清水正の『浮雲』放浪記(連載10)

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清水正研究室」のブログで林芙美子の作品批評に関しては[林芙美子の文学(連載170)林芙美子の『浮雲』について(168)]までを発表してあるが、その後に執筆したものを「清水正の『浮雲』放浪記」として本ブログで連載することにした。〈放浪記〉としたことでかなり自由に書けることがいいと思っている。
 清水正の『浮雲』放浪記(連載10)

平成△年4月23日
映画『浮雲』と原作『浮雲
 わたしは映画『浮雲』を観て、たいへんすばらしいと思い、そのことに刺激を受けて原作『浮雲』を読んだ。原作『浮雲』を徹底して批評してみようと思い、二〇〇九年の四月からとりかかった。この『浮雲』論は未完であるが、すでに七百枚を越える長編批評となっている。が、途中から批評衝動が減退した。富岡兼吾がにっちもさっちもいかなくなり、ゆき子を道連れにして心中しようと空想するあたりから、わたしは人物にリアリティを感じなくなった。『浮雲』は富岡とゆき子の腐れ縁が延々と続くが、わたしの中ではいつ幕が降りても一向に不自然には思えなかった。女と男のリアルな関係を富岡とゆき子に当てはめて見れば、彼らの別れは、まず富岡がゆき子を置き去りにして、ひとりさっさと日本へ引き揚げてきたその時点で実現していたはずである。富岡はゆき子に、妻邦子と別れて結婚するという口約束をして日本へ戻ったわけだが、この〈約束〉が別れの〈挨拶〉程度のものであったことは明白で、もしゆき子がそれを察することのできない女だったとすれば、こんなやぼったい女はいないということになる。

平成△年4月27日
 映画『浮雲』を最初に観た時に感じたのは、富岡役を演じた森雅之とゆき子役を演じた高峰秀子の美しさである。森雅之黒沢明監督の『白痴』でムイシュキン公爵役を演じていたが、その印象が強く脳裡に刻まれていて、どうも富岡役の森雅之ムイシュキン公爵役の森雅之が重なってしまう。富岡はずるくて卑怯な男であるが、森雅之の端正な顔立ち、彼が全身から醸し出している優雅で高貴なオーラが、原作の富岡兼吾の卑小な存在性格から逸脱してしまっている。原作の富岡を嫌な男と思っても、映画の森雅之には退廃的な男の魅力がにじみ出ている。日本に引き揚げて来て、農林省を辞め、材木の事業に手を出して失敗した原作の富岡は惨めの極地に生きている。皮肉な言い方をすれば、こんな男に惹かれ続けるような女はゆき子以外にはいない。
 わたしは原作『浮雲』を読みすすめながら、何度も富岡とゆき子の腐れ縁に嫌気がさした。この嫌気のうちには、彼ら両人が関係を続けるその必然性が感じられなかったことがある。
 男と女の間には本人同士にしかわからない、つまり他人には絶対に理解不能な領域があるのだ、と道徳一本槍のロジオン・ラスコーリニコフに語ったのは海千山千の淫湯漢スヴィドリガイロフであった。富岡とゆき子を繋げているのは精神的な次元のものではない。彼らは性愛的な次元での悦楽を共有することによって結ばれている。分別を働かせれば、日本に引き揚げて来た二人が取るべき道はただ一つ、きっぱりと別れることしかない。富岡は戦争中、苦労しつづけで家を守ってきた妻の邦子を捨てることができない。富岡は分別の命令するままに、ゆき子と別れるつもりでいながら、しかしゆき子の激しい欲求を回避しきれない。
 ゆき子は富岡に限らず、誰に対しても理性や分別で対処しない。世の中に、まったく打算のない人間はいないが、ゆき子の場合、その打算は性愛的欲求を押さえて発露することはない。描かれた限りでみれば、ゆき子の最初の男は親戚の伊庭であるが、この男とゆき子は三年もの間、不倫の関係を続けた。妻も子供もある中年男と三年もの間、その秘密を知られずに関係を続けたということをどのように理解したらいいのか。ゆき子は年に似合わず、そうとうにしたたかな女だったということになりはしないだろうか。
 林芙美子は、ゆき子が伊庭に下宿代を払っていたのかどうか、タイピスト学校の学費を誰がどれくらい負担していたのか、その具体をいっさい書いていない。ゆき子は伊庭の家に来て、一週間目に強姦されるわけだが、この〈強姦〉とそれに続く伊庭との不倫の関係が、下宿代や学費の代償であった可能性は大いにある。二人の関係を、読者には内緒の、伊庭とゆき子の間に交わされていた〈契約〉と見れば、ゆき子は生活的な次元ではかなりしたたかな女であったということになる。伊庭との関係において、ゆき子は好きとか嫌いとかいった恋愛感情や、良いとか悪いとかいった道徳的感情に悩まされたことはない。

平成△年4月28日
 映画『浮雲』の印象は要するに森雅之高峰秀子といった美男美女のイメージが前面に出ていて、延々と続く二人の腐れ縁の、その嫌らしさが消されている。ダラットの森を歩く森雅之高峰秀子の姿は、若者同士の溌剌とした新鮮さを彷彿とさせ、不倫の嫌らしさをまったく感じさせない。遠く祖国を離れ、開放的な気分のなかにあってゆき子は、心の底から惹かれた男の後を追っていく。
 原作『浮雲』では、富岡と安南人の女中ニウの関係もきちんと描かれているが、映画『浮雲』では富岡とニウの関係は露骨に表現されることはない。ニウ役の女優は、もっぱらゆき子を見る、そのまなざしだけでゆき子に対する嫉妬の感情を示している。高峰秀子はニウのその視線にある種の戸惑いを見せるが、しかしニウの挑戦的なまなざしに打ち勝つ内心の強さも、その目に反映させている。しかし、原作を読んでいなければ、富岡とニウの関係の真実を観客は知ることはできないだろう。
 成瀬巳喜男は富岡とゆき子の関係ばかりではなく、富岡とニウの関係も、露骨な性的場面はすべてカットしている。ダラットでの富岡とゆき子の接吻シーンも軽く、美しく描くにとどめている。ましてや生々しい、肉と肉のぶつかりあいや、ゆき子が苦悶のうちにのたうち回るようなシーンは取り上げない。
 原作『浮雲』においてゆき子とジョオが小舎で関係を結ぶ前のシンボリックな場面などは、ゆき子が富岡との関係を精算して新しい人生の第一歩を踏み出す重要な場面だが、そういったことに関しても成瀬巳喜男はあまり頓着せずに通り過ぎている。ゆき子とジョオのセックスの場面をきちんと映像化しないと、ゆき子における富岡との決別の仕方が明確にならない。
 原作『浮雲』においても、ゆき子がジョオ以外の外人兵士と肉体関係をもっていたのかどうかははっきりと描かれていない。というより、原作を描かれた限りでみれば、ゆき子はジョオ以外の外人兵士と関係を結んではいない。ゆき子は大陸的豊穣さをつ持った外人兵士ジョオに好感を抱いている。だからこそ、読者はジョオよりも、富岡を敢えて選ぶゆき子を理解しがたい。
 富岡はジョオに嫉妬しないし、ゆき子が彼以外の男と関係する仕事に踏み込んだことを責めもしない。これは富岡の寛容を意味してはいない。富岡にとってゆき子は、唯一絶対の伴侶として考えられたことは一度もない。富岡にとってゆき子との〈結婚の約束〉は彼流の別れの儀式に過ぎない。ゆき子は決してバカな女ではないから、富岡の見栄や狡さなど百も承知の上で、富岡を追い回している。わたしはゆき子の富岡に対する復讐心が、彼女の富岡に対する執拗な追っかけを促していると見ている。
 富岡に人間としての魅力はない。強いて言えば、富岡の虚無が唯一の魅力となっている。富岡は虚無を貫いた。もし富岡が人生の意義などに目覚めたら、その瞬間において彼の魅力は消失する。どんなにゆき子が執拗に富岡を追っても、富岡の虚無に追いつくことはできない、まさにそのことが富岡の魅力となって、ゆき子を虜にしてしまう。富岡はゆき子の絶望や悶えに同調したことはない。富岡がもしそのような男であったなら、ゆき子を引きつけることはできない。富岡とゆき子の関係は理性や分別の次元を超えている。二人の間にきれいごとは通用しない。
 作者は二人の〈関係〉を裁き罰する眼差しを向けたことはない。作者林芙美子が自分の作品に対して絶対的な神の立場に立っているとしても、この神は人物を裁きもしなければ罰しもしないのである。試み、罰する神が不在な現実の世界にあって、富岡とゆき子は救いようのない浅瀬の泥沼ですべったりころがったりするほかはない。