清水正の『浮雲』放浪記(連載71)

清水正への原稿・講演依頼はqqh576zd@salsa.ocn.ne.jp 宛にお申込みください。
ドストエフスキー宮沢賢治宮崎駿今村昌平林芙美子つげ義春日野日出志などについての講演を引き受けます。
ここをクリックしてください エデンの南   清水正の林芙美子『浮雲』論連載    清水正研究室  
清水正の著作   D文学研究会発行本   グッドプロフェッサー
清水正研究室」のブログで林芙美子の作品批評に関しては[林芙美子の文学(連載170)林芙美子の『浮雲』について(168)]までを発表してあるが、その後に執筆したものを「清水正の『浮雲』放浪記」として本ブログで連載することにした。〈放浪記〉としたことでかなり自由に書けることがいいと思っている。
 清水正の『浮雲』放浪記(連載71)
平成△年8月28日

ゆき子は妊娠していた。富岡に三度ほど手紙を出したが、富岡からは、そのうち行くという返事が一回あったきりで、その時、五千円の為替を送って来た。ゆき子は、郷里から持って来た衣類はほとんど売り尽して、暮しにあてていたが、少しずつ生活が辛くなって来た。軀のほうは壮健だったので、つわりも案外軽いものだったが、ゆき子は、子供を産むべきかどうかを毎日思い悩んでいた。ほしくもあった。だが、このまま葬ってしまいたい気もして来る。ゆき子は風呂へ行くか、買物に行く以外は、どこへも出ないで終日部屋にこもっていた。だが、このままで行けば、自分の生活は追い詰められて来ることが判っていた。どうにもならなくなったら、伊香保の時の気持ちをやってのけるだけだと考えてはいたが、さて、その時に、本当にやれるものかどうかは不安である。(308〈三十七〉)

「ゆき子は妊娠していた」を唐突と見るか、当然と見るかは別として、ゆき子の〈妊娠〉は、富岡とゆき子の関係を今までとは違った角度から構築するきっかけとはなる。〈妊娠〉が介在しなければ、富岡とゆき子の関係は男と女の性愛的な次元にとどまるが、〈妊娠〉は富岡を父にゆき子を母にする可能性をもたらした。作者は、ゆき子が「富岡に三度ほど手紙を出した」と記している。が、その内容に関しては何ら具体的に記していない。素直に読めば、当然、ゆき子は妊娠したことを告げているだろう。それに対して、富岡は五千円の為替を送って来たとも記している。さて、この余りにも簡単な報告を読者はどのように読んだらいいのだろうか。
 まず、ゆき子の〈妊娠〉だが、相手は富岡一人と断定することはできない。可能性としてはジョオも考えられる。林芙美子はゆき子の性愛場面を描くにあたって、ジョオや富岡が避妊の手段をとったのか否かに関して具体的に記していない。ここに引用した場面においても、作者は「ゆき子は妊娠していた」と書くばかりで、「富岡の子供を妊娠した」とは書いていない。また、ゆき子の頭にジョオのことがしばしば浮かんでいるのであれば、読者はゆき子の〈妊娠〉の相手に複数の男を考えもするだろうが、現に書かれた描写による限りは、〈妊娠〉の相手は富岡に違いないと思い込んでしまうだろう。与えられたテキストは膨大な隙間を抱え込んでおり、読者はその隙間をどのようにでも埋めていくことができる。
 富岡はゆき子の手紙を読んで、妊娠の相手をすぐに自分であると思っただろうか。富岡はゆき子と一緒に伊香保に行く前、池袋の小舎に若い外人兵士が訪ねて来たことを知っている。ゆき子がGI相手の商売を始めたことを知っている富岡に、疑心暗鬼が生じたとしても責めるわけにはいかない。それでも、富岡は〈五千円〉の為替を送って来た。この事実をどう解釈すればいいのか。富岡の手紙には「そのうち行く」と書かれていたということは、富岡が子供の出産に対して肯定も否定もしなかったことを意味している。〈五千円〉を暮しの足しにしろと言っているのか、堕胎の費用に使えと言っているのか、この返事では判定のしようがない。ただ、五千円とこの返事をもらったゆき子にしてみれば、〈妊娠〉が望まれたものでないことを骨身に染みて感じたであろう。
 富岡の立場に立てば、農林省は辞めた、材木の事業は失敗した、家は売り払って両親と妻は親戚の叔母に預けなければならない、別れようとしていたゆき子にはしつこく追いかけ回される、伊香保では若い女おせいと関係を持ってしまった、毎日金策にかけずり回らなければならない、おせいは家出して亭主の向井が探し回っている、そんなこんなの時にゆき子から妊娠したという手紙が届く。自分の身から出たこととは言え、ピンチにピンチの連続で、ここまでピンチが続くとなにやらおかしな笑いがこみ上げてくる。
 ゆき子は職も見つからず、子供を産むか産まないかを迷っている。この迷った時点で、ゆき子はすでに〈子供〉を葬っている。おそらくゆき子にとっても〈妊娠〉の相手が誰であるのか特定できなかったのかもしれない。もし白人のジョオが相手であれば、子供を産み落とした時、どんな弁解も許されない。少なくとも、富岡に対しては弁明のしようもない。おもしろいのは、こういった微妙な点に関して、作者の林芙美子は同じ女性からか、ゆき子と共犯関係を結んで、いっさい口にもしないし、思いもしない。
 ゆき子が子供を葬ってしまおうとも思った、その思いの中には単なる経済的な理由ばかりではなく、〈妊娠〉の相手を特定できなかったことも潜んでいると思うのだが、作者の描き方は、読者にそのこと自体を気づかせまいとする思惑が働いているように感じる。テキストの流れに沿って読み進んでいくと、ゆき子の〈妊娠〉の相手は富岡以外には考えられない。こういった作者の書き方は、ゆき子が上京して一週間目に伊庭によって強姦された場面でも存分に発揮されている。先に指摘したように、この〈強姦〉は、ゆき子の巧みな計算によって仕掛けられた〈取り引き〉と見ることもできる。ゆき子が伊庭に躯
軀を提供することで、神田のタイピスト学校に通っている三年間の下宿代、生活費は無料、そして月謝も伊庭が支払っていた可能性もある。こういった暗黙のうちに成立した駆け引き、取り引きに関して、作者は絶対に口を割らない。
 ゆき子が無職を続ける限り、いくら安い下宿に引っ越ししたと言っても「このままで行けば、自分の生活は追い詰められて来ることが判っていた」という事態になることは必定である。ブリキ屋の二階が敷金なしの月千円だとすれば、富岡が送って来た為替では五ヶ月分の部屋代にしかならない。生きていくためには食事もしなければならないし、風呂にも入らなければならない。極度に倹約しても、子供を産むための余裕はない。唯一頼れる富岡も頼れないとすれば、今のゆき子はまさに絶望的な状態に追い込まれていたことになる。ゆき子が自殺できるような女でないことはすでにわかっている。さて、どうするか。

 伊庭はちょくちょくやって来たが、昔の不義理については、もう責めなくなっていたし、このごろいい仕事でもみつけたのか、なかなか立派な服装をしていた。ジョオとは去年別れたきりである。ジョオの思い出と言えば、大きな枕一つになってしまった。ジョオから貰ったラジオは静岡へ帰る時の旅費に売り払ってしまっていた。(308〈三十七〉)