」「第四章 ホルバインのキリスト像をめぐって」「第五章 復活したキリストの無力」:「江古田文学」14号(5月30日 江古田文学会
◎『ドストエフスキー初期作品の世界』(6月28日 沖積舎)A5判・上製四〇四頁 定価六八〇〇円
 ※「ドストエフスキー──そのディオニュソス的世界」「『貧しき人々』の多視点的考察」「意識空間内分裂者による『分身』解釈」「『プロハルチン氏』をめぐって」「『おかみさん』の世界──胎内回帰とその挫折」「道化が戯れに道化を論ずれ場──『ポルズンコフ』を中心に」「『弱い心』の運命」所収。
【本書は二十二歳から二十九歳までの八年間に書いた初期作品論を一冊に纏めたものである。わたしのドストエフスキー論は雑誌に発表したり、それらを私家版で刊行することが多い。別に特別な理由があるわけではない。ただ単に出版社がつかないだけである。文学作品の批評などは商業的にはまず採算がとれないわけだから、出版社としても積極的に企画して印税まで払って出そうとはしない。一般読者向けに入門書の類を書くなら話は別だが、批評対象の作品に関して好きなように書いたものなど、とにかくびっくりするほど売れないものである。宮沢賢治の場合もそうだが、作家自身の作品は売れても研究書などはほとんど売れない。そこでいつも出版に関して悩むことになる。私家版の場合は極めて限られた人の手にしか渡らない。やはり書いた以上は多くの人に読んでもらいたいと思うのが人情である。
 ドストエフスキーはよく読まれているとは言っても、それは『罪と罰』とか『白痴』とか『悪霊』とか『カラマーゾフの兄弟』といった後期の作品で、初期作品や中期の喜劇的作品などはほとんど読まれていない。ドストエフスキー 研究をライフワークとした小林秀雄からして初期・中期作品を批評の対象とすることはなかった。まあ、『地下生活の手記』については短い批評を書いているが、それも完成された批評ではない。ドストエフスキーの文学を総体的に理解しようとすれば初期・中期の作品を抜かすわけにはいかない。それは今さら言うまでもなく当たり前のことなのだが、日本の文芸評論家は後期の作品にとらわれ、呑み込まれて初期・中期の作品にまで手をつけることができなかった。
 次に小沼文彦、江川卓、木下豊房各氏の惟薦文を引用しておく。
 小沼氏《この作家の初期の作品は後期の大作に幻惑される余り、従来ともすればなおざりにされてきた傾向がありました。しかし初期作品には後期作品に盛られるこの作家ならではの要素がすべて含まれていることから見ても、それでよいはずはありません。さきに「『罪と罰』の世界」でわれわれを瞠目させた清水正氏が、この関門としての独特な世界を解明してくれます。ドストエフスキーの愛読者たるもの決して見のがすわけにはいきますまい。》
 江川氏《清水正さんは、いまの日本でドス卜エフスキーをいちばん突きつめて読んでいる一人です。今度、これまで私家版でしか出ていなかった初期作品論がまとまって出るとのことで、私自身、これらの論稿にみずみずしい刺戟を受けた日身を想起しています。とりわけ、『プロハルチン氏」に〈悪魔に魂を売った道化人形〉の原型を、『おかみさん』に〈胎内復帰願望〉を読みとった手ぎわは、清水さんの若々しい熱気と独創性を感じさせるものでした。》
木下氏《著者によれば、ドストエフスキーの文学は唯一絶対の《我》が崩壊し、意識空間内に分裂した我が織り成すディオニュソス的世界である。著者はバフチンのいわゆるポリフォニー論に示唆を受けつつ、これを作家・作品・読者(評家)の三者の構造に転移し、さらにはそれを著者自身の「ドストエフスキー 体験」として恨底的に自己に引き受けることによって、無数の視点がダイナミックに交錯し交響するディオニュソスドストエフスキー論を見事に完成させた。》】(「自著をたどって」より)
●イラン・イラク戦争終結(8月20日)
◎『死と復活の秘儀──『アンナ・カレーニナ』と『銀河鉄道の夜』の世界──』(11月15日 Д文学研究会)
 【『アンナ・カレーニナ』論はわたしが初めて書いたトルストイの作品論である。三十代前半までわたしはどうしてもトルストイが読めなかった。ある時、トルストイを読もうと思った。『アンナ・カレーニナ』『戦争と平和』『復活』と読んでいった。『戦争と平和』を読んでいると、まさに現実の世界は小説の中にあり、こちらの現実が虚構に思えた。『アンナ・カレーニナ』はトルストイ作品の中では最もドス卜エフスキーに近い感じがした。ドストエフスキーに憑いている〈或るなにものか〉が『アンナ・カレーニナ』を執筆しているトルストイに憑いたのではないかとさえ思えた。『復活』はその題名に思うところがあり、一番最後に読むことに決めていた。この作品は場面によっては力強いリアリティを無条件に感じたが、〈復活〉という点に関しては余り説得力を感じなかった。
 ドストエフスキーを読み続けていると本当にうんざりするときがある。そこに描かれているのは屋恨裏部屋に閉じこもった観念的な青年ゃ、自意識過剰で気違いじみた小役人や夢想家や犯罪者が蠢いている。ああ、もっと清々しい読後感を覚えるような作品が読みたい。そう思って読んだのがトルストイであった。リョーヴィンが大鎌を振って草を刈る場面が延々と続く。はてしなく続く草原の地平線、巨大な真っ白な入道雲が立ち上がっている── わたしはそれらを眼前に見る思いで、自分もまた大鎌を振っていたかのように汗をかいた。トルストイはただものではない。かつて卜ルストイ山脈の背後にもう一つの未だ全貌を現さない山脈が潜んでいる、それがドストエフスキーの作品群だと言われた時代があった。が、わたしはそれとは反対のことを思った。ドストエフスキーはなんだかんだ言ってもぺテルブルクという都市の作家である。トルストイはロシアとかスラヴといった広大な領域を舞台にした作家である。スケールが違うなという印象は拭いがたい。
『アンナ・カレー ニナ』はまず第一にアンナを中心とした女たちの物語である。飛ぶ女アンナ、飛べない女ドリイ、そしてアンナという魔性の女に翻弄されたキチイの物語である。が、この物語にはアンナの悲しみを理解する人物は登場しなかった。『白痴』のナスターシャ・フィリポヴナにムイシュキン公爵が現出したようには、アンナの前には誰も現れなかった。わたしはアンナが、その不倫の相手に選んだヴロンスキー青年などより、その夫カレーニンの方がはるかに興味深かった。この論を書いているときもいずれは本格的にカレーニン論を書いてみたいと思っていた。『白痴』でもラゴージンやムイシュキンなどより、ナスターシャの最初の男トーツキイが面白かった。こういったある意味本格的な俗物をドストエフスキーがうまく描いているとは思わない。カレーニンやトーツキイ論を書こうと思っていたが、いたずらに時が過ぎた。
 それにしても、愛する母親アンナを失った息子セリョー ジャの悲しみをどうしたらよかろう。
 わたしが家に帰ると、妻が「唇から血が流れている」と言った。わたしは無意識のうちに唇を噛んで歩いていたのだ。わたしが初めて読んだ宮沢賢治の童話が『銀河鉄道の夜』であった。カムパネルラを失ったジョバンニの慟哭が息子を失ったわたしの慟哭に重なった。
 日大板橋病院の桜並木をわたしは小さな居酒屋のカウンターから眺めていた。闇の中に桜の花びらが怪しく風に舞っていた。その並木道を風車売りの爺さんがリヤカーを引いて歩いていく。リヤカーいっぱいに赤い風車が回っている。白髪の爺さんが腰を曲げて歩いていく。その爺さんの後ろ姿、回る回る赤い赤い風車、怪しく渦を巻いて舞う真っ白な桜、桜、桜……幻か、一瞬自分の目を疑うほどにその光景が鮮やかだった。新人よ、父であるわたしは何もしてやることができない。せめて一分なりとも、せめて一秒なりともおまえのそばにいてやることしかできない。わたしの天使、新人よ、おまえがこの世にわたしの息子として誕生してきたことに感謝する。深酒で酔っぱらって病室に戻り、新人の側に眠る。
 愛する者を失ったときは、愛する者を失ったときは、死ななければならない、死ななければならない、業が深くて死ねなければ、せめて奉仕の気持ちになることです……とうたった詩人がいた。中原中也が息子を亡くしたときの悲しみの歌だ。わたしは怒りに燃えて修羅となった。つばきし、歯ぎしり行き来するわたしは一人の修羅となったのだ。
 愛する者を失った者はどう生きていけばいいのか。奉仕の気持ちを説いた中原中也は自分自身が天折してしまった。『アンナ・カレーニナ』論を書き終えて、わたしがすぐにとりかかったのは『銀河鉄道の夜』論であった。わたしは書くこと、書きつづけることで新人の魂と共にある。『死と復活の秘儀』の二冊は限定五十部・私家版として新人に捧げられた。】
(「自著をたどって」より)

一九八九年(昭和64年・平成1年)40歳
○「〈自作を語る〉『宮沢賢治ドストエフスキー』」:「呼夢便り」No.1(4月25日 呼夢書房)
◎『宮沢賢治ドストエフスキー──「銀河鉄道の夜」と「カラマーゾフの兄弟」における死と復活の秘儀』(5月20日 創樹社)四六判・上製二六六頁 定価一八八〇円
 ※「『銀河鉄道の夜』──ジョバンニをめぐって」「幻想第四次空間の旅──ほんとうの神を求めて──」「『銀河鉄道の夜』の象徴的世界」「『銀河鉄道の夜』と『カラマーゾフの兄弟』」「『銀河鉄道の夜』から『カラマーゾフの兄弟』へ」「スロヴォエルソフ=スネギリョフの《内部》」「思いこみとソーニャの踏み越え」所収。
宮沢賢治が保阪嘉内などの影響もあってトルストイを読んでいたことは確実だし、年譜にも十七歳頃ロシア文学を読んだことが記されている。トルストイは自分が生まれ育ったヤーナヤ・ポリャーナで農民の教育にあたったことはよく知られている。宮沢賢治がそれを真似て羅須地人協会を設立したことも明らかだ。『ポラーノの広場』の主人公レオーノキューストはレオ(トルストイの名前はレフでこれはすなわちライオン)のキュー スト(これは〈九の人〉〈キリスト〉である。こういった点に関しては、拙著『宮沢賢治・童話の謎──「ポラーノの広場」をめぐって──』(一九九三年五月十二日 鳥影社)で詳細に論じたが、いずれにせよ宮沢賢治トルストイに強く影響されていたことは彼の人生、作品を通しても明らかだ。
 問題は宮沢賢治ドストエフスキーを読んでいたかどうかということである。今のところ宮沢賢治ドストエフスキーを読んでいたという実証的な次元での証拠はあがっていない。本書でわたしが指摘したことは『銀河鉄道の夜』と『カラマーゾフの兄弟』における内容の次元での共通性である。ジョバンニはロシア語ではイヴァンである。ジョバンニ少年とイヴァン・カラマーゾフの〈思想〉はその表出度においては比較にならないが、内容においては深く密接に繋がっている。詳細に関しては拙著にまかせるが、重要なことは『銀河鉄道の夜』と『カラマー ゾフの兄弟』が同じような問題を扱っていたということである。実証的なアプローチは必要だが、それだけにこだわって読み手の側の想像力を押さえるようなことがあってはならない。】(「自著をたどって」より)
 ●中国天安門事件(6月4日)
ベルリンの壁崩壊(11月10日)
●元ルーマニア大統領チャウシェスク夫妻公開処刑(12月25日)

一九九〇年(平成2年)41歳
○「ムイシュキン公爵の多義性──異人論の地平から」:「江古田文学」17号(1月20日 江古田文学会

◎『「悪霊」論──ドストエフスキーの作品世界』(1月20日 Д文学研究会)A5判・上製二一三頁 定価三八〇〇円
 ※「Ⅰ」(「政治的季節の『悪霊』」「罪の感覚」「『悪霊』の主人公」「平凡社版『悪霊』」「人物の表記法」「『悪霊』というタイトル」「『悪霊』の人物たち」「悪鬼どもとムイシュキン公爵」「ムイシュキン公爵の危険性」)「Ⅱ」(「ステパン先生の肖像画」「ステパンの精神的血縁者」「『悪霊』と『ステパンチゴォ村しその住人』」「『失意の学徒』と少年ニコライ」「ステパン先生の都落ち」「ステパン先生とエララーシュ」「ステパン先生とヴァルヴァーラ夫人」「「学問の受難者」の理想主義」「私生児性と浮遊物的存在」「ステパン先生の警鐘」「企業心の魔」「「自分自身の労働」と「旧ロシア的たわごと」「ステパン先生の講義内容」「ステパン先生の“神”」「ステパン先生の劇詩における汎神論的《生の饗宴》」「内在神と超越神」)「Ⅲ」(「ベリンスキーとゴーゴリの往復書簡をめぐって」「四〇年代のドストエフスキー・師ベリンスキーとの関係」「革命家ドストエフスキー」「師ベリンスキーの影響と愛憎劇」「初期作品に対するベリンスキーの批評」「ロシアとロシアの民衆をめぐって」「ロシアの民衆と貴族」)「Ⅳ」(シャートフの思想と肖像をめぐって」「シャートフとドストエフスキーの“転向”」)「Ⅴ」(キリーロフの思想と肖像をめぐって」「人神思想──ラスコーリニコフ、イッポリートからキリーロフへ」「永久調和の瞬間」「キリーロフの“死”をめぐって」)「Ⅵ」(「シガリョフ理論をめぐって」)「Ⅶ」(政治的陰謀家ピョートルの肖像──父親ステパンとの関係において」「ペテン師ピョートルの“思想”」「社会主義批判とピョートルの表層的役割」「天才的な使嗾者ピョートル」「シャートフ殺害と憎悪の哲学」「謎を秘めた政治的人間の役割」「美を愛するニヒリストの同家と陰謀」「政治的道化師ピョートルの陰謀と破綻」)「Ⅷ」(「ピョートルの“秘密”」「秘密工作員ピョートル」「スパイの典型」「虚無の演技者」)「Ⅸ」(偶像化されすぎたニコライ・スタヴローギン」)所収。
【二十歳の頃はキリーロフの人神思想やピョートルの革命思想、シャートフの〈ロシアの神〉、そしてニコライ・スタヴローギンの虚無を中心に書き進めていったが、二十年ぶりに読む『悪霊』はずいぶんと違った印象を持った。ステパン先生やニコライの母親ヴァルヴーラ夫人が大きな比重をもって迫ってきたし、舞台となったスクヴァレーシニキが興味深かった。】(「自著をたどって」より)
○「死と復活の秘儀『白痴』の世界(3)」:「江古田文学」17号(1月20日 江古田文学会
○「〈書評〉中村健之介『ドストエフスキー人物事典』」:「図書新聞」No.693(6月23日 図書新聞社)
◎『「悪霊」論──ドストエフスキーの作品世界』(7月18日 鳥影社)A5判・上製二一三頁 定価二八〇〇円
 ※Д文学研究会版『「悪霊」論──ドストエフスキーの作品世界』の新装版
◎『ドストエフスキー「悪霊」の世界』(7月25日 Д文学研究会)A5判・並製三九八頁 限定百部 定価二八〇〇円
 ※「ニコライ・スタヴローギンの肖像」「ニコライの精神分裂」「ニコライの暴挙・スキャンダル」「息子ニコライと太母ヴァルヴァーラ」「ひき裂かれた自己」「仮面(にせ―自己)としてのニコライの虚無」「分裂病質者ニコライの不安と恐怖」「太母に対する第一次反抗」「太母に対する第二次反抗」「太母殺しの挫折の唯一性の奪回へ向けて」「ニコライの帰郷と呪縛霊ヴァルヴァーラ」「美男子ニコライ」「ニコライの狭量と倨傲」「ニコライの現在時と空虚な内的自己」「太母と息子ニコライの対決」「敗残者ニコライの茶番劇」「ペテルブルクでのニコライ」「アントン君のニコライ観」「ニコライの堕落と虚偽」「ニコライの耐える意志」「買いかぶられすぎたニコライ」「ニコライの卑小さ」「なまぬるき者ニコライ」「ニコライとスヴィドリガイロフ」「罪の感覚」「ニコライの病理的傾向(サド・マゾ)」「善悪観念の磨滅」「マトリョーシャの現出・ニコライの悔恨」「ニコライとヴァルヴァーラ」「アントン君の注釈」「描かれざる少女陵辱・セックス」「ニコライとマトリョーシャ」
「凌辱後の足どり」「神殺しの秘儀」「ニコライの鏡像・マトリョーシャとヴァルヴァーラ」「赤い蜘蛛」「「赤い蜘蛛」と「巨大ないやらしい蜘蛛」」「「赤い蜘蛛」と太母ヴァルヴァーラ」「“神”を試みる実験」「
黄金時代の夢」「楽園からの失墜」「またしても「赤い蜘蛛」の現出」「ニコライの実験と分裂・未だ信仰は遠く」「新しい犯罪」「アントン君による告白の解剖」「チーホンによる告白の解剖から」「ニコライに赦罪は可能か」「チーホン対ニコライ」「チーホンの肖像・聖と俗の混交」「チーホンとポルフィーリイ」「罪と回心」「回心と死と天国」「回心の不可能と懐疑」「チーホンの語られざる罪」「宗教的経験の諸相(回心をめぐって)」「ニコライと分身・悪霊」「ニコライとチーホンの“傲慢”」「スピノザの神をめぐって」「スピノザドストエフスキーの人神論者達」「神=自然の認識と信仰」「死の勝利と復活・スピノザとイッポリート」「スピノザの反キリスト教的性格とニコライ」「人神キリスト・スピノザとキリーロフ」「スピノザの神の認識と信仰」「スピノザからサド侯爵の閨房哲学へ」「道楽者ニコライ」「悪徳の栄え―サド侯爵の悪徳漢とドストエフスキーの人神論者たち」「サド文学の危険性(楽天性)」「サド侯爵の想像力の質(神=自然との一体化)」「無垢と怪物性―アリョーシャ・ヴァルコフスキーをめぐって」「悪の哲学者・ヴァルルコフスキー公爵」「「気紛れ」と「恥さらし」」「秘中の秘」「悪の哲学と実践―サド侯爵とワルコフスキー公爵」「地下男の誕生」「悪の語り手」「屈辱の快感―サディストになりそこなったマゾヒスト」「自然の法則の二義性」「自然の神」と虚無の戯れ」「醜悪な恥ずべき犯罪・地下男とニコライ」「嫌悪を抱かせる穴蔵男」「地下男が想定した読者」「神=自然への挑戦と甘え」「オルゴールの釘」「神の試みから回心へむけて」「ステパン先生の放浪―街道と百姓」「百姓の指示―ハートヴォからウスチェヴォへ、そしてスパーソフへ」「ソフィヤとの出会いと福音書」「名前にこめられた意味」「ルカ福音書(ゲラサの豚)と『悪霊』」「「ひとりの男」とイエス―汚れた霊と神性の顕現」「豚の死と生き延びたレギオン」「奇蹟―悪鬼追放の一大イベント」「奇蹟―おびえとメシア待望」「未だ来ぬイエス」「ステパン先生の回心」「太母ヴァルヴァーラの呑み込み」「太母とソフィヤ」「神話学的・心理学的側面からの考察」「『悪霊』の日付をめぐって―数・曜日の神秘的運命性」「ニコライの運命にまとわりつく三、六、九」「一八七〇年八月、九月、十月の旧ロシア暦表」「『悪霊』の足取り」「ステパン先生の遍歴の足取り」「『悪霊』のモデル表」「『悪霊』の三角関係図」「あとがき」)所収。
 【二十歳の頃には何か巨大な存在に見えていたニコライ・スタヴローギンが色褪せてきた。こんな青年のどこに魅力があるのか、といった感じである。結局彼は母親ヴァルヴァーラの呪縛から解き放たれなかった息子であり、一口でいえばマザコンの甘ちゃんなのではないか。要するに本書は、ニコライ・スタヴローギンの神格化から離れた地点で終始冷静に分析した。キリーロフもシャートフも、もはやわたしの魂を捕らえることはできなかった。『悪霊』にニコライ・スタヴローギンを登場させる必要はなかった、というのが一番の思いである。二十歳の頃には何か巨大な存在に見えていたニコライ・スタヴローギンが色褪せてきた。こんな青年のどこに魅力があるのか、といった感じである。結局彼は母親ヴァルヴァーラの呪縛から解き放たれなかった息子であり、一口でいえばマザコンの甘ちゃんなのではないか。要するに本書は、ニコライ・スタヴローギンの神格化から離れた地点で終始冷静に分析した。キリーロフもシャートフも、もはやわたしの魂を捕らえることはできなかった。『悪霊』にニコライ・スタヴローギンを登場させる必要はなかった、というのが一番の思いである。
 この本にはニコライ・スタヴローギンの深層心理学的側面からの分析、ステパンとニコライのホモセクシャルな関係など登場人物たちの意外な性的つながり、世界で初めての日付解明など、自分で言うのもなんだが画期的な発見や謎解きがなされている。】(「自著をたどって」より)
◎『ドストエフスキー「悪霊」の世界』(9月10日 鳥影社)A5判・並製三九九頁 定価二八〇〇円
 ※Д文学研究会版『ドストエフスキー「悪霊」の世界』の新装版。
○「『悪霊』の作者アントン君をめぐって」「ドストエフスキー研究」10号(12月25日 日本大学芸術学部文芸学科・清水正ゼミ)

一九九一年(平成3年)42歳
Д文学研究会の機関誌として「Д文学通信」の発行を開始する。
○「創刊にあたって」:「Д文学通信」No.1(1月1日 Д文学研究会)
○「『悪霊』の日付解明」:「Д文学通信」No.4(1月5日 Д文学研究会)
○「〈書評〉ベローフ『「罪と罰」注解』:「週間読書人」No.1865(1月7日 読書人)
○「『悪霊』とその周辺(1)──《征服者》リーザと忠実な騎士──」:「Д文学通信」No.5(1月8日 Д文学研究会)
  ●湾岸戦争勃発(1月17日)
○「『悪霊』とその周辺(2)──『罪と罰』の聖痴女──」:「Д文学通信」No.6(1月18日 Д文学研究会)
○「『悪霊』とその周辺──リーザの罪と罰」:「江古田文学」19号(1月20日 江古田文学会) 
○「『悪霊』とその周辺(3)──マリヤ・レビャートキナの神=自然──」「マリヤ・レビャートキナの聖母=大地信仰」:「Д文学通信」No.7(1月25日 Д文学研究会)
○「『悪霊』とその周辺(4)──狂女マリヤの透視と「汚れた霊」──」:「Д文学通信」No.8(2月7日 Д文学研究会)
○「『悪霊』とその周辺(5)──マリヤ殺害者フェージカ──」:「Д文学通信」No.9(2月16日 Д文学研究会)
○「日本で刊行された『悪霊』(蔵書から紹介する)」:「Д文学通信」No.10(2月27日 Д文学研究会)
○「『悪霊』とその周辺(6)──太母対聖母の勝利者へ向けて」:「Д文学通信」No.10(2月27日 Д文学研究会)
○「“幻の本”『青年』後編──邦語訳ドストエフスキー全集をめぐって──」:「Д文学通信」No.12(3月20日 Д文学研究会)
○「賢治童話を読む(連載2)『注文の多い料理店』をめぐって」:「Д文学通信」No.12(3月20日 Д文学研究会)
 ※「紳士とラスコーリニコフの非凡人」の項あり。
○「賢治童話を読む(連載4)『注文の多い料理店』をめぐって」:「Д文学通信」No.14(3月30日 Д文学研究会)
 ※「「紙くづ」顔の紳士とルージン」の項あり。
○「賢治童話を読む(連載11)『注文の多い料理店』をめぐって」:「Д文学通信」No.21(4月25日 Д文学研究会)
 ※「紙くづ顔と虚無とジャーナリズム」の項で、ピョートル・ステパノヴィチの虚無に触れる。
○「『悪霊』について──神話学的心理学的側面からの考察」:「ドストエーフスキイ広場」1号(5月1日 ドストエーフスキイの会)
○「賢治童話を読む(連載13)『注文の多い料理店』をめぐって」:「Д文学通信」No.23(5月10日 Д文学研究会)
 ※「若い二人の紳士の神話学的側面」の項で、ニコライと太母ヴァルヴァーラについて論じる。
○「『悪霊』とその周辺」:「江古田文学」20号(6月30日 江古田文学会
 ※「『罪と罰』の聖痴女」(「Д文学通信」No.6)と「『悪霊』の作者アントン君をめぐって」(「ドストエフスキー研究」10号)の二論考を再録。
○「『となりのトトロ』の授業をめぐって──大学教育・学生の反応・宮沢賢治ドストエフスキーなど──」:「Д文学通信」No.38(7月29日 D文学研究会
○「賢治童話を読む(連載27)『銀河鉄道の夜』をめぐって〔14〕」:「Д文学通信」No.39(7月30日 Д文学研究会)
 ※「ジョバンニ少年の試練──『銀河鉄道の夜』と『分身』(1)」の項あり。
○「賢治童話を読む(連載28)『銀河鉄道の夜』をめぐって〔15〕」:「Д文学通信」No.40(7月31日 Д文学研究会)
 ※「恐るべき夜──『銀河鉄道の夜』と『分身』(2)」の項あり。
○「『少年たち』を観て」:「Д文学通信」No.45(8月26日 Д文学研究会)
 ※『少年たち』は『カラマーゾフの兄弟』の主に第四部第十編「少年たち」を映画化した作品。監督はレニータ・グリゴリエワ/ユーリー・グリゴリエフ。
○「臨死体験 側頭葉シルビウス裂 神との対話 側頭葉てんかん ドストエフスキー 宮沢賢治」:「Д文学通信」No.46(8月27日 D文学研究会
◎『宮沢賢治を読む 「注文の多い料理店の世界』(9月20日 Д文学研究会)A5判・並製一九八頁 限定五十部・非売品
 ※「一五 「紙くづ」顔の紳士とルージン」「紙くづ顔と虚無とジャーナリズム」所収。
◎『宮沢賢治を読む 「注文の多い料理店の世界』(10月10日 鳥影社)A5判・並製一九八頁 定価二〇〇〇円
 ※Д文学研究会版『宮沢賢治を読む 「注文の多い料理店の世界』の新装版。
◎『ドストエフスキー罪と罰」の世界』(11月27日 鳥影社)A5判・上製四六三頁 定価三九〇〇円
 ※創林社版『ドストエフスキー罪と罰」の世界』の新装・改訂版。
○「『ドストエフスキー罪と罰」の世界』が鳥影社より刊行されたので紹介します」:「Д文学通信」No.57(11月28日 Д文学研究会)
◎『ドストエフスキー「白痴」の世界』(11月30日 鳥影社)
 ※「第Ⅰ部『白痴』の世界」(『白痴』へ向けて──純粋の結末──」「ムイシュキンは境(Граница)を超えてやって来」「ИДИОТ・新しい物語」「ホルバインのキリスト像をめぐって」「復活したキリストの無力」「ムイシュキンの魔」「ナスターシャ・フィリッポヴナの肖像」「レーベジェフの肖像」「トーツキイのプチジョー」「ムイシュキンの多義性──異人論の地平から──」)「第Ⅱ部『アンナ・カレーニナ』の世界 アンナの跳躍と死をめぐって──死と復活の秘儀──」(「第八章 ラスコーリニコフのあれとアンナの跳躍」「第九章 跳躍の軌跡・アンナとゴリャートキン」「第十三章 ゴリャートキンの発狂とアンナの死ぬ・自由と復活」「第十五章 ラスコーリニコフの復活とアンナの死」「第十六章 アンナの死とイッポリートの「死」」「第十七章 もう一人のアンナ=ナスターシャ・フィリッポヴナ」「第十八章 神の使徒・ひげぼうぼうの百姓とムイシュキン公爵」)所収。
【『ドストエフスキー罪と罰」の世界』とほぼ同時期に刊行した著作である。本書には先に私家版で刊行した『死と復活の秘儀──「白痴」の世界』(一九八七年十月一日 Д文学研究会)に収録した『白痴』論と『死と復活の秘儀──「アンナ・カレー ニナ」と「銀河鉄道の夜」の世界── 』(一九八八年十一月十五日 Д文学研究会)に収録した『アンナ・カレーニナ』論とで構成した。私家版二著は各限定五十部でほとんど人の自に触れていない。刊行したのはいいが、それを人に読んでもらうという気持ちにはあまりならなかった。ただ新人に捧げるという気持ちだけが強かった。
 トルストイの作品では『アンナ・カレーニナ』だけが批評意欲をそそった。『戦争と平和』は論じるには大きすぎるとでも感じたのだろうか。いや、ドストエフスキー以外にこういった巨大な作家を相手にすると命がいくつあっても足りないと思ったからだ。トルストイのオリジナル版九十巻全集は入手できなかったがリプリント版は研究室Dに置いてある。大学に出勤すると否応なしにこの全集の背表紙が目に飛び込んでくる。学問とか研究は本当にきりがない。時聞がいくらあっても足りない。時間と相談しながらの研究などたかが知れているとはつくづく思っているが、限りある時間の中でやれるところまでやろうという気持ちが失せたことはない。
 トルストイは『アンナ・カレー ニナ』で「死」のところだけ見出しをつけている。トルストイは死に対して極度の恐怖を抱き続けていた。死を恐れている者が〈復活〉を信じているわけもない。トルストイの『復活』は題名に反して〈復活〉の内実に肉薄しているようには思えなかった。】(「自著をたどって」より)
ソ連崩壊(12月25日)
○「『白痴』(ムイシュキン)の足どり」:「ドストエフスキー研究」11号(12月25日 日本大学芸術学部文芸学科・清水正ゼミ)
○「ナスターシャ・フィリポヴナ・バラシコワの履歴」:「ドストエフスキー研究」11号(12月25日 日本大学芸術学部文芸学科・清水正ゼミ)
○「賢治童話を読む(連載44)『オツベルと象』をめぐって〔12〕」(「ヨブの嘆きからイヴァン・カラマーゾフの反逆へ──不条理な“事実にとどまる”ことをめぐって──」):「Д文学通信」No.68(12月29日)

一九九二年(平成4年)43歳
○「賢治童話を読む(54)第Ⅱ部『オツベルと象』をめぐって〔1〕」(「罪と永生──『ヨブ記』と『カラマーゾフの兄弟』における“死んだ子供”をめぐって──」):「Д文学通信」No.83(1月30日 Д文学研究会)
◎『宮沢賢治の宇宙──『銀河鉄道の夜』の謎──』(7月7日 Д文学研究会)A5判・並製二三三頁 限定五十部・私家版 非売品
 ※「二〇章 ジョバンニ少年の試練──『銀河鉄道の夜』と『分身』(1)──」「二一章 恐るべき夜──『銀河鉄道の夜』と『分身』(2)──」「二四章 〈キリスト〉を体現した少年カムパネルラとジョバンニ少年の使命にまつわる諸問題」所収。
◎『宮沢賢治の宇宙──「銀河鉄道の夜」の謎──』(9月7日 鳥影社)A5判・並製二三三頁 定価二八〇〇円
 ※Д文学研究会版『宮沢賢治の宇宙──「銀河鉄道の夜」の謎──』の新装版。
◎『宮沢賢治の神秘──「オツベルと象」をめぐって──』(10月27日 鳥影社)A5判・上製五三三頁 定価六八〇〇円
 ※「第Ⅰ部二三章 ヨブの嘆きからイヴァン・カラマーゾフの反逆へ──不条理な〈事実にとどまる〉ことをめぐって──」「第Ⅱ部一章 罪と永生──『ヨブ記録』と『カラマーゾフの兄弟』における〈死んだ子供〉をめぐって──」所収。
 
一九九三年(平成5年)44歳
○「誰よりも拍手を、そして私だけが拍手をしなかった──ユーリー・リュビーモフ演出『罪と罰』を観る」:「Д文学通信」No.174(4月1日 Д文学研究会)
◎『宮沢賢治・童話の謎──『ポラーノの広場』をめぐって──』(5月12日 鳥影社)A5判・上製四七一頁 定価四八〇〇円
 ※「第Ⅰ部『ポラーノの広場』・謎と神秘」(「三章 非・小役人的なレオーノキューストとイーハトーヴォ──ドストエフスキーの初期作品の役人たちとの関連において──」)「第Ⅱ部『ポラーノの広場』・解体と再構築」(「六章 組織の中の小役人と組織の中の〈ぼんぼん〉──ドストエフスキーの初期作品の人物たちとの関連において──」「九章 レオーノキューストとロザーロ──ラスコルニコフとソーニャとの関連において──」「一三章 夢想家と怪物デステゥパーゴ──ドストエフスキーの人物との関連において──」)「第Ⅲ部『ポラーノの広場』・レオーノキューストの現実」(「ドストエフスキーが見るレーヴイン(トルストイ)」)所収。
◎『「悪霊」の謎──ドストエフスキー文学の深層』(8月28日 鳥影社)A5判・上製二一一頁 定価二八〇〇円
 ※「第一章 リーザの罪と罰」(「江古田文学」19号)「第二章 《征服者》リーザと忠実な騎士マヴリーキー」(「Д文学通信」No.5 )「第三章 『罪と罰』の聖痴女」(「Д文学通信」No.6/「江古田文学」20号)「第四章 マリヤ・レビャートキナの神=自然」(「Д文学通信」No.7)「第五章 マリヤ・レビャートキナの聖母=大地信仰」(「Д文学通信」No.7)「第六章 狂女マリヤの透視と「汚れた霊」」(「Д文学通信」No.8)「第七章 マリヤ殺害者フェージカ」(「Д文学通信」No.9)「第八章 〈太母〉対〈聖母〉の勝利者に向けて」(「Д文学通信」No.10)「第九章 『悪霊』の作者アントン君をめぐって」(「ドストエフスキー研究」10号/「江古田文学」20号)所収。
【『悪霊』論の第三部である。『悪霊』は国家から派遣されたスパイであるアントン・Гが、自由主義者ステパン先生のところにもぐりこんで情報を収集して書き上げたスクヴァレー シニキにおける革命運動顛末記である、というのがわたしの説である。ステパン先生はホモであり、彼はニコライ・スタヴロー ギンが十歳ぐらいのときにそういった関係を取り結んだと考えられる。
 とうぜんアントンはステパンとホモの関係を取り結ぶことでステパンの絶大な信頼を獲得していた。アントンとステパンのホモ関係およびアントンのスパイであ