『世界文学の中のドラえもん』を読む・北村哲士

『世界文学の中のドラえもん (D文学研究会)全国の大型書店に並んでいます。池袋のジュンク堂書店地下一階マンガコーナーには平積みされていますので是非ごらんになってください。我孫子は北口のエスパ内三階の書店「ブックエース」で販売されます。

四六判並製160頁 定価1200円+税

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『ドラえもん』の凄さがわかります。
http://www.youtube.com/watch?v=1GaA-9vEkPg&feature=plcp
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『世界文学の中のドラえもん』を読む
   ―深層世界からのよびかけ―             

 北村哲士 


『世界文学の中のドラえもん』という著作は、清水正先生の作品批評へのふるまいを記したものとして、絶好の入門書と言えるのではないだろうか。なぜならわたしは思い出すからだ、忘れもしない、福島県の高校に通っていた頃のこと、そうあれはちょうど大学受験をまぢかにひかえた時期、三年生の冬のことだったが、不真面目な高校生だったわたしは東京の大学試験場の下見に行くという名目で(もちろん本当に下見はしたのであるが)、本屋めぐりばかりしていた。その本屋めぐりの最中にわたしは一冊の書物と偶然(と言うべきか)出会ったのだ。いったいどうしてその時、その本を手にしたのか、今となっては真相はあきらかではないが、とにかく、出会ったのだ。その本の著者こそ、すなわち清水正先生だったのだ。そしてその本は『宮崎駿を読む 母性とカオスのファンタジー』(鳥影社)だったのである。本の一番うしろの頁に購入した日付も記してある、「平成十四年一月二十日」と。しかしじつは、わたしは「清水正」という人物が日本大学芸術学部の教授であることはすでに知っていたのだ。なぜ、知っていたのか。おそらくだが、今もその性分は変わっていないが、高校時代、自分の志望校の様子を遠くからながめ、自分の感性のアンテナにもっとも近しい人物をさがしていたのではないかと思うのだ。わたしの悪い点でもあるのだが、肝心の受験勉強がおろそかになり、「自分の感性のアンテナにもっとも近しい人物」を探すことに熱中したのだろう。さまざまなことがらは端折って言う他ないのだが、その時にうかびあがってきた方というのが清水正先生だった。今でも福島県福島市の実家の自室にあるスクラップブックには、清水正先生がお書きになった文芸時評や批評に関するインタビュー記事などがたくさんはりつけられている。高校時代に読んだ清水正先生の著作は、指を折って数えてみると三、四冊にすぎないが、今村昌平に関するもの、つげ義春に関するそれ、そしてドストエフスキー論、おおきくわけてそんなふうになる。
 さて、いつまでも思い出話にひたっているわけにはゆくまい。そう、『世界文学の中のドラえもん』のことだ。わたしが本稿の冒頭で「絶好の入門書」と書いたことには理由があって、前述した『宮崎駿を読む』のなかで「『となりのトトロ』について―日大芸術学部講座「雑誌研究」の授業(一九八九年七月十一日)より―」という項目があり、その講義において、清水先生は宮崎駿の映画作品『となりのトトロ』の主要登場人物であるふたりの姉妹、サツキとメイの母親が、じつはもう「死んでいる」と言及している箇所があったからだ。清水先生はつぎのように語る。
《それで、バスに乗っている<お母さん>の顔ですが、まるで幽霊バスに乗っているように蒼いですね。つまり、わたしの考えによりますと、ここで<お母さん>は死んでいます。もちろん、このアニメを見てですね、その、小さな、小学校四年生ぐらいの子供とか、まあ大人でもそうですが、ここで<お母さん>が死んでいるなどとは誰も思わないでしょう。が、実は死んでいるんです。》
 わたしはこの箇所を初めて読んだ時、決して残酷なことを言っているとは思わなかった。もはや説明も必要のない「国民的」な映画作品である『となりのトトロ』の「お母さん」が「死んでいる」という、あるひとつの見方を、観客として自らの内に取り込むことによって、この牧歌的な作品は異常なほどのふくらみ・豊饒さを持つことになるのだ。わたし自身、この説にショックを受けたが、その衝撃は必ずしも反発ではなかった。そして生意気な言い方になってしまうが、こういう作品の見方をすることがひとつの批評のありかたならば、批評というものもおもしろいものだな、と思ったのである。
 さて、『世界文学の中のドラえもん』の批評においても、清水先生の方法は変わらない。「絶好の入門書」たるゆえんは、本書において、いわば「清水批評」と呼べるものがいくつか散見されるからだ。すなわち、マンガ作品批評においての方法―一コマを執拗に読み解く―、そしてこれはマンガ作品批評にかぎった方法ではないが、ある(文学・映画・マンガ)作品の「解体と再構築」である。まさしく右に挙げた『となりのトトロ』論にもあてはまることで、『となりのトトロ』という「作品」は一度、バラバラに「解体」され―「お母さん」の死―、そうしてふたたび「再構築」―わたしにとっては「鑑賞」する目が変わった―される。それは『世界文学の中のドラえもん』にも「応用」されている。
 『世界文学の中のドラえもん』においてなによりも驚かされるのは、いくつかあるが、やはり主人公である「のび太」が実存的な危機におちいり、本文の言葉を借りれば「のび太はドラえもんが現出した時点で死んでしまった子供」だと言及する箇所だろう。しかし「のび太」は「あの世の逝ってしまったのではない」。「のび太」を「ろくでもない運命」から「救ってくれる存在」があらわれたことで「のび太」は「復活」する。まさしく、作品の「解体と再構築」である。人は「解体」されることで、非常に不安定な心持ちになるものだ。わたし自身、子供の頃から親しんできた『ドラえもん』という作品の愛すべきキャラクター「のび太」が死んでいるという説に、なんだか心もとない思いにとらわれたものだ。しかし「再構築」は意志・努力によってなされるもので、そして「再構築」することによって人はあらたなる物語をつくりだす。この『世界文学の中のドラえもん』における「解体と再構築」は、スライドさせると「死と再生」ということになるだろう。それを清水先生は『ヨブ記』や『カラマーゾフの兄弟』、また宮沢賢治の諸作品を並列に置きながら「再構築」させてみせる。「再生」してみせる。その「再構築」「再生」の結果、どのような「物語」が展開されたのか、今ここで書く紙幅を持たないが、『ドラえもん』の作品世界が、またあらたなる様相を呈してすがたをあらわしたことはたしかだ。
 『世界文学の中のドラえもん』にかぎらず、作品の「解体と再構築」という方法を手にした清水正先生は、次にどのような「物語」をつむいで下さるだろう。きっとその先にはあたらしい地平がひろがっているにちがいない。