『世界文学の中のドラえもん』を読んで・松原悠生

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http://www.youtube.com/watch?v=1GaA-9vEkPg&feature=plcp
 『世界文学の中のドラえもん』 (D文学研究会)

全国の大型書店に並んでいます。
池袋のジュンク堂書店地下一階マンガコーナーには平積みされていますので是非ごらんになってください。この店だけですでに?十冊以上売れています。まさかベストセラーになることはないと思いますが、この売れ行きはひとえにマンガコーナーの担当者飯沢耕さんのおかげです。ドラえもんコーナーの目立つ所に平積みされているので、購買欲をそそるのでしょう。
我孫子は北口のエスパ内三階の書店「ブックエース」のサブカルチャーコーナーに置いてあります。
江古田校舎購買部にも置いてあります。

「マンガ論」平成二十四年度夏期課題

『世界文学の中のドラえもん』を読んで
松原悠生
 ドラえもんというと日本だと誰もが知っている。
十年以上前になるが、インターネットを使い始めた小学生の頃、“どらえもん”と打ちこむと、“ドラえもん”と、“ドラ”はカタカナで“えもん”はひらがなでしっかり変換され感動したのを思い出す。
その後、携帯電話でメール文章を使いは始めたとき、ふとしたときに予測変換に“ドラえもん”と出てきたときにも驚いた。
何が基準となって予測変換が登録されるのかは全く不明だが、間違いなく浸透しているということだけは窺える。
 『世界文学の中のドラえもん』を読み、ドラえもんという<生き物>は一体何なのだという問いかけが強いテーマになっていると感じた。
そこで私は一つ仮定してみる。ドラえもんはただ、適当で軽薄な未来人なのではないか、と。
「三十分後には首をつる。」「四十分後に火あぶりになる」といきなり正体もわからないまま言いだす。脈絡がなさすぎて理解できない。
現実的に考えて首をつるということはそうそうない。ましてその十分後に火あぶりなど尚更ありえない。
著書の中で時間についても触れていたが、首つり状態の四十分後に火あぶりになるとも、このセリフだと受け取れるが、それを加味したとしてもまずこんなことはないだろう。
不安を煽るだけ煽っといて、登場したら「ぼくはきみをおそろしい運命からすくいにきた。」と言う。こんなのまるで子供ではないか。幼すぎではないか。
小学生が友だちに見栄を張りたいが為に口から先に出てしまった虚言のよう ではないか。
 実際にこの後、のび太が事故で首つり状態になり、事故で暑い湯の中に入ってしまった。
しかし、これは火あぶりになるのか?いやならないだろう。のび太が「これも一種の火あぶりだ」と言っているが私にはこじつけに思える。
無理に当たったことにして、これを真実にしているのは他ならぬのび太自身である。
 未来人故に、ひどく苦しい思いをのび太はするが絶対に死なないとわかっているからなのか、ひどく軽い態度である。
もちのことを知らないのに何の警戒心もなく「うまいもんだなぁ。」と、相当なリラックス状態で呑気なものである。
これは、十分適当な未来人であるという証拠になり得る。
 こんな自分の暗い未来に対して 軽い対応をするやつの言うことを、人はそうすぐに信じられるであろうか。私は信じることはできない。
しかしのび太は警戒心満載ではあるが信じ始めている。のび太が単純に頭が足りないのんびり屋ということもあるだろう。けどそれだけではない。
 そこにドラえもんの丸々としたフォルムが関係してくるのではないか。平和・幸福・調和・安心などを意味し、不安や恐怖を与えないと著書の中に記してある通りだ。
このドラえもんがドラえもんたる由縁の丸いフォルムでのび太はドラえもんを信じてしまった訳だ。
 このドラえもんをについて、思うことはもう一つある。このマンガは母性が強すぎる。ドラえもんの丸々した姿が無意識に母性を感じさせるのもそうだ。
次に、両親が「よけいな心配しないで、のびのび育ってね。」「のび太はきっとしあわせになれるよ。」と言ったり、第一話に出てくる両親の描写を見ている限りだとどうも甘い印象を受ける。
息子が突飛なことを言い出しても、マンガ家になれるなと空想力を褒めだす始末だ。
中流家庭の子供は、猛勉強して一流大学に入り、一流企業に就職するということを望まれているというがこの家庭にはあてはまらないだろう。
のび太の周りには母性と母性しかなく、父性が圧倒的に不足している。
 この第一話時点ではこのドラえもんをという作品が人気が出て、アニメ化し何年にもわたる国民的長寿アニメになって世代をまたぐことになるとは思っていなかったかもしれない。
しかし、こういうマンガであればこそ、父性を表して欲しかったと思う。
ではその父性というのは何かということになるが、私はそれを見守る愛だと思う。口うるさく言わない。手助けを細やかにする訳でもない。しかし最後の最後にダメなものダメと決断してくれるという存在だ。
そんな存在こそが、勉強もスポーツもできない、芸能関係の才能がある訳でもない劣等生なのび太を救ってくれるのではないかと思う。
 これは今の世にも通ずるような気がする。
マンガ規制条例ができたり、テレビで何かあると本当に些細なことでもクレームになり不適切だと問題になる。口うるさい且つ馬鹿馬鹿しいことこの上ない。
こういう時代だからこそドンと構える父性が欲しくなる 。しかしそれも難しいのだろう。
単純に規制したり、うるさく言ったりするほうが楽だからだ。人は好んで苦しいほうを選んだりはしない。
そういう人間の心理があるから、ドラえもんはヒットしたのだろう。
自分は何もしなくても欲求は満たしたい。楽したい。という“夢”のあるマンガだからこそ。