清水正の『浮雲』放浪記(連載33)

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清水正研究室」のブログで林芙美子の作品批評に関しては[林芙美子の文学(連載170)林芙美子の『浮雲』について(168)]までを発表してあるが、その後に執筆したものを「清水正の『浮雲』放浪記」として本ブログで連載することにした。〈放浪記〉としたことでかなり自由に書けることがいいと思っている。
 清水正の『浮雲』放浪記(連載33)
平成22年6月30日(水曜)
ゆき子は伊庭の置手紙を読んですぐに破って七輪に投げ込んで焼いてしまう。ゆき子は故郷に帰る気などさらさらない。ましてや伊庭の家族や親族のいる前でどんな顔をしていればいいのだ。伊庭は凡人には違いないが、もし凡人だとして、凡人とは、ロジオン・ロマーノヴィチ・ラスコーリニコフのように凡人でありながら自らを非凡人と錯覚してしまうような中途半端な男よりははるかに強靱な生活力と精神の持ち主である。
伊庭のような凡人を見くびってはならない。伊庭は、関係を持ったゆき子を自分の方から切り捨てたことはない。ゆき子に富岡という卑劣な男(ダラットで結婚を約束して、一足先に日本に引き揚げてくると知らん振りを決め込む男)ができたことを知っても、そんなことで彼は微塵の嫉妬も覚えることはない。伊庭は自分自身を見栄を張って着飾ることはない。自分の俗っぽさをよく自覚しているし、他人の俗っぽさも見逃さない。
小説において伊庭と富岡が直接会う場面は一度もなかったが、もしあったとすれば富岡のダンディズムなど一笑に付されたことであろう。伊庭の現実主義の眼差しは富岡はもとより、そんな愚劣な格好つけの男に惚れたはれたのアホな芝居に没頭しているゆき子をお見通ししてしまうのである。
伊庭の現実主義の根底に潜んでいるのもまた虚無である。伊庭の虚無は成宗専造を教主に仕立てあげてインチキ宗教・大日向教を創始して金儲けに走っているが、彼ほど金の空しさを知っている者もない。富岡は実業の世界においては敗北者、伊庭は成功者である。ゆき子は嘘つきで、事業に失敗した惨めなぼろ雑巾のような富岡を選び、伊庭を捨て去る。ゆき子にとって伊庭は安全パイのような存在で、現実世界の避難所、休憩所に過ぎなかったのであろうか。
伊庭は元銀行員らしく、なんでも計算づくで人生の収支決算をはかっている。ゆき子との関係は最初から〈取引〉であったと見た方が的確である。伊庭にとって、ゆき子の魅力はその若い躯であり、その躯と引き替えに下宿代を無料にし、タイピスト学校の月謝を支払っていたと見た方がいい。『罪と罰』のルージンや伊庭のような男は所詮そんなケチくさい計算で生きているのである。