「ドストエフスキー『白痴』より」を観劇

東京ノーヴィ・レパートリーシアターの中村恵子さんより「ドストエフスキー『白痴』より」公演の招待状をいただいた。今まで何回も招待を受けていたが公務と重なり行けなかった。今日は市ヶ谷の日大本部で図書館長会議が三時からあり、四時過ぎには自由時間がとれたので、さっそく劇場シアターカイのある両国へ向かった。着いたのは四時過ぎ。場所を確認するために回向院境内に入り、そこでおじさんに場所を聞くと歩いて一分ほどの所。が、安心はできない。わたしのようなひどい方向音痴は確実に場所を確認しておく必要がある。案の定、シアターカイの事務所のあるビルの二階へあがってうろちょろしたあげく、ベンチで休憩している若いサラリーマンに場所を聞くことになった。彼は親切に階下の奥まった一カ所を指で示して教えてくれた。なれているとはいえ、方向音痴は目的地につくまでが一苦労なのである。劇場前で写真撮影して、駅近くのマックで開場時間の六時までコーヒータイム。



『白痴』の原作はもちろんドストエフスキー、演出はロシア功労芸術家レオニード・アニシモフ、脚色はゲオルギー・トフストノーゴフ、翻訳は遠坂創三、上演台本は東京ノーヴィ・レパートリーシアター、舞台美術デザインはセルゲイ・アクショーノフ、衣装デザインは時広真吾(リリック)、作曲・音楽監督は後藤浩明、声の出演は永井一郎である。チラシには【文豪ドストエフスキーが描く「善良で、最も美しい人間とは?」 美しい人たちが、なぜ殺され、心を壊されなければならないのか? エゴイズムの世界で矛盾しながら苦しめあう私たちの様相。 スイスでてんかんの治療をしていたムイシュキン公爵が、数年ぶりにロシアに戻ってきた。その道中に知り合ったロゴージン、彼の運命の女性ナスターシャ、そして公爵に思いを寄せるアグラーヤ、4人の複雑な関係は意外な結末へと突き進む。】とある。
劇場に着いたのは六時十分。前から五列目の右端の席につく。劇場は観客百名ほどが入る広さ。六時半開演。視力が弱くなっているので目がねをかけても俳優たちの顔がはっきりと見えない。一番前の席をとるべきだったと後悔した。サングラスの方が少しはよく見えるので、俳優の表情が見たい場面ではこちらをかけた。冒頭、ペテルブルク行きの列車内でラゴージンとムイシュキンが向かい合わせに座って会話する場面で、役者二人が自分たちの体を前後に振り、椅子を動かすなどして、揺れる列車の臨場感をだしていた。おもしろい演出だと思った。ムイシュキン役の俳優が中性的な声を出していたので途中までずっと女性だと思っていた。野田秀樹演出の「贋作『罪と罰』」でラスコーリニコフ役に大竹しのぶをキャスティングしていたので、ムイシュキンを女性が演ずるのもなかなかおもしろい演出だなどと一人勝手に感心したりしていた。発声を女性っぽくすることで、ムイシュキンの異人性が際だっていた。ムイシュキンの道化的性格がさらりと軽妙な感じででていたのがいい。この場にレーベジェフというドストエフスキー文学の中でも傑出した道化が登場するが、わたしが見た限り、その道化性が存分に発揮されているようには思えなかった。その他、フェルディシチェンコやイヴォルギン将軍の道化ぶりもかなり抑制されていたように感じた。イヴォルギンなどは三倍ぐらい大げさにグチャグチャにしてもよかったのではないか、そのことでムイシュキンの軽妙な道化性がさらに効果的になったのではないかと思った。
いずれにしても今回の観劇でムイシュキン役の俳優には感激した。スイスで療養生活を送っていた時のマリーの思い出話や、ナスターシャ・フィリッポヴナの恥辱にまみれた苦しみと悲しみを理解して話しかける場面にはおもわず涙がこぼれた。ムイシュキンにスポットライトをあてることで、彼の話は観客席にいるひとりひとりに語りかけることになった。百人ほどの観客の魂に響いたこと間違いない。ムイシュキンの語りや仕草は、時に観客のほほえましい笑いを誘っていた。ムイシュキンのてんかん発作、ラゴージンのムイシュキンに対する殺意、憎悪、ナスターシャとアグラーヤの狂気的な対立葛藤、そしてラゴージンによるナスターシャ殺害へといたる実に深刻な悲劇的な内容なのに、ムイシュキン役の俳優による軽妙な道化性の卓抜な演技によって、この作品に潜む喜劇的要素がさりげなく表現されていたのはよかった。演出家のドストエフスキーに対する深い理解がなければこのような演出は不可能であろう。
芝居が終わって、演出家のレオニード・アニシモフ氏に持参した『清水正ドストエフスキー論全集』第六巻の「『悪霊』の世界」をさしあげた。招待してくださった中村恵子さんには『『白痴』の世界』『宮沢賢治銀河鉄道の夜』の世界』『日本のマンガ家 つげ義春』をさしあげた。ムイシュキン役の菅沢晃氏とはほんの十分ほど立ち話をしただけだったが、そのうちじっくりとムイシュキンについて語り合いたいと思った。久しぶりに興奮した三時間であった。

演出家レオニード・アニシモフ氏と。

ガーニャの母親役を演じた中村恵子さんと。

ムイシュキン公爵役を演じた菅沢晃氏と。