清水正の『浮雲』放浪記(連載112)

デヴィ夫人のブログで取り上げられています。ぜひご覧ください。
http://ameblo.jp/dewisukarno/entry-12055568875.html


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ここをクリックしてください エデンの南   清水正の林芙美子『浮雲』論連載    清水正研究室  
http://shimi-masa.com/ 清水正の著作   D文学研究会発行本   グッドプロフェッサー
清水正研究室」のブログで林芙美子の作品批評に関しては[林芙美子の文学(連載170)林芙美子の『浮雲』について(168)]までを発表してあるが、その後に執筆したものを「清水正の『浮雲』放浪記」として本ブログで連載することにした。〈放浪記〉としたことでかなり自由に書けることがいいと思っている。



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 清水正の『浮雲』放浪記(連載112)

平成□年7月21日 
 ゆき子は「私、まだ、ぶらぶらしております。よくなったら、今度こそ、堅実な職場をみつけて働くつもりです」と書いている。が、ゆき子は本気で〈堅実な職場〉を探す気はない。〈堅実な職場〉を本気で探すゆき子は、富岡に手紙など書くこともないし、伊庭の金銭的援助を受けることもない。ゆき子は伊庭、富岡、ジョオとの関係を見れば分かるように、妻子持ちの男か結婚できない男との性交渉を繰り返している。ゆき子は〈堅実な職場〉や結婚とは無縁な生活を送っていくしかないのである。この小説においてゆき子の家族、特に父親に関してはまったく触れられていないが、伊庭や富岡はゆき子が無意識のうちに求めていた〈父〉の代理的な存在と言えよう。ゆき子は内なる〈不在の父〉を不断に求めていた〈放浪者〉であるという点で、作者林芙美子を色濃く反映している。
 ゆき子は富岡に対する想いをストレートに露わにしている。「やっぱり逢いたいのです。女の未練かもしれませんが、ゆき子は、あなたと別れる話はしていないではありませんか」こういったセリフは相手に対する絶対的な信頼がなければとうてい書けるものではない。ゆき子は、富岡にとって自分の存在がなければならないものだという確信がある。この確信は一人勝手な思い込みでしかないが、ゆき子はこの確信なくしては生きられない。少なくとも富岡との関係を維持していくことはできない。
 ゆき子は結婚の約束を反古にした富岡を、おせいと関係した富岡を憎んでいる。が、この憎しみは富岡と別れる決定的な要因にはならない。なぜ、こんなにもゆき子は富岡に執着するのであろうか。一つ考えられることは、ゆき子にとって富岡は、求めても求めても実体感を得られない〈不在の父〉そのものであったからかもしれない。もし富岡が積極的にゆき子を求めてきたら、逆にゆき子の熱は冷めたかもしれない。富岡は底なしの〈虚無〉を抱えた男であるから、ゆき子はその虚無の果てしなさに牽かれたのかもしれないということである。
 女にもよるであろうが、女は決して〈堅実な男〉など求めてはいない。少なくともゆき子は男に〈堅実〉など求めていない。ゆき子に倫理や道徳を説いても何の効果もない。ゆき子は自分の欲望に忠実であり、伊庭に対しても、富岡に対しても、ジョオに対しても、その関係に倫理や道徳観念が介在してくることはない。ゆき子の行動を決定しているのは好きか嫌いか、得か損かであって、倫理的判断など微塵も入り込む余地はない。
 「一度、ぜひたずねて来てください。そして、あなたのあいまいでないお話を聞かしてください」ゆき子の手紙はこれで終わる。富岡がゆき子と本気で別れるつもりなら、この手紙を無視するだろう。しかし、富岡はゆき子と別れることはできない。一つは富岡にゆき子と別れるだけの強い意志がないこと、一つは作者の意向に沿った反応しかできないことによる。そのことによって富岡はゆき子の吐き出す〈蜘蛛の糸〉から脱することができない。
 ふつうに考えれば、ゆき子の手紙はうざったいだけである。富岡にとってゆき子は、彼女より先に日本へ引き揚げてきた時点ですでに〈過去の女〉であって、現在を共に生きる女ではない。尤も、だからと言って、妻の邦子がゆき子に代わって〈現在の女〉となっているわけでもない。富岡にとって唯一の女は存在しない。そのつどそのつど性愛的次元で夢中になれる女はいても、それは所詮、一過性の女でしかない。ゆき子が思っているほど、富岡はゆき子を思ってはいない。ただ、富岡は相手の女が彼に執着するその執着の根拠を完全に滅却することができない。富岡は〈曖昧〉な態度をとり続けることで、ゆき子の未練に応えてしまう。ゆき子は微かな望みを抱き、富岡を自らの巣穴に誘い込む準備を怠らない。
 ゆき子は富岡に「あいまいでないお話」を聞かせてくださいと書く。生温き人・富岡は〈あいまい〉以外の態度をとれない。子供を生んでくれ、という言葉さえ〈あいまい〉であった。男が発する言葉には責任が伴う。出産費も育児費も保証できない富岡の言葉は無責任で、責任ある大人の男の言葉ではない。要するに、富岡のような男にあっては〈結婚〉の話も、〈出産〉の話も、口に出された言葉とは裏腹に〈あいまい〉なのである。ゆき子は憎んだり腹をたてたりはするが、要するに〈あいまい〉な富岡が好きなのであって、男気のある、言動に責任を持つ富岡に牽かれたわけではない。
 富岡もゆき子と同様、一人の女に執着する男ではない。富岡は本来、女遍歴をする男であって、一定の場所で一人の女に束縛されて生きるような堅実さは持っていない。邦子がいなければ、ニウと、ゆき子が新たに現れればニウを捨ててゆき子と、ゆき子に飽いたらおせいへと、次々に相手を代えて生きていく男なのである。言い方を変えれば、富岡は一人の女に充足できない男であり、女によっては埋め尽くせない虚無を抱え込んでいたということである。ゆき子は富岡の虚無の穴を埋められるのは、結局は自分しかいないという思い込みがあって、恨みつらみを越えて手紙を書き送ったと言えようか。
 ゆき子は〈富岡の子供〉を堕胎することによって、富岡と〈子殺し〉の共犯関係をつくりあげ、負の絆の強化を図っている。ゆき子には、どんなことがあっても子供を産み育てるという、人生に対する肯定的な姿勢は見られない。もしゆき子が自らの人生を発展的に考えるような女であれば、富岡のような男との絆は真っ先に断ち切っていたはずである。ゆき子と富岡の〈腐れ縁〉の絆は作者によって保証されており、未だ富岡もゆき子も作者の〈意図〉に反逆するほどの存在とはなっていない。