2018年11月23日 「清水正・ドストエフスキー論執筆50周年記念 清水正先生大勤労感謝祭」第一部「今振り返る、清水正先生の仕事」(日大芸術学部資料館に於いて)で挨拶する此経啓助氏(元日芸文芸学科教授)
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自宅(清水正・D文学研究会)の住所名が昨年下記のように変更になりました。
〒270-1151 千葉県我孫子市本町3-6-19
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「池田大作の『人間革命』を語る──ドストエフスキー文学との関連において──」
動画「清水正チャンネル」で観ることができます。
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これを観ると清水正のドストエフスキー論の神髄の一端がうかがえます。日芸文芸学科の専門科目「文芸批評論」の平成二十七年度の授業より録画したものです。是非ごらんください。
ドストエフスキー『罪と罰』における死と復活のドラマ(2015/11/17)【清水正チャンネル】 - YouTube
「ドストエフスキー曼陀羅」9号に掲載した此経啓助氏の原稿を連載します。
此経啓助
ディープ・リーディング
清水先生の前出「自筆年譜」にこんなことが書かれていて、 漱石との符合に驚かされたと同時に、ディープ・リーディン グ(深い読み)について考えてみたくなった。驚かされた文 章は、先生が三〇代になって出版した『ドストエフスキー── 中期二作品
── 』の「自著をたどって」よりだ。
「この本の表紙に使ったのは私が十九歳頃にワラ半紙に書 いた『悪霊』論の一枚である。当時わたしは極めて小さな文 字で原稿を書いていた。ワラ半紙一枚に四百字詰め原稿用紙 に換算して五十枚ほどになる文字を書いたこともある」
漱石もまた留学中、ノートに「蝿頭の細字」で書いた。清 水先生は「神経は異常に研ぎ澄まされて」、漱石は「英国人 は余を目して神経衰弱といへり」という。二人は膨大な量の 文字を書いていた訳だが、それは膨大な量の文字を読んでい たことでもある。もちろん、自分の書いた文章だけでなく、 書く前提としての読書を指している。
漱石は「文学論」を書くために、「余は余の有するかぎり の精力を挙 あ げて、購える書を片 かたはし 端より読み、読みたる個所に傍注を施 ほどこし、必要に逢ふごとにノートを取れり」(「序」) と述べている。また、すでに「いっさいの文学書を行 かう 李 り の底 に収めたり」。漱石の読書が量の上でも、書の種類の上でも、 半端ない。
清水先生はしばしば、五〇年間繰り返し読んでボロボロに なった、また多量の付箋で分厚くなった文庫本『罪と罰』を 見せて、先生がどれだけ『罪と罰』を繰り返し重ねて読んで、 「ドストエフスキー論」を書いてきたかを示してくれた。
読書には、二人の読み方のように、多読、再読、熟読など 多様な方法がある。清水先生が「世界文学の地平」から読ま ねばならぬという宮沢賢治も林芙美子も、広く知られた大変 な読書家だ。そこで、彼らの読書法を貫く(と私が「想定」 する)ディープ・リーディングについて、言い換えれば、こ の読書法が彼らを「世界文学の地平」に到達させた理由につ いて、清水先生を引き合いに出しながら考えてみたい。
先生がドストエフスキーの作品論を何冊出版されたか。『清 水正 ドストエフスキー論全集』(全一〇巻)が最近完結し たばかりなのに、先生はさらに続編一〇巻の刊行を予定して いるという。問題は内容だが、先生が豪語するように、テー マは常に新しく、先生いわく「再読するたびに、新しいテー マが見つかる」。すでに三冊目の評論集『ドストエフスキー 体験記述 ── 狂気と正気の狭間で ── 』で、こう述べてい た。
「ドストエフスキーの作品群は、私にとって偉大な現代文 学であり現代心理学であり現代哲学であり、人間存在の深淵 に照明を与えてくれる唯一のものとして存在し続けた。ドス トエフスキーの世界を解明する作業が、現代に生きる私自身 の存在のあり方を解明する作業である限り、私は一生彼の宇 宙を彷徨い続けなければならないのであろう」(「あとがき」 より)
ここで注意したいのは、ドストエフスキーの作品に文学 が、心理学が、哲学があるかは読んで見なけれ分からない が、二〇代半ばになったばかしの青年がそれらが「存在し続 けた」と過去形で、断定していることだ。先生はよく「一〇 代で、世界がすべて見えてしまった」という。この発言を素 直に肯定すれば、先生はドストエフスキー作品に「見えてし まった」、「存在し続けた」文学、心理学、哲学を五〇年間か けて写し続けてきたことになる。先生を天才に仕立てようと している訳ではないが、「自筆年譜」に掲載された一四歳の ときの日記に記した「万物はすべてくりかえし」は、その傍 証になるかも知れない。先生はこう説明している。
「アインシュタインの相対性理論を一般者向けに書いた本 の影響を受け、時間は繰り返すという思いに至った。この時 からわたしは必然者となった。一挙に善悪観念は瓦解し、眼 前の世界は〈真っ白〉になった。これは比喩的表現ではなく、 全身体感である。世界の秘密が一挙に解けた瞬間の体験」「有は無であり、無は有である」
私はこうした出来事の原因が読書のディープ・リーディン グ(以降、DRと略す)にあると思っている。DRは読書を 通じて、本(文字のページ)が繰り広げるリアルな世界を体 感できる力のことだ。『新記号論 脳とメディアが出会うと き』(株式会社ゲンロン)は哲学者の東浩紀が主宰する「ゲ ンロンカフェ」に、東大教授の石田英敬をゲストに迎えて行 なった公開講座のドキュメントだ。そこで、石田はこんなこ とをいう。
「これからの文学理論は、『カラマーゾフの兄弟』をディー プ・リーディングする脳とはなにかがきちんと説明できて、 それとの関係でドストエフスキー文学を位置づけられないと ダメだと思う」
私はそれに挑発された訳ではないが、DRを考えてみたく なった。同書で、石田は「本の頁は自然と同じような空間的 拡がりであり、三次元の奥行きを持った記憶の構築体なので す」という。それは作家の大江健三郎が再読(読み直し)を「本 の持つパースペクティヴのなかで読むこと」(『憂い顔の童子』 より)という説明と重なる。続けて、そう語る作中人物は 「それが言葉の迷路をさまよっているような読み方を、方向 性のある探求(クエスト)に変える」と続けている。大江は これが哲学者のロラン・バルトからの引用だと断っているの だが、バルトは『S/Z』で、再読を消費(読み捨て)から 救うすぐれた読み直しについて、それは良き再読者が「テキ ストをその多様性と複雑性のなかで増殖させるからである」 と解説している。清水先生はこの良き再読者だが、同時にこ の「パースペクティヴ」を瞬時に見てしまうDRの持ち主で もある。つまり、先生の批評方法「解体と再構築」の「解体」 とは、このDRではないだろうか。とすれば、「再構築」は「見 えてしまった」ものを書き写す作業のことではないだろうか。 同時に、良き再読者の先生は、新しく「増殖」した「テキス ト」をもとに、新しい批評を書く。
このDRの持ち主である漱石もまた、学生時代・留学時代 のDRを通じて、「文学論」の「世界がすべて見えてしまっ た」に違いない。だから、いきなり「およそ文学的内容の形 式は(F+f)なることを要す」と書き出すことができたのだ。 「文学」とは何かを究めたら、自らの創作でその真実を証明 しようと計画していた漱石は、「文学論」三部作を短期間で 書き上げなければならなかった。中途半端に出版してしまっ た事情について、漱石は『文学論』「序」で弁明しているが、 私は結局「見えてしまった」ものを書き写す時間が足りなく なってしまったからだ、と思っている。
また、文芸批評は他人の作品を批評する作業なので、どう しても他人の作品を引用することがしばしば起こる。「文学 論」の漱石も清水先生も引用の回数が多いばかりでなく、引 用文が長い批評家だ。「文学論」の引用回数は三二〇余り。
清水先生は「自筆年譜」の『「虐げられた人々」論』(一九八一 年)の「自註」で、こう書いている。
「ドストエフスキーの作品を読めば読むほど全文引用する より他はないのじゃないかと思い、現にこの論考はかなり引 用が多い。長い引用は、批評家にとってはどこかしら屈辱的 な思いを感じるものである。引用も批評のうちと開き直って 論をすすめたが、やはりそれが批評として成功したとは思え なかった。この思いは今でも変わらない。しかし、長いドス トエフスキー研究の途上でこういった引用だらけの批評も あっていいのではないか、こういった地点も通過していかな ければ先に進めないのだ、と思ったことも確かである。
『虐げられた人々』のワルコフスキー公爵が発する言葉は きわめて魅力的で、彼の言葉はいくら長く引用しても退屈す ることは全くなかった。彼の〈言葉〉を乗り越える〈言葉〉 ははたしてあるのだろうか」
DRは作品の内と外の時間を統一して、現在の一点にして しまう。「日記」に「有は無であり、無は有である」と記し た清水少年は、六〇代になって、「〈有〉とは全世界、全宇宙、 全自然、今、ここに現象するあらゆるものを指している。 〈今、ここ〉とは〈過去〉(もはやない)と〈未来〉(まだない) の合流する零を意味する」(『д文学通信』一四二六号)と説 明しているが、現在の一点とはその「今、ここ」といっても いい。鶴見俊輔のいう「世界を一つのものとしてとらえる感覚で貫かれているもの」である「世界文学の地平」といって もいい。そこに現象する批評対象の作品は、現実の世界のす べてが私たちにそのまま引き受けてほしいように、ミメーシ ス(現実描写・模倣)されることを願って、存在している。
長い引用文は「世界文学」のミメーシスを尊重している証 なのだ。それは交換のきかない「今、ここ」そのものだ、と いってもいいだろう。「世界文学」は浅い読みでカテゴリー 化されることを拒んでいる。「世界文学」はDRを通じて、 文字どうりの「世界」につながる「文学」になる。DRの見 た「世界」は、「世界文学の地平」に到達した作家・批評家 によって、それぞれに異なる。漱石が見た「世界」、清水先 生が見た「世界」、それらを発見することが読者にとっての DRの楽しみだ。