モーパッサン『ベラミ』を読む(連載52) ──『罪と罰』と関連づけながら── 清水 正
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有即無 無即有 有無即空 空即空 空空空 正空 (清水空雲)
モーパッサン『ベラミ』を読む(連載52)
──『罪と罰』と関連づけながら──
清水 正
探訪記者サン-ボタンはフォレスチエ夫人のことを〈食えない女〉〈利口な女〉、放蕩老人ヴォードレック伯爵の〈情婦〉で、この伯爵が持参金付きでフォレスチエと結婚させたといい、フォレスチエはこの女を女房にした運のいい男だと言っている。ジョルジュは〈骨董漁りをやる好事家の好奇心〉で改めてマドレーヌを眺めたとき、この美しいブロンドの女が〈愛撫のために作られた女〉と思い、同時にこの女との成功を確信する。この上等な〈果物〉は自分が手を延ばしさえすればもぎ取れると夢疑わなかった。しかしこの女はジョルジュの思いを超えた女として描かれている。
マドレーヌの特長をよく表している彼女自身のジョルジュに向けての言葉を引いておこう。「私を長いこと好きになっていることのできる人なんてありませんもの」「私にとっては恋をする男は生きている人間の数から抹殺されるのです。白痴になるのです。白痴になるばかりじゃない、危険になるのです。恋愛で私に近づいてくる人とは、ないしはそれを自称する人とは、私はいっさい打ちとけた関係を絶ちますの。第一に気づまりですし、それに、いつ発作を起こすか知れない狂犬なみに油断がならないのですもの。ですから、その人たちの病気が癒るまで、その人たちと精神的に隔絶することにしていますの。これをお忘れにならないでね。あなた方の間では恋愛は一種の食欲みたいなものだということはよく存じていますの。私にとっては、反対に、一種の、……なんと言いますか……魂の交歓ですわ。それは男の方にはわからないものですわ。あなた方にわかるのは言葉で、私のは精神ですね」「私は、決して、決してあなたの情婦にはなりませんよ。おわかりになりまして。ですから絶対に無用ですわ。それどころかあなたにとってためになりませんわ。そんな望みに固執なさることは……さて、と……これで手術はすみました……私たちはお友だちに、仲のいいお友だちに、それこそほんとに、何の下心もない、ほんとのお友だちに、なりませんこと、いかが?……」(上巻・178~180)
この言葉を読むだけでマドレーヌという女性がただ者でないことが分かる。それだけに改めて、この聡明な女がジョルジュと再婚することになったのか理解しかねることになる。わたしは引用しながら『白痴』のナスターシャ・フィリポヴナを思い浮かべていた。マドレーヌはナスターシャと似てはいないが、ナスターシャがここに引用したような言葉を、彼女と関わった男たちに発していてもおかしくはない。イヴォルギン将軍の秘書を勤めていたガヴリーラは、将軍の三女アグラーヤを愛していたが、将軍からナスターシャとの結婚を勧められると、持参金に目がくらんで心が揺らぐ。ガヴリーラはロスチャイルドになることを夢見ていた野心家であったが、心の動揺を看破されてアグラーヤの愛を失い、ナスターシャからは名の日の祝いにおいて公衆の面前で大恥をかかされることになる。ここで詳しくは語らないが、ナスターシャにぞっこん惚れてしまったラゴージンは結局彼女を殺す羽目に陥る。ナスターシャに同情していたムイシュキン公爵は、ラゴージンの殺人に対して共犯者の自覚を持って苦しみ、白痴になってしまう。ナスターシャと関わって決定的な破滅を免れたのは、ナスターシャの処女を奪い、エパンチン将軍の長女アレクサンドラと結婚しようとしていた地主トーツキイと、ナスターシャにひそかに首飾りを贈っていたエパンチン将軍の二人だけである。要するにナスターシャのような女に近づく男は自己破滅に至る狂気、白痴を引き受けなければならなくなる。このファナティックな自尊心の強い絶世の美女に許された距離を越えて一歩でも踏み込めば、例外なく破綻を免れないのである。ドストエフスキーはその悲劇に至る戦慄的なドラマを描ききったと言える。
モーパッサンの描くマドレーヌは予め警告を発するような用意周到な人妻であり、自ら破滅を望んで行動する女ではない。
美は恐ろしいものだ。美を膝の上に乗せて愛撫してやろうといった詩人がいるが、もちろん美の恐ろしさをよく知った上での言葉だ。『アンナ・カレーニナ』を書いたトルストイもまた美の破壊的恐ろしさをよく知っていた作家である。レーヴィンはトルストイをモデルにしていると言われるが、レーヴィンは心底からアンナを恐れていた。ドストエフスキーももちろんのこと美の恐ろしさを知っている。だからこそラゴージンのナスターシャ殺人とムイシュキン公爵の白痴に終わるドラマを描くことができた。
ドストエフスキーは或る特定の場所に主要人物を集め、そこでゴシップ、スキャンダルな事件を起こし、人物たち各々の秘密を公衆の面前に晒すという小説作法を得意とした。ナスターシャの名の日の祝いにおける十万ルーブリ(この金はナスターシャを獲得するためにラゴージンが用意した金)の包みを暖炉に投げ入れる場面などはその代表的場面である。この場面でガヴリーラの打算的目論見は徹底して暴露され糾弾され、彼自身はみんなの面前で失神卒倒することになる。こういった小説作法を『ベラミ』の二日目に見ることができる。フォレスチエ家のパーティに招かれたジョルジュはそこで『ベラミ』の主要人物全員と顔を会わせることになる。読者もまたこの場面で主要人物全員を紹介されることになる。ここで話題になったテーマ、参加者各々の発言を通して読者は彼らの諸特徴を知ることになる。
ところでわれわれは、ここでジョルジュの発言内容を直接知ることはできない。彼がどのような声で、どのような言葉で発言したのか、作者はそれを直接書くことを控えてもっぱら自分が代行して〈説明〉ですましている。先にも何度か指摘しているように、政治、経済、文学、美術、音楽、宗教、哲学等に関してなんら独自の考えを持っていないジョルジュが専門の時評家や詩人、新聞記者などを前にいったいどのような発言ができたというのであろうか。しかもここには「ラ・ヴィ・フランセーズ」社長のヴァルテール氏や、その他社交界慣れした賢く美しい夫人たちが揃っているのだ。ジョルジュに少しでもその場の空気を察する賢明さがあれば、微笑を浮かべて終始沈黙を守ることが最善の途と心得たであろう。にもかかわらず、その禁を犯したのはジョルジュというよりは、明らかに作者である。作者はわたしのような読者に対していかなる弁明を用意していたのであろうか。社交界で女を利用してのし上がっていくという役割を負わされた主人公ジョルジュは、このパーティで招かれざる美貌の愚者を演じるわけにもいかなかったということであろうが、それにしても苦しい設定である。
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「清水正研究」No.1が坂下ゼミから刊行されましたので紹介します。
令和三年度「文芸研究Ⅱ」坂下将人ゼミ
発行日 2021年12月3日
発行人 坂下将人 編集人 田嶋俊慶
発行所 日本大学芸術学部文芸学科 〒176-8525 東京都練馬区旭丘2-42-1
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